白抜き紋

Contents
●鎌倉の主-征夷大将軍
●鎌倉幕府の執権-北条氏
●鎌倉武家政権を担った武将家
(45家)
●武将家割拠地図
●源平時代から鎌倉幕府へ
(年表)
●抗争の鎌倉府-北条氏の謀略
●鎌倉武士のユニット-惣領制
●リアリズムの鎌倉-新文化の勃興
●鎌倉の権力者-執権抄伝
●北条氏の宿敵-三浦一族
●鎌倉の鎮守-鶴岡八幡宮

系図は、尊卑分脈を基本として、系図綜覧・古代豪族系図集覧・戦国大名系譜人名事典・ 歴史読本-戦国大名系譜総覧・日本史小百科-家系、その他出版物のものを参考にして作成しました。
[家伝資料:前記に同じ]
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鎌倉武家政権を担った─武将家。

小山氏/葛西氏/梶原氏/上総氏/菊池氏/吉香(吉川)氏




小山氏
●二つ巴●秀郷流藤原氏 

下野小山荘が本領。秀郷流藤原氏。源平合戦期に藤姓足利氏とともに「一国の竜虎」とうたわれた。初代政光の後妻寒河尼が頼朝の乳母だったので家運興昌。源平合戦後に多数の所領を獲得し、長沼・結城・薬師寺などの庶流を分出した。室町時代には京都奉公衆として鎌倉幕府に直属していた。
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葛西氏
●三つ柏●桓武平氏良文流 

桓武平氏良文流。下総葛西御厨が本領。坂東八平氏のうちの秩父党に属しており、源平合戦初期に秩父党が多く平家側であったなかで、葛西清重のみは頼朝に服属して認められた。文治五年の奥州征伐後、陸奥胆沢郡などを与えられ奥州総奉行に任じられ、子孫は陸奥に移住した。
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梶原氏
●丸に四つ石/矢筈●桓武平氏良文流 

桓武平氏鎌倉党ののうち、坂東八平氏の一。相模国梶原郷が本領。石橋山の合戦では平家方として戦った。戦に負けた頼朝が土肥の椙山に逃げ込んだとき、その所在を知りながら、見逃した話は有名だ。平家との合戦では源義経の軍奉行として派遣軍の監督にあたった。また景時は上総・安田など幕府にとって煙たい存在の豪族を失脚させている。こうして景時は鎌倉体制の統制責任者として活躍したが、頼朝死後、御家人から弾劾され、鎌倉を追放された。
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上総氏
●八 曜(矢継原合戦記)●桓武平氏良文流 

桓武平氏良文流。忠常より以降上総介を世襲して上総姓を呼称。坂東八平氏の一。広常の代には二万騎を率いるほどの勢力であった。しかし「坂東にてかくてあらんに、誰かはひき働かさん」と頼朝に東国割拠論を主張したため、頼朝の意を受けた梶原景時に斬殺された。
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菊池氏
●並び鷹の羽●藤原北家隆家流(?) 

藤原北家隆家流と称しているが、事実は不明。『魏志倭人伝』の狗奴国王の「狗古智卑狗」を”菊池彦”にあてる説が有力とされる。肥後隈府が本領。源平合戦の当初に菊池隆直が反平氏の挙兵を敢行し、京都の平家への平糧送付を途絶させるなど、大いに活躍した。蒙古襲来時における菊池武房の活躍は有名。南北朝時代には九州宮方の主力として活躍している。
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吉香(吉川)氏
●丸に三つ引/輪九曜●藤原南家武智麿流工藤氏族 

駿河吉香荘が本領。藤原南家武智麿流。嫡家の伊豆工藤に対して駿河工藤と称した。正治二年、上洛を図った梶原景時一族を討って名を挙げた。蒙古襲来にさいして安芸国に下向して、吉香を改め「吉川」と名乗った。戦国時代には毛利家に属し、小早川氏とともに「毛利の両川」とうたわれた。
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