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戦国山城を歩く
丹波氷上郡を二分する激戦の舞台となった─香良城址
香良城は氷上郡香良にある古刹岩瀧寺のすぐ北の岩山上にあり、一帯は五台山を中核とする修験者の行場としても知られる峻嶮な岩場が連続するところである。香良城登山はこれまでに二度チャレンジしたが、いずれも天候に恵まれず途中で撤収という苦い思いをしたところだ。今回も午前中は曇り空であったが天気予報の「曇りのち晴れ」を信じて、三度目のチャレンジとあいなった。
残された記録などによれば、香良城は氷上郡北西部に勢力を張った芦田氏が築いたものといい、丹波有数の合戦である香良合戦において芦田方の重要拠点となったところと伝えられる。香良合戦とは細川二流の乱の余波を受けた代理戦争というべき戦いであった。三好氏を後ろ盾とした細川氏綱に属する芦田氏と足立氏の連合軍と、波多野氏らが支援する細川晴元に属する荻野・赤井一党とが戦ったもので、丹波戦国史に残る激戦であった。敗れた芦田氏と足立氏連合軍は壊滅状態となり、勝ったとはいえ荻野・赤井方も大きな犠牲を払ったという。その後、奥丹波の戦国大名に成長した赤井悪右衛門直正も重傷を負った戦いとしても知られる。
この香良合戦において芦田方は、五台山から南西に伸びた尾根先の峻険な岩峰に香良城を築き赤井方と対峙した。香良城の岩山から南面すると守る側も攻める側も必死の蛮勇を振るったこと疑いなく、戦国武者というのはまことに苛酷な人生に身をおいていたことを実感させられるところであった。
・西方より城址を遠望(左手に五台山)
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林道から城址への分岐 分岐すぐの竪堀 北端の堀切 二つ目の堀切 主郭北端の切岸(岩壁!)
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主郭の土壇切岸 主郭南の腰曲輪 主郭南西部切岸と帯曲輪 主郭西部の岩場 西尾根筋の堀切 |
香良城跡へは岩瀧寺側の山麓にあった極楽寺址から城道が通じていたようだが、いまは失われて岩場を攀じ登ることになる。一方、城址の北側に林道が建設され、本来の城道とはいえないが格好の登り道となっている。林道側から城址に踏み込むと、土橋と片堀切、ついで二重の堀切、そして、主郭部北側のそそり立つ岩壁が行く手を阻む。城址は北側ピークの主郭部と尾根筋の岩場を挟む西尾根先の曲輪群とに二分される。
北端の岩壁を攀じ登ると主郭部、西方に伸びる岩場に自然の大岩を利用した堀切が続き西方曲輪群へと至る。西方曲輪は二つの曲輪間を横堀で区画し、それぞれ帯曲輪が捲いている。西端の曲輪からの眺望は抜群だが、急崖となった岩場には思わず身が竦む。城域は曲輪以外のところは絶壁の岩山で、城址探索は一歩踏み外せば崖から転落必至というスリル満点なものであった。全体的に荒削りな印象を受けたのは、香良合戦における芦田方の城砦の一つとして築かれた陣城であったせいなのだろう。
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尾根筋の西堀切 自然岩で防御した城道 西曲輪東端部の自然岩を利用した切岸 西曲輪主郭と北西帯曲輪 曲輪切岸と帯曲輪
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西曲輪の東帯曲輪 西南端曲輪への堀切と登り土塁 西南端曲輪 城域西南端より氷上平野を眺望 西南端曲輪の櫓台?
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今回の香良城登山は、せっかくなので香良城に登ってのち五台山まで歩こうと計画していたが、山麓の岩瀧寺の尼さんの「香良城へは林道からが安全」とのアドバイスをいれて、和峠を経て鷹取山から小野寺山、そして五台山、そして香良城へと歩くコースをたどった。
長丁場の山行、岩場の城探索となったが、五台山を紐帯として氷上・市島・青垣に散在する城砦群がネットワーク化され、その要の位置に春日黒井城が位置しているように感じられた。赤井氏が氷上の統一者となり、直正の時代に戦国大名化する端緒となった香良合戦、香良城址は小さな城だが丹波戦国史における位置づけは小さくないといえそうだ。
・五台山から流れ落ちた水を集める-独鈷の瀧
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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