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戦国山城を歩く
関一族鹿伏兎氏が拠った戦国山城
鹿伏兎(加太)城は南北朝時代の正平年間(1346〜69)、鈴鹿川一帯を支配した関盛政の四男盛宗が築いた城で、
はじめは牛谷城と呼ばれた。戦国時代、鹿伏兎定好が修築を加えて城郭を整備、鹿伏兎と呼ばれるようになった。
天文十一年(1542)、定好の子定長は、ときの将軍足利義晴に白鷹を献上したことから、「白鷹城」とも呼ばれるようになった。
その後、天正十一年(1583)、織田信雄=羽柴秀吉と神戸信孝=柴田勝家・滝川一益との対立が起こった。
定義は神戸信孝方に与したため、秀吉の軍勢に攻められ鹿伏兎城は落城した。
城址はJR関西本線加太駅すぐにある鹿伏兎氏の菩提寺神福寺の裏山頂上にあり、土塁・石垣・井戸などが現存して、
往時の様子をいまに伝えている。
・右:現地説明板の案内図
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城址へは急峻な山道を歩くこと三十分、意外にこじんまりとした縄張りである。
植林がされた城址を歩くと、ひときわ高い主郭をはじめ、
土塁に囲まれた曲輪が続き、なかでも虎口に築かれた石垣は見事なものだ。
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腰曲輪に残るいまも水を湧出する井戸跡が、かつてのこの城の堅固さをうかがわせる。
迷いながら神福寺に戻り、鹿伏兎氏の墓石に手を合わせて鹿伏兎氏の城址をあとにした。
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鹿伏兎氏
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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| ……
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