白抜き紋



Contents
●鎌倉の主-征夷大将軍
●鎌倉幕府の執権-北条氏
●鎌倉武家政権を担った武将家
(45家)
●武将家割拠地図
●源平時代から鎌倉幕府へ
(年表)
●抗争の鎌倉府-北条氏の謀略
●鎌倉武士のユニット-惣領制
●リアリズムの鎌倉-新文化の勃興
●鎌倉の権力者-執権抄伝
●北条氏の宿敵-三浦一族
●鎌倉の鎮守-鶴岡八幡宮

系図は、尊卑分脈を基本として、系図綜覧・古代豪族系図集覧・戦国大名系譜人名事典・ 歴史読本-戦国大名系譜総覧・日本史小百科-家系、その他出版物のものを参考にして作成しました。
[家伝資料:前記に同じ]
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鎌倉幕府執権─北条氏



 北条氏は時政を始祖とし、伊豆国田方郡北条を本拠とした。桓武平氏直方の流れをひくと称し、関東の有力武士団にまさる伊豆の大豪族であったという。しかし、この説には疑問が多く、実際のところは伊豆の中級官人であったと思われる。
 時政は女政子が、源頼朝の配流時代にその妻となっていたこともあって、治承四年(1180)の頼朝の挙兵のときから頼朝を助け、一族を率いて鎌倉幕府創業に功があった。のちに二代将軍頼家を廃し、実朝を三代将軍につけて幕府初代の執権となった。しかし、その晩年に妻の牧の方とともに女婿平賀朝雅を将軍に立てようとしたことが発覚し、子の政子・義時によって元久二年(1205)伊豆に追放された。

幕府体制の確立

 義時は父とともに頼朝の挙兵以来活躍してきたが、父の追放後執権となり、姉で「尼将軍」の政子を助け、 幕府創業以来の有力御家人である畠山重忠・和田義盛らを次々に失脚させ、実朝暗殺ののちは幕政を掌握し、 承久の乱(1221)に際しては子泰時を京に送り、朝廷軍を打ち破って幕府権力をゆるぎないものにした。
時頼の墓  泰時は承久の乱後六波羅探題となり、元仁元年(1224)父の後を継いで執権となった。そして叔父時房を連署とし、評定衆を新設し、また、御成敗式目(貞永式目)を制定した。泰時の孫時頼は寛元四年(1246)、執権就任とともに前将軍九条頼経をめぐる陰謀をあばき、翌年には宝治合戦で宿敵三浦氏を滅ぼした。建長元年(1249)には引付衆を設けて訴訟制度の能率化をはかった。
 時頼の子で八代執権時宗のときには、文永・弘安の両度にわたって蒙古の襲来を受けたが、幸いにしてこれを撃退し、北条氏の権力を強化した。
 北条氏では、はじめ執権職と家督の地位が不可分であたのに対し、鎌倉中期からは家督が執権職を越える絶対権力となり、庶流のものも執権となることはあったがその力は家督に及ばなかった。家督は義時・泰時ら嫡流の子孫に受け継がれて、得宗とよばれた。

北条氏の衰退

 時代が下るにしたがって北条一族の名越・金沢・大仏・赤橋・佐介・桜田など、その住宅のある地名を苗字とする一族が連署・六波羅探題・評定衆・諸国守護となった。建長二年(1250)頃、北条一門は全国六十六ケ国中、十六ケ国の守護職をその手中におさめていた。しかし、得宗権力が強化されると、名越光時が寛元四年(1246)に失脚、文永六年にはその弟時章が殺され、九州三ケ国の守護も没収され、勢力を失っている。
 また、長崎・尾藤氏等得宗の家臣の御内方が力をもつようになり、貞時のとき弘安八年(1285)有力御家人安達泰盛が霜月騒動で討たれてからは、北条氏の家宰である内管領が幕政を左右するまでになった。
 十四代執権高時のとき、正中の変(1324)・元弘の乱(1331)がおこり、各地の武士が蜂起して、ついに元弘三年(1333)新田義貞の率いる軍が鎌倉に攻め入り、高時は一族とともに東勝寺で自殺し、北条氏は百五十年にわたる鎌倉幕府とともに滅亡した。
………
・北鎌倉明月院に佇む北条時頼の墓、香炉に三つ鱗紋が刻まれている。
.. ●北条氏の家紋-三つ鱗
むかし、北条時政が江の島弁財天の祠に二十一日間参籠して子孫の繁栄を祈っていると、その満願の夜の明け方に、 緋の袴をはいた気高い女房が現われて、
「汝は前世に六十六部の法華経を書写し、六十六ケ国に奉納した。その功徳によって汝の子孫は日本を支配し、栄華を誇ることになろう。しかし、もし非道なことがあれば、たちまち家は滅亡じゃ。よくよく身を慎まねばならぬぞ」
と告げて、たちまち二十丈もある大蛇となり、海中に姿を消した。
そのあとに残った三枚の鱗を時政は持ち帰って家の紋にしたという。

●北条氏の系図

(PDFデータです)
 

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