戦国山城を歩く
日下部一族、宿南氏奮戦の城址


宿南城は豊岡に通じる国道312号線に沿った宿南集落の後方、城山と呼ばれる大松山の山上にあった。城主宿南氏は但馬の古代豪族日下部氏の分れで、朝倉・八木・太田垣氏らと同族である。宿南氏は鎌倉時代に宿南の地頭に任じられ、南北朝時代の史料にも在地武士としてあらわれる。永享年間(1429〜41)、八木氏から宿南左京続弘が養子に迎えられ、戦国時代には宿南修理太夫輝俊が城主であった。
天正五年(1577)、羽柴秀吉が但馬に進攻、八木、竹田城を攻略した。このとき、城主輝俊は病床にあったため、嫡子重郎左衛門輝直と弟の主馬助直政兄弟を出陣させ下小田で羽柴軍を迎撃させた。しかし、衆寡敵せず、宿南方の敗戦となった。敗報に接した輝俊は篭城戦を指揮しようとしたが病気ではたせず、館に火をかけ城の麓・諏訪の光明寺に入って自刃した。残った一族・郎党もほとんど討死し、城は落ち宿南氏は没落したと伝えられる。一説に、宿南城が落ちたのは天正八年の第二次但馬攻めのときであったともいう。(最期の城主と合戦に関しては異説がある)

・右:現地説明板の案内図




城址へは大松山の説明看板が立てられた側の道をたどり、民家の軒先を経て、ひたすら山上を目指す。アカマツの林は、秋にはマツタケが出ることから入山禁止になるので要注意だ。小さな曲輪が続く山道を登り続けると堀切、ついで山上の曲輪にたどりつく。主郭に立てられた説明版に描かれた縄張り図をもとに、城址を散策するが夏のことでもあり、すさまじいブッシュに行く手をさえぎられる。南方に伸びる曲輪をたどり、堀切と思われる谷を抜けて町の集落へと下山する。主郭には桜の植樹も行われているだけに、もう少し手入れを施して欲しいところだ。

北方より城址(大松山)を見る ・夏草に覆われた登り口 ・曲輪跡をたどりながら頂上を目指す



堀切 ・主郭を目指す ・南方面の曲輪と堀切 ・町方面から城址を見る



下山して宿南の集落を歩くと、見事な藁葺きの空き家がある。表札には宿南とあり、宿南城主であった宿南氏の後裔にあたられる方の家であったのだろうか。城主宿南氏の居館は田中神社の社域にあったといい、いまも参道山手側には石垣が残り、在地領主の居館にふさわしい雰囲気が漂っていた。



山麓の古民家(表札は宿南さん) ・掃部屋敷跡の碑 ・田中神社境内(宿南氏居館跡)・田中神社本殿 ・本殿から居館跡を見る

宿南氏
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