仁科氏
揚羽蝶/割菱* (桓武平氏繁盛流)
*名跡を継いだ仁科盛信は「割菱紋」を用いた。
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仁科氏は「岩城仁科系図」によれば、平貞盛の後裔で、中方の子盛遠のときに仁科を称したのがはじまりとなっているが、実は、大和国の古代豪族安曇氏の一支族が仁科御厨に本拠をおいて、土地の名をとって名字としたものと考えられている。
『信濃史源考』によれば、国造の一家金刺舎人某、穂高地方に在って矢原殿と崇敬されて、郡治を行い開拓に従事し、その子孫に至ってさらに奥仁科に入り、室津屋殿と崇敬されてその地方を開拓したという。そして、子孫は兵士となり健児となって、奥羽の戦役に従軍し、源氏が東国に力を蓄えるとその家人になった。
かくして、郷村の名主職、下司職、公文職などに任じられ、あるいは一村一郷を賜る者、荘園の荘官になる者などに分かれ、戦に際しては武士として出陣するようになったという。そのなかの安曇郡の大町および森に在る者は仁科を称し、大町仁科・森仁科と呼ばれるようになった。
その後、源平時代になると、源平にあらざれば武士として所領も得にくくなり、古代国造の末孫たちは、源平に祖を求め、仁科氏は桓武平氏、あるいは清和源氏などに系を繋げた系図を偽造したという。その結果、仁科氏の系図はさまざまなものがいまに伝わりながら、いずれが正しくていずれが間違いなのかを判別することがほとんど困難なものとなっている。
仁科氏の歴史への登場
仁科氏は、『平家物語』に「義仲勢に仁科」とみえ、『源平盛衰記』などにも「信濃国住人に仁科太郎守弘」とか「仁科次郎盛家」などの名前がみえ、源氏方で活躍していた様子がうかがわれる。
ところで、木曽義仲が兵を挙げ、横田河原の戦、越中国砺波山の戦を戦ったがその軍勢のなかに仁科二郎がみえる。その後、寿永二年(1183)八月、京中の保々守護巡警人のなかに仁科二郎盛家の名があり、同年十月、水島において源平両軍による船戦のとき、仁科次郎盛宗が高梨六郎高直・矢田判官代義清・海野四郎幸広らとともに源氏方の大将としてみえている。
降って、建久八年三月、源頼朝が善光寺詣でのために鎌倉を出発したとき、その随兵中に仁科太郎がいた。ついで、承久元年(1219)十月、後鳥羽上皇が熊野詣をされた。そのとき、仁科盛遠は宿願を抱き二子を連れて熊野詣に出ていたが、上皇と熊野で出会った。上皇の御尋ねに応えて、盛遠は仁科盛遠と、同二人の男子に候と奏した。結果、上皇は盛遠の二子を院中に召し西面衆とし、盛遠もまた院に仕えるようになった。これを知った北条義時は、関東御恩の侍が許しもなく院中に奉仕することは心得ずとして、仁科盛遠の所領を没収した。これに対し上皇は、勅使を立てて所領を返すように命じたが、義時は勅答申さんと上洛し、仰せに従い難き旨を勅答した。これを聞いた上皇は、幕府を倒さんと思い召されたという。すなわち「承久の乱」の引き金となったのである。
乱に際して、仁科次郎盛遠は京方として、宮崎左衛門尉貞範らと二千余騎をもって都を固めた。別説によれば、次郎は宮崎左衛門尉貞範・糟屋右衛門尉有久とともに北陸道に馳せ下り、砺波山を支えんとしたが、幕府軍に敗れて、仁科・宮崎の軍は落ち失せたともいう。その後、仁科氏の所領は没収されたようで、仁科御厨は太神宮領になったことが『神鳳抄』からうかがわれる。
承久の乱後十七年、暦仁元年、将軍藤原頼経が上洛した際に、随兵中に仁科次郎三郎の名があるが、おそらく仁科氏の一族が幕府に仕えたのであろう。そして、一時勢力は衰えたようで、鎌倉時代における仁科氏の動向は詳らかではない。
信濃の戦乱
その後、鎌倉幕府の滅亡により、信濃守護北条氏の支配が崩壊し、その領地は新守護小笠原氏に渡ったが、他の多くは信濃武士の手に帰した。その後、南北朝の内乱、室町時代を通じて武士は所領の拡大を求めて多彩な活動を展開していくのである。
正平十年(1355)八月、宗良親王が大将軍となり、小笠原氏と桔梗ケ原で戦ったとき、仁科氏は諏訪上下の大祝とともに親王方として参陣したことが知られている。しかし、信濃の南朝方の抵抗は次第に弱まり、室町幕府の支配体制が強化されて、守護の圧力が増大してくると、信濃の国人たちは領主的発展の立場からも守護権力に反抗するようになった。その中心は北信濃の村上氏を中心とする国人勢力であった。
信濃の新守護として小笠原長秀が入部するや、あまりに強圧的な領国支配を始めたため、北信を中心に、東信の国人らが連合して守護に抵抗した。応永七年(1400)に両勢力は篠ノ井で激突するにいたった。世にいうところの「大塔合戦」である。この事件の推進力となったのは、村上満信と仁科氏を盟主とする大文字一揆であった。そして、北信の国人領主である高梨・井上・須田氏もこれを支える強力な勢力に成長していた。
大塔合戦の結果は、守護軍がみじめに敗れ、長秀は命からがら京都に逃げ帰り、守護職も罷免されたのである。大塔合戦の勝利によって国人の意気はあがり、京都貴族の有する荘園などの支配を脅かし、年貢を押領するようになった。このように、大塔合戦は、北信濃の国人が封建領主として地域一円支配をすすめる上に大きな意味をもった事件であった。
とはいえ、幕府がこのような事態を許すはずもなく、やがて信濃の地は守護小笠原氏の権力が確立され、国人たちは室町幕府の政権内に組み込まれていくこととなる。そのような流れのなかで、仁科の地は守護小笠原長基に掃討され仁科右馬助は追い落とされてしまった。そして、その跡は関孫三郎盛忠が擁立されて、仁科氏を継いだという。
盛忠は、元弘三年(1333)鎌倉幕府滅亡に殉じた関日向守盛長の子といい、旧縁を頼って仁科郷に移り住み、のちに仁科城主原信濃守源義隆の婿となり、文和二年(1353)仁科家の譲りを受けて仁科弾正少弼を称し、仁科の領主となったものだと『飯砂山仁科系図』に記されている。ここに至って、仁科氏が源平双方の氏を持つことになったという。
室町期から戦国時代の仁科氏
盛忠は早くに隠居し、家督を長男の盛国に譲り、盛国のあとは盛房が継いだ。応永七年(1400)の大塔合戦には、仁科盛房が一族の駿河守盛光、千国・沢渡以下二百余騎にて参加し、守護方の坂西長国と渡り合ったことが『大塔物語』に見えているが、この盛房と盛国のあとの盛房が同一人物か否かは詳らかではない。
盛房は、永享五年(1433)三月死去し、その跡は持盛が継いだ。この年、守護小笠原政康と村上中務大輔が合戦におよび、村上氏は鎌倉公方持氏に加勢を求めた。しかし、管領上杉憲実の諌言により、持氏は出兵を取り止めた。これが原因となって公方と管領との間に不和が生じ、「永享の乱」が起こり鎌倉公方家は滅亡、ついで、永享十二年(1440)、持氏の遺児を擁した結城氏が居城に立て籠って幕府に反した「結城合戦」が起こった。この合戦に際して、守護小笠原氏は信州の武士たちを率いて出陣した。しかし、この陣に大井・仁科の両氏は加わっていない。大井氏は結城方に加担したためであったが、仁科氏の場合、領地が洪水に見舞われ、兵を出すことができなかったためだという。
文明十二年(1480)持盛が死去すると、小笠原長朝は兵を発して安曇郡に攻め込んできた。仁科盛直は防戦に努めたが守護軍の勢いは強く窮地に陥ったが、翌十三年、諏訪上社大祝家が兵を起こし、府中に侵入した。仁科盛直は香坂氏とともに大祝に呼応し、長朝の軍と戦いこれを撃ち破ることができた。
その後、長享元年(1487)将軍義尚が近江守護六角佐々木氏征伐の軍を起こし近江に陣を布いた。翌々年、仁科盛直も、村上・海野・伊奈の信濃武士たちと参陣し、戦功を挙げたことが「仁科系図」に記されている。こうして、仁科氏は着実に勢力を広げ、盛国の代になると、安曇・筑摩郡の要所に一族を分居させ、城郭を構え領地守備体制の強化に努めていた。
やがて、時代は戦国乱世の様相を濃くし、盛康の代になると隣国甲斐の大名武田晴信が信濃侵攻を開始し、信濃国内は動揺した。そして天文十一年(1542)七月、諏訪の大祝諏訪頼重が攻め滅ぼされ、晴信の部将板垣信形が諏訪郡代となって諏訪を治めた。これに対し諏訪氏の一族高遠氏が諏訪回復を目指して、諏訪に攻め込んだが、武田軍に敗れ去った。天文十四年になると、晴信は府中および伊那に進出し、藤沢氏の拠る福与城を攻撃した。
このような武田氏の攻勢に対して、府中・松尾の両小笠原家、仁科氏、伊那の諸豪らは連合して福与城の後詰めに出陣したことで、晴信はついに福与城を落とすことができず兵を引き揚げた。しかし、晴信の侵攻はやまず、佐久郡、小県郡などに攻め入り、天文十七年、塩田庄において北信の雄村上義清が武田軍と戦い、村上義清は武田軍に大勝した。
この勝利に乗じて、小笠原・村上・仁科・藤沢氏らの連合軍は、諏訪郡に討ち入った。連合軍に包囲された板垣信形は、開城に及ぼうとした。このとき、包囲軍の一翼を担っていた仁科道外は、小笠原長時に下諏訪を仁科の領地として望んだが、長時はこれを容れなかった。道外は「労して得るところなし」といって、兵を収めて仁科に還ってしまった。そこに晴信が甲府より兵を率いて着陣し、長時は敗れて林城に兵を退いた。
仁科氏、武田氏に降る
長時が兵を退いたことに勢いを得た晴信は、勝窪において小笠原軍を破り、小笠原氏の本拠である府中に侵攻した。結果、小笠原氏は本城を守ることもできず没落していった。
これより先の天文十六年、仁科盛康は晴信の麾下に属したと「仁科系図」に見える。しかし、盛康は病身だったため、嫡子盛政が代わって政務を執ったとある。この系図の所伝によれば、天正十七年の諏訪攻めに加わった仁科道外は、嫡流仁科氏の人物ではなく、一族の仁科氏であったことになる。
永禄四年(1561)五月、武田信玄(晴信を改め)は川中島に軍を進め、海野・香坂・仁科の三人を成敗し、海野の名跡は子の竜芳に継がせ、油川五郎を仁科の名跡として甲府に帰ったと『甲陽軍鑑』に記されている。
また、「仁科系図」によれば、五月盛政自害す、山県三郎兵衛先手にて森城に向かう。盛道および弥三郎、甚十郎ら、囲みを逃れて飯灯山に隠れる、とある。他方『筑摩県史』には、天文十二年(1543)仁科盛政武田氏に降る。永禄四年三月、川中島において武田氏の誅殺するところとなる、と記されている。これら諸書の伝を見る限り、盛政はなんらかの理由により武田信玄に殺害されたようである。一説には川中島で戦死したともいう。
ところが、永禄十年(1567)八月、生島足島神社において、武田家に対する起請文を出した武士たちのなかに、仁科盛政の名が残されている。これによれば、盛政は信玄に誅殺されたという説は信じられなくなる。とはいえ、盛政がいつ隠居し、いつ死去したのかは不明であり、盛政のあとの仁科氏家督は、信玄の子盛信が継いだ。以後、仁科氏一族のうち武田氏に帰属した者は、みな盛信の麾下に属した。
仁科氏の滅亡とその後
その後、信玄が死去し、盛信は高遠城主となった。天正十年三月、高遠城攻めが始まった。城将の仁科盛信は、小山田備中守・飯島民部少輔以下城兵を指揮して、攻め上る織田勢を追い落した。しかし、衆寡敵せず、次第に外郭より打ち破られ、城兵は織田勢に討ち倒され、盛信は小山田・春日・小幡ら屈強の士三十余人とともに敵を迎かえ撃った。しかし、勢にまさる織田勢の前に盛信らは防戦むなしく、ついに自害し高遠城は落城した。
■高遠城址
写真:左から●近世高遠城址●高遠城址遠望
織田信忠は攻城のとき、使僧を派遣して降伏を勧めたという。これに接した盛信は、軍大将の小山田備中守に事の是非をはかった。これに対し、備中守は「ただ討死あるのみ」といい、使僧を突き返した。これによって、信忠は、高遠城攻めを開始し、信盛・小山田らは奮戦し、討死、あるいは自害した。残った兵は甲府を差して落ちて行った。
高遠城を落した信忠は甲府に軍を進め、武田勝頼は天目山において自害し武田氏は滅亡した。武田氏滅亡後、信長は木曽義昌に安曇・筑摩両郡を与えた。ところが、義昌が深志城に入って新領土経営を進めている最中の六月、織田信長が本能寺において横死した。越後から上杉勢が信濃に侵攻し、義昌は木曽に退いた。続いて小笠原貞慶が深志城に乗り込み、上杉氏と和談し深志城を手中に収めた。貞慶は信濃入りに際して徳川家康の承認を受けており、旧領の回復経営に着手した。
貞慶は仁科一族に対して、父長時の受けた怨恨を晴らさんとした。深志入城後、軍を分けて木曽口、伊那・諏訪境に出し、上杉氏に備えるため更級境も固めた。そして、犬甘半左衛門を将として安曇郡の仁科一党の城を攻略させたのである。仁科一族の古厩因幡守、渋田見伊勢守らは貞慶軍に抗戦したが、結局、貞慶に降った。ところが、貞慶は古厩因幡守に逆心ありとして、これを誅伐し、塔原三河守も古厩氏と共謀したとしてこれも誅した。
安曇郡の諸士は恐怖してみな貞慶に降り、降らない者は国外に逃亡していった。こうして、安曇郡は貞慶の支配するところとなった。貞慶はさらに、日岐大城を攻撃し、仁科一族は小笠原氏の前にそのほとんどが没落してしまった。ところで、日岐大城の攻城軍のなかに、沢渡九八郎・渋田見源助・古畑加介らの仁科一族が加わっていたことが『岩岡家記』に記されている。
そして、慶長年中の小笠原秀政家中に、穂高・沢渡・渋田見・古厩・日岐らの仁科一族諸士の名があり、仁科一族は小笠原氏の家臣となった者と、帰農した者とに分かれたようだ。また、江戸時代の米沢藩士のなかにも仁科氏の名が見え、「平姓」「本国信州」とあり、「丸に対い蝶」の家紋を用いたことが知られる。かくして、仁科一族はその家名を後世に伝えた。
【参考資料:大町市史/信濃史源考(長野県立図書館蔵書) ほか】
■参考略系図
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二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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