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鹿伏兎氏
●揚羽蝶
●桓武平氏維盛流関氏一族
 


 鹿伏兎氏は、南北朝時代の正平二十二年(1367)ころ関盛政の子盛宗が分家したことに始まる。以後、国府氏・峯氏らとともに宗家関氏と行動を共にし、「応仁の乱」では宮内少輔定孝が宗家とともに細川勝元の東軍に与した。宗家とともに上京した定孝は、応仁の乱における最大の戦いとなった相国寺の戦いに出陣した。定孝らは相国寺東門を守護したが、西軍の猛攻撃によって潰滅的敗北を喫し、多数の戦死者を出して伊勢に引き揚げたという。
 戦国時代の当主は近江守定長で、伊勢の戦乱に身を処したことが知られる。天文五年(1536)、亀山城主関盛信に従い、関軍の先鋒となって奄芸郡に進攻して林城主林重越を安濃郡に逐た。天文七年、三子定保を伴って林村に入り、奄芸郡東部を平定して城館を築いた。天文十一年、前将軍義晴に白鷹を献上し、居城の鹿伏兎城に白鷹城の称を給った。そして、天文十三年、関一党は国司北畠氏の命により、長野氏と協力して近江に出陣して六角氏を助けた。そして、京極佐々木六郎を攻め破り、六郎を自殺に追い込む活躍を示した。
 やがて永禄十年(1567)になると、織田信長の伊勢侵攻が始まり、定長は関盛信、盛重、弟坂定住らと織田軍に抵抗した。その後、一族の神戸友盛が信長の三男信孝を養子に迎えて和睦した結果、関一族は信長の傘下に入ることとなった。このとき、定長も関氏とともに織田軍と講和している。
 元亀元年(1570)、信長の妹婿である近江の浅井長政が朝倉氏と結んで信長に兵を上げると、定長の嫡子豊前守宗心は浅井長政との旧交によって浅井方に加担した。宗心は鹿伏兎城を弟定義と叔父坂定住に託すと、兵を率いて江州に出陣し、「姉川の合戦」において佐々成政と激戦、さらに酒井忠次、小笠原長忠らの軍と格闘して討死した。


鹿伏兎城を訪ねる

・鹿伏兎氏の菩提寺神福寺 / 境内の一角に残る鹿伏兎氏の墓石
・城址に登る、虎口すぐのところに築かれた石垣は見るものを驚かせる立派なものだ。


→ 鹿伏兎城址に登る


鹿伏兎氏の転変

 宗心のあとを継いだ四郎盛氏は、天正二年(1574)叔父の林定保が滝川一益とはかった雲林院氏に攻められたとき、安濃郡より雲林院の背後を脅かし滝川との講和に結びつけた。その後、信長に激しく抵抗した長島一揆に与して、織田氏の部将氏家氏を討ち取る活躍をみせたが弟六郎とともに戦死した。ここに、鹿伏兎氏の嫡流は滅亡した。
 盛氏・六郎の兄弟が戦死したのちは、兄弟の叔父にあたる左京進定義が鹿伏兎氏の惣領となったようだ。定義は一族の多くが長島一揆に味方したなかで、一揆に味方しなかったことで鹿伏兎城を安堵されたのであった。その後、神戸信孝に従ったが定義の所領は鹿伏兎郷のみに削られている。そして、天正五年の「雑賀一揆」、同六年の対毛利戦に従軍し、天正十年(1582)には四国征伐軍に組み入れられたのである。ところが、同年六月、「本能寺の変」が起こり織田信長が横死すると、鹿伏兎氏ら関一族は信孝から離れて帰国した。
 本能寺の変のとき、おりから上洛途中にあった徳川家康が苦労の末に三河に帰る事ができたが、家康は伊賀を経て鹿伏兎に到着、定義は家康一行を向え次子定俊をもって亀山まで家康一行を護送した。織田信長の死によって織田家中は後継者について紛糾し、織田信雄=羽柴秀吉と神戸信孝=柴田勝家・滝川一益との対立に発展、鹿伏兎定義は神戸信孝方に与したため、織田信雄によって攻められ鹿伏兎城は落城した。その後、定義は京師に隠れて遂に客死したと伝えられている。
 一方、定義の嫡男定基は鹿伏兎城が落ちたのち、安濃津城主織田信包に仕えて鹿伏兎城を任された。のちに小早川秀秋に仕えて千六百石を与えられ、関ヶ原の戦いにも参加した。小早川氏断絶後は、岡山に襲封された池田輝政に仕えて千六百石を与えられたという。・2005年6月17日

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■参考略系図
   

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