細野氏は、長野工藤氏五代豊藤の二男藤信が分家して藤野氏を興した。しかし、藤信ののち戦国時代にいたるまで細野氏の事蹟はようとして知れない。戦国時代の当主である藤光は長野工藤稙藤の弟で、細野氏を継ぐと安濃に城郭を構えた。 戦国乱世を生きる 南北朝時代より、長野工藤氏は南勢の北畠氏としばしば戦った。藤光の子藤敦は、宗家の長野工藤氏に従って天文年間(1532〜55)の鷺山合戦に従軍。以後、北畠氏と長野氏の抗争は繰り返され、天文十六年(1541)から十八年にかけて北畠具晴は長野氏を攻撃、戸木と七栗の間の葉野で合戦が展開された。戦いは激戦となり長野方の大将分部与三右衛門が戦死するなど、一志郡内で両軍の攻防が続いた。 永禄元年(1558)、長野工藤藤定と北畠具教の間に講和がなり、北畠具教の二男具藤が藤定の養嗣子に迎えられた。長年の両者の抗争に終止符がうたれたが、長野氏はこの時点で北畠氏の幕下に入ったともいえる。同二年、北畠・長野両氏が一体となり、具藤をはじめ細野・分部・雲林院・草生ら長野一族・与力五千が、北勢の赤堀氏と塩浜で戦った。また、関氏の神戸西城を攻めたが敗れた。 永禄十一年(1568)、織田信長が北伊勢に侵攻を開始した。信長はまず長野工藤氏を討とうとして、有力一族である安濃城の細野藤敦を攻めた。この事態に対して長野一族は、和戦両論に分かれ、藤敦は抗戦固守を主張し安濃城で抵抗を続けた。一方、弟の分部光嘉・川北藤元らは和睦を主張し、光嘉らは信長の弟信包を長野工藤氏の嗣とすることを申し入れた。ところが、長野具藤が藤敦は信長についたとの流言に惑わされ、藤敦を討とうとした。対する藤敦は逆に具藤を攻め、具藤は実家北畠氏の本拠地多芸に逃亡した。 かくして同十二年、長野一族は織田信包を長野家の宗主とすることに決定した。家督となった信包は不便な長野城を出て安濃津・上野に本拠を置き、長野一族は信長の幕下に入った。 その後、信包は信長の北畠氏征伐に参加して、阿坂・大河内城攻めに従軍した。北畠氏は大河内城に拠って抵抗したが、信長の三男信雄を養子とすることで和睦がなった。天正四年(1576)、具藤は田丸城で信雄の手によって北畠一族十三人とともに殺され、長野工藤氏の嫡流は滅亡した。一方、細野藤敦は、信包が清洲に年賀に行った隙に藤敦は長野城を奪回した。信長は和解策をとり、一益の子八麿を藤敦の嗣として和解が成立した。 安濃城址を訪ねる
細野氏のその後 天正八年(1580)、織田信包によって居城の安濃津城を攻められるが、火を放って逃れて蒲生氏郷の配下に入った。このとき、雲林院家も伊勢を離れた。長野氏一族としてはひとり分部氏のみ、光嘉が信包の城代として上野城に入り、のち豊臣氏に仕えて上野一万石の大名となった。光嘉は関ヶ原の戦いでは徳川方の東軍に属し、戦後、加増を受け近江高島郡のうちで二万石を領する大名として生き残った。 安濃城を落されたあと蒲生家をたよった藤敦は、のちに秀吉に仕えて、慶長三年に伏見城松の丸の守将となった。さらに、秀吉側室松の丸殿の家司となり、慶長八年(1603)二月二十六日、波乱の生涯を閉じた。 ■参考略系図 |