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星野氏
●亀甲に三枚笹/裏桔梗
●調姓黒木氏支流
星野氏は妙見を信仰して、居城を妙見城と呼んだことが知られる。妙見とは北斗信仰であり北(北極星)をさした。また、北は玄武であり、玄武は亀をあらわしたところから、星野氏は亀甲を家紋として用いるようになったのだという。他方、裏桔梗も用いたという。
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星野氏は系図によれば、黒木・河崎氏らと同じく「調一党」である。鎌倉初期、大番役として京都にのぼった大蔵大輔助能は笛の名手として知られていた。助能の滞在中に内裏で管弦の楽が行われ、助能は笛の妙技を奏でた。帝は御感のあまり、助能に「調」の姓を賜ったという。とはいうものの、これは家系を飾る伝説であろう。
調氏の本家は黒木氏を称し、代々黒木町木屋の猫尾城に拠った。助能の長子貞宗は犬尾城に拠って河崎氏を称し、次男の胤実が八女郡星野三十二村、六百町を領して筑後国星野谷に拠り星野氏を称したと伝える。黒木・河崎・星野氏はそれぞれ同族とはいえ、必ずしも調一党として団結していたわけではない。伝説の一つに、黒木氏と河崎氏は極めて仲が悪く、それぞれ居城を「犬尾」「猫尾」と名付けて対立したというものもある。
胤実は嘉禄二年(1226)に星野に入部し、内城、高岩城を築いた。子の鎮実は星野を弟の実隆に譲って、新たに延寿寺に福丸城を築き、福益館に住んだという。ちなみに、弟の実隆は樋口氏を継ぎ、子孫は星野氏の家老を務めたといわれる。その後、星野氏は生葉・竹野両郡を領して、鷹取・妙見・白石・山中・福丸の城砦を有し、その家系構成は本家・分家の二流に分かれてまことに複雑な様相を呈している。
南朝方として誠忠を貫く
元弘の変後の動乱(1331〜33)によって鎌倉幕府が滅亡、後醍醐天皇による建武の新政が発足したが、それも足利尊氏の謀叛で崩壊すると南北朝の内乱が半世紀にわたって続いた。混沌を極めた南北朝時代において、星野氏は菊池氏とともに南朝方として活躍した。『星野家譜』によれば、元弘三年(1333)三月、菊池武時・武重父子の挙兵に参加してから、明徳三年(1392)、南北朝合一がなるまでの間に、星野氏が南朝方として出陣したのは十三回以上である。
建武三年(1336)、宮方に敗れて九州に落ちてきた尊氏と、菊池氏を中心とする九州宮方との間で多々良浜の合戦が行われた。星野中務大輔家能は菊池氏・阿蘇氏らとともに出陣したが、松浦党の裏切りによって敗北を喫した。態勢を立て直した尊氏は一色範氏を鎮西管領(のち九州探題)として置くと、軍を率いて西上していった。管領一色氏は、九州武家方の中心として南朝方と対した。正平十二年(1357)、一色氏との不和から少弐氏が南朝方に転じると、星野実忠は宇都宮貞久・草野守永らとともに妙見城に拠って、武家方の大友氏と戦った。
その後、少弐氏はふたたび武家方に転じ、正平十四年、菊池武光は征西宮懐良親王を奉じて少弐氏と戦った。大保原の戦いと呼ばれるもので、九州南北朝史に残る激戦となり、南朝方の勝利となった。この戦いに、星野忠実・鎮種・実世らが出陣したことが知られるが、いずれも星野氏の系譜に見い出せない人物たちである。
やがて、征西府が太宰府を支配下に収め、九州は南朝方の全盛期が現出した。幕府は今川貞世(了俊)を九州探題に任じ、貞世のすぐれた手腕によって征西府は太宰府を失い、次第に衰退の色を深めていった。文中三年(1374)、今川軍は生葉荘に攻め入り、生葉城に迫った。これに対して、星野氏は出撃して今川勢を撃退している。天授元年(1375)、今川了俊と少弐冬資が不和になり、星野実能は冬資の弟頼澄を妙見城に預かった。その後、水島の陣に赴いた冬資は了俊によって謀殺され、九州武家方に亀裂が走った。
やがて菊池武光が病死し、星野村を御在所としていた懐良親王も世を去るなど、九州南朝方は凋落の一途をたどった。そのようななかで、星野氏は菊池氏、五条氏、黒木氏、草野氏らとともに、征西将軍宮良成親王を擁して戦った。
元中八年(1391)、八代の名和氏が降伏し、ついに九州南朝方の拠点は、筑後の矢部と星野だけになってしまった。そして、明徳三年(1392)、南北朝合一がなり、半世紀にわたった戦乱に幕がおろされた。その間、星野氏は南朝方として節を貫き通したのであった。
大友氏の麾下に属す
南北朝合一後も、戦乱はやむことなく続き、星野氏は星野谷の天険を利して、豊後の大友氏の進出を阻止し続けた。寛正六年(1465)、大友氏の部将阿南惟久が妙見城を攻撃してきたが、星野伯耆守職泰は領内への進出を許さず阿南氏と和睦している。
星野氏は南北朝時代、南朝方として活動し、北朝方の大友氏と対立関係にあった。そのような星野氏が大友氏に属するようになったのは、文明十年(1478)、大友政親の時代であった。おそらく応仁の乱後の戦乱のなかで、守護大名と呼ばれる存在が、領内の国人領主を被官化していった動きに、星野氏も沿ったものであろう。星野氏とともに南朝方として活躍した矢部の五条氏も、このころ大友氏に従属するようになったことが知られる。
星野氏の場合、親忠前後の系譜が混乱していて、当時の史料と見比べてうなづけないところが多い。
たとえば、大内氏に通じて大友氏と戦った星野常陸介鎮康は、別の史料などによれば、星野常陸介重泰のことであったようだ。すなわち、文亀二年(1502)、大友義長は筑後に兵を進め、翌三年には大内義興が陶尾張守を北九州に派遣し、大友・少弐連合軍と大内軍とは豊前・筑前の各所で戦いを繰り返した。
そのようななかで、生葉郡妙見城主の星野常陸介重泰は大友氏に従わなかったため、大友義長は妙見山城を包囲した。少弐資元も大友氏を支援して兵を送ったが、妙見山城は難攻不落でいたずらに日を重ねた。その後、大友義長の家臣竹尾新左衛門が偽って星野重泰に仕え、その信任をえてついに入浴中の重泰を殺害することに成功した。重泰の死によって妙見山城も落ち、義長は星野筑後守親実を妙見山城主とした。その後も、大内氏、大友氏、少弐氏の間で戦いは続き、星野親実も戦場を往来したことであろう。
さて、重泰の名は星野氏の系図には見い出せない。また、重泰死去のあと妙見山城主となった親実は、星野氏系図に同名の人物はいるものの、時代的に合わないようだ。
大友氏は一族や譜代の家臣には所領を与えたが、国人領主とよばれる存在には総じて冷淡であった。また、合戦に際して、国人領主は先陣をつとめさせられ、大友氏の親衛部隊は後方にいることが常であった。いくら働いても所領は増えず、しかも命はいつも危険にさらされる。そのようなことが、ついに重泰をして大友氏に反旗を翻させたのであろう。
大友氏への反抗を決めた重泰は、先祖のものが七代の間は謀叛を起こしませんと誓書を入れていたため、僧侶を呼んで葬式の真似事を七回したという。これから、「伯耆守の七葬式」という伝説が生まれた。いずれにしろ、重泰の謀叛は大友氏側にも問題があったのである。
永正十四年(1517)大友義長が残した遺言状に「星野九郎は重泰の息子である。重泰は度々征伐を行ったが手にかけることはできなかった。それを臼杵安芸守の知謀によって、竹尾新左衛門に暗殺させた。(中略)星野九郎の兄弟子孫は絶対許してはならぬ」とあり、大友義長が星野重泰を心の底から腹立たしく思っていたことが知られる。
星野氏の分裂
義長のあとを義鑑が継ぐと、大友氏の麾下にあった筑後の西牟田・溝口・三池・星野正実・草野氏らが、肥後の大津山・小代・辺春氏らとともに、中国の大内氏と結んで兵を挙げた。このとき、筑後の問註所・星野親忠・五条氏らは大友氏に味方して諸将の謀叛を豊後に報じた。大友氏への去就をめぐって、星野一族は二派に分かれたのである。
大永五年(1525)、義鑑は田北親員を大将とする討伐軍を筑後に入れ、星野親忠は黒木氏、上妻氏らと先陣を賜った。激戦の結果、草野・溝口・川崎氏らは降伏し、星野正実は豊前に逃れて大内義興のもとに走った。さきに、義長が「星野九郎の兄弟子孫は絶対許してはならぬ」と書いたのは、この星野正実のことであったのかも知れない。正実を迎え入れた大内義興は、その後、田川郡位登(糸)庄を正実に与えた。位登庄はもともと星野氏の領地であったところで、義興はゆかりの地を正実に与えたものであろう。
こうして、星野氏は筑後と豊前に分立し、豊前田川郡の星野氏は糸の星野氏と呼ばれ、生葉郡の星野氏は筑後の星野氏と呼ばれた。そして、両星野氏は敵味方のまま戦国末期まで続き、それぞれが大友・大内(のち毛利)に分属して互いに攻め合ったようだ。
大永五年の騒動において大友氏に属して活躍した親忠であったが、天文元年(1532)、大友氏に背いて独立籠城した。『日本歴史集成』によれば、享禄の末(1531)、星野親忠が自立をはかり、怒った義鑑は生葉城を攻めたが落せなかった。そこで義鑑は幕府の命を請い、大内・島津・菊池・少弐氏らの出陣を得て、星野氏を降したという。一方、『筑後国史』では、天文元年正月に星野親忠が反旗を翻し、生葉郡に立て籠った。幕府は鎮西探題の大内義隆に星野追討の御教書を下し、義隆はただちに出陣した。これに島津・大友・宇喜多・毛利・吉見・小早川・秋月ら九州はもとより備後までの人数が加わり、その勢十万余であった。この大軍を前に親忠は縦横に戦ったが、多勢に無勢、ついに城を脱出して行方不明となった。
親忠は星野氏歴代のなかで、もっとも知られた人物であり、優れた武将であったようだが、こうして没落した。親忠のその後のことは不明だが、永禄十年(1567)ごろ、星野城に籠った鎮忠は親忠の子といわれ、鎮忠の子が天正十四年(1586)筑前で玉砕した鎮胤兄弟だといわれている。
戦国乱世を生きる
さて、星野親忠が生葉城を退去したのち、大友義鑑は星野一族の重実を星野氏の惣領とした。一本星野氏系図によれば、親忠と重実、そして正実の三人を兄弟とし、その父が重泰であったとしている。しかし、戦国時代の星野氏の系図には疑問点が多く、重泰、親忠、重実らの関係も不明というしかないようだ。一説に、重実は星野氏の惣領筋にあたる黒木氏から迎えられたとするものもある。
重実は大友氏の信任を得て、生葉郡などに八百町の所領を支配し立石城に拠った。これをみた糸の星野高実は、大内・秋月氏の支援をたのみ、天文十三年、にわかに立石城を攻撃してきた。不意をうたれた重実は、一族の樋口実豊とともに高実を迎え撃ったが、大生寺の茶園畑で実豊ともども討死してしまった。この事態をみた大友義鑑は、重実の女婿の蒲池氏を星野氏の後継とし、星野の白石城においた。その後、女婿の蒲池氏は鑑泰と名乗り、五条氏・問註所氏らとともに大友氏の部将として活躍した。
天文十九年、大友義鑑が死去し、翌二十年には大内義隆が陶晴賢の謀叛で殺害された。義鑑のあとは義鎮が継ぎ、義鎮の弟義長が大内氏の跡継ぎに迎えられた。さらに、義鎮は叔父でもある菊池義武を殺害し、豊後・豊前・筑後・肥後の守護職を有する大勢力となった。
やがて、毛利元就が陶晴賢と大内義長を討ち、北九州へ進出してきた。秋月文種、筑紫惟門らは大友氏から離れて毛利方につき、大友義鎮は文種を討ち、惟門を降した。とはいえ、秋月、筑紫氏らは永禄二年(1559)、ふたたび挙兵し、侍島の合戦で大友軍を撃破した。この戦いに星野鑑泰は、問註所鑑晴、麦生兄弟らと出陣し、奮戦のすえに討死した。
敗れたとはいえ大友氏の勢力はゆるぐことなく、北九州一帯は戦乱がやむことなく繰り返された。そのなかで、鎌倉以来の名族であった少弐氏を滅した龍造寺隆信がにわかに台頭してきた。その一方で、南九州では島津氏が着々と勢力を拡大していた。天正五年(1577)、島津氏は日向の大名伊東義祐を攻撃、敗れた義祐は大友氏を頼って豊後に落ちてきた。義祐を庇護した宗麟(義鎮)は、日向出陣を考えるようになり、翌六年、日向に出陣した。
大友氏の日向進攻に際して、筑後の問註所・蒲池、そして星野氏らも参加した。しかし、結果は高城・耳川の戦いで大友軍は散々な敗北を喫し、宗麟は命からがら豊後に逃げ返り、多くの大友方武将が戦死した。この敗戦により、大友氏の威信は大きく失墜し、大友氏麾下の武将の間に動揺が走った。
星野氏の奮戦と滅亡
大友氏を敗った島津氏は北上の勢いを増し、肥前の龍造寺隆信も大友領筑後への活発な侵攻作戦を展開した。このようななかで、星野氏も大友氏と袂を分かっていったようだ。天正九年、浮羽の原鶴において秋月・星野氏と大友氏の間で激戦が行われた。また同年八月、星野上野介の拠る白石城を問註所氏の一族町野伯耆守が攻め取り、星野中務・同伯耆・秋月治部らが芋河村に攻め寄せたが、問註所統景はこれを打ち破っている。その後も、星野氏は大友方の問註所氏と小競り合いを繰り返した。
天正十二年、龍造寺隆信が島津・有馬連合軍と戦って討死したことで、島津氏の勢力はさらに拡大した。島津氏は大友氏の本国である豊後攻めを進め、対する大友宗麟は上洛して豊臣秀吉に救援を求めた。こうして、秀吉による九州征伐が開始されることになる。
天正十四年、秀吉軍の先鋒毛利の兵が筑前に進出してきた。このとき、星野氏は島津氏の依頼を受けて、筑前粕屋郡の高鳥居城に入り、秀吉軍の侵攻に備えた。島津氏は秀吉方に与した大友氏の部将高橋紹運の拠る岩屋城を攻め落とすが、秀吉方の攻勢にあって兵を退けていった。ときに高橋紹運の実子で立花城を守っていた立花統虎(のち宗茂)は、島津軍を追撃して会心の勝利をえている。
島津軍の撤退をみた星野一族は高鳥居城を固守するか、筑後の本城に引き上げるか、意見が分かれたようだ。一族の惣領星野中務大輔鎮胤(吉実)と弟の鎮元(吉兼)は、秀吉の大軍を恐れて一戦も交えず退却することは武門の名折れであるとして籠城に決した。
かくして、天正十四年八月、立花統虎が高鳥居城に押し寄せてきた。星野勢は殺到してくる立花軍に向かって、鉄砲・弓、大木・大石などを落下させて抗戦した。その激戦ぶりは、先頭にたって指揮をする統虎の兜の先端に星野軍の放った銃弾が当たったほどであったという。やがて、立花方が城内に突入して、火を放ち、城中はたちまち烈風に煽られて火煙を噴き上げ、黒煙が城中を覆った。立花勢は風上に回って攻撃し、さらに毛利の援軍も二の丸に突撃をした。
大将の星野吉実は東門を守っていたが、城兵を分断され立花勢に打ち取られた。一方、二の丸で防戦していた弟の吉兼も毛利軍に討たれ、城兵三百余もことごとく玉砕して落城し星野氏は滅亡した。
その後の星野氏
高鳥居城で討死した吉実には長虎丸と熊虎丸の二人の男子があり、幼児であったため一命を許されて龍造寺政家に預けられた。長虎丸は成人したのち親(鎮)之と名乗って佐賀鍋島家に仕え、弟の熊虎丸は松崎七兵衛を称して小城鍋島家に仕えたという。
他方、糸の星野氏は毛利氏に従って豊臣秀吉の九州征伐のときには小早川隆景につき、戦後、生葉・竹野郡で三百町の知行を与えられ、星野氏の惣領に取り立てられた。・2005年4月13日
・星野氏が用いたという「裏桔梗」紋
【参考資料:浮羽町史/九州戦国史(吉永正春氏著) ほか】
■参考略系図
・調能高以前の参考系図は、黒木氏のページをご覧ください。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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