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戦国山城を歩く
中伊勢最大級の平山城─安濃城
安濃城は安濃川左岸の標高30〜60メートルの丘陵上に築かれた平山城で、中伊勢最大の規模を
持った戦国山城である。丘陵地頂部の阿由多神社を主曲輪として、松原寺の北側の山林一帯まで
東西450メートル、南北350メートルにわたって城跡が広がっている。弘治年間(1555〜58)に
国人領主長野氏の一族細野藤光が築いたといい、その子藤敦が現代残る規模に拡充したと伝えられている。
城址は阿由多神社を主郭に土塁と堀に囲まれた曲輪が南北に二つから三つを対として、二列に
並んでいる。主郭の南西部には櫓跡があり、神社の境内には古井戸が二つ残っている。さらに、主郭の西方には
横堀が設けられ、その先に西曲輪が確認できる。東方には堀切を隔てて土塁・堀で
区画された曲輪群があり、さらにその東方にも曲輪が設けられている。自然地形を巧みに利用した
要害堅固な造りとなっている。永禄十一年(1568)、織田信長の伊勢侵攻に抵抗、滝川一益の攻撃をはね返した。
その後、信長の弟の信包を養子に迎えて和睦したが、天正八年(1580)に信包の攻撃を受けて落城した。
・右:現地説明板の案内図
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城址へは阿由多神社鳥居から登る。生い茂った竹やぶにより、昼なお暗いという状態だ。主曲輪に鎮座する阿由多神社の周囲を空堀と土塁が取り囲み、南西隅には櫓台、東と南には虎口が確認できる。
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さらに、かつては家臣の屋敷地であったと思われる曲輪が段々に続き、それぞれ土塁で隔てられている。小道を隔てた南側の丘陵にも土塁、空堀が残り、戦国時代の中伊勢地方における最大規模の城跡といわれていることが実感できる。松原寺には南北朝の頃の作と推定される聖徳太子二歳の南無仏像が伝存し、「夜泣き太子」として赤ちゃんの夜泣きがひどいときにお参りすると、夜泣きが収まると言い伝えられている。
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細野氏
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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| ……
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