ヘッダイメージ



坂西氏
丸の内松皮
(清和源氏小笠原氏流)


 坂西氏は『笠系大成』によれば、南北朝初期の信濃守護小笠原貞宗の三男宗満が信濃国飯田郷の地頭職を賜り、飯田郷三本杉に居館を構え、坂西孫六を称したことに始まるという。すなわち、清和源氏小笠原氏の一族ということになる。
 初代の宗満は正中年中(1324)に生まれ、貞和年中(1345)ごろ三本杉に住し、永和二年(1376)に死去したという。宗満は坂西を称したのは、既に飯田郷に損zないしていた坂西氏の名跡を継いだとする説もあるが、その真偽は定かではない。
 ところで、坂西氏には二つの流れがあったとされ、伊那郡の坂西氏は「ばんざい」とよみ、松本の坂西氏は「さかにし」とよんだ。
 伊那郡の坂西氏の伝説によれば、源平合戦のころの淡路国坂西(万歳)城主に近藤六郎周家なる人物がいて源義経に属したが、義経が頼朝から追討の身となり奥州に逃れたときそれに従ったものの越後国で暇を出され、周家は信濃飯田郷に来住、そして、飯田郷を支配下におさめ、故地坂西にちなんで坂西を称したのだという。

坂西氏の登場

 鎌倉時代の飯田郷は藤原氏流阿曽沼氏が地頭職で、鎌倉幕府が滅亡したのちの観応元年(1350)阿曽沼氏から同族の小山氏に譲与されたことが残された記録から知られている。飯田郷を領した小山氏は天授六年(1380)義政のとき、鎌倉公方に背いて没落の運命となった。そのあとに小笠原一族である坂西氏が飯田郷に入ったものと考えられる。由政が出家入道したのちは嫡子の長由が家督を継いだが早世したため、嫡孫の政忠が次男長国の後見を得て坂西氏を継いだ。
 応永七年(1400)大内義弘の乱に活躍した小笠原長秀が信濃守護に補任され、長秀は岩村田の大井氏の館を経て善光寺の守護所に入り、政務を執るようになった。しかし、長秀の政治姿勢に対し、国人たちは領主権が侵害されることを恐れて、村上満信を盟主として一揆を組み、守護長秀に対抗しようとした。
 村上満信を盟主とする一揆勢は九月三日ついに武力蜂起した。一揆勢と守護小笠原勢は川中島の篠の井付近で双方睨み合い、合戦は二十五日に始まった。守護方の旗本衆は曼陀羅一揆と称して勇敢に戦った。なかでも嗣子奮迅の戦いぶりを見せたのが、坂西次郎長国であった。長国は六尺三寸に余る太刀を振るって勇戦したが、多勢に無勢、ついに守護勢は塩崎城に逃れて籠城せんとした。ところが、長国たちは守護長秀との連絡を絶たれ、大塔の古砦に逃げ込んだ。
 大塔には兵糧もなく籠城兵は馬を殺して食糧にする事態の追い込まれ、ついに十月二十一日、守護勢のほとんどが討死・自害するなどして果てた。猛将長国も自害し、二十一歳の若さで戦場の露となったのである。大塔の落城により塩崎城も危うくなったが、小笠原一門の大井光矩の斡旋で開城となり、長秀は京都へ逃げ帰った。当然、守護職は解任されたことはいうまでもない。
 長国が討死したのちは、由政入道正永が家政をみて本拠を愛宕社へ移し飯田城と称した。入道正永が正長元年(1428)に死去すると政忠が名実ともに家督を継承し宗家小笠原氏に属して、永享十二年(1440)の「結城合戦」に小笠原政康に従って出陣した。

信濃の戦乱

 小笠原政康が嘉吉二年(1442)に死去すると、政康の嫡子で政康のあとを継いだ宗康と府中小笠原持長との間で家督争いが起った。
 文安三年(1446)宗康と持長は漆田原で合戦におよんだ。戦いは激戦となり一日の間に合戦七回、数に劣る持長勢が最後の激突において宗康を討ち取り守護方の敗戦に終わった。この合戦に坂西政忠・同上総介兄弟は持長勢に属して奮戦、上総介は討死をした。その後も、小笠原氏の同族争いはやむことがなく続き、文明十一年(1479)、同十二年の両年、小笠原政貞(政秀)と松尾小笠原家長が合戦、家長は討ち取られた。この合戦に、坂西正俊は政貞の軍に加わっていた。
 正俊の子政之の代の天文十五年(1546)、知久頼元と領地争いを起こし、政之は敗北し、松尾小笠原信定、下条信氏の扱いで和睦、知久氏に黒田・南条・飯沼・上野の地を割譲し、さらに知久氏の娘を嫡子長重の室に迎えている。
 天文年間になると、隣国甲斐の戦国大名武田氏が信濃に兵を進めるようになり、小笠原長時・村上義清らを信濃から逐い落し、信濃をほぼ制圧したのである。天文二十三年、武田氏は下伊那を制圧、ここにいたって坂西政之は武田氏に帰属し、秋山伯耆守の組下となり軍役六十騎を勤めた。政之の死後は嫡子長重が早世していたため、孫の長忠が継いだ。長忠は永禄五年(1562)松尾小笠原信貴の領地を押領したため、信貴によって信玄に訴えられた。結果、坂西長忠は武田軍と松尾小笠原軍に攻められ、多勢に無勢で城を脱出して木曽に逃れようとしたが松尾勢に捕捉され坂西一族はことごとく討死をとげた。
 その後、天正元年(1573)小田原北条氏の斡旋を受けて坂西織部経定なる人物が飯田城を賜り、武田氏の軍役に従い、長篠の合戦にも出陣している。そして、天正十年の織田勢の侵攻によって織部は城を棄てて西山へ逃れたが、進退に窮し自害、坂西氏はまったく滅亡した。この織部の名は小笠原系坂西氏の系譜にはみえず、近藤氏系坂西氏の最後の当主とするものがある。

参考資料:信濃史源考 ほか】

●二木氏の家紋─考察


■参考略系図
   


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧