伴野氏
松皮菱
(清和源氏小笠原氏流) |
|
中世、信濃国佐久一帯に勢力を張った。小笠原長清の六男時長が佐久郡伴野荘の地頭として入り、地名に因んで伴野氏を称したことに始まるという。伴野氏の系図は『尊卑分脈』『信濃国伴野氏家系』など各種伝わっているが、それぞれ異同があり、必ずしも明確ではない。
霜月騒動で挫折
弘安八年(1285)十一月、鎌倉幕府に一大クーデターがおきた。幕府執権の時宗死去後、十四歳でその後を継いだ執権貞時を擁して、北条氏御内人の筆頭内管領平頼綱が、幕府御家人の最有力者で、しかも貞時の外祖父にあたる安達泰盛・宗景父子を急襲し、安達一門よその与党の御家人たちをことごとく滅ぼしてしまった。世にいわれる「霜月騒動」である。
霜月騒動に安達氏与党として討滅されたものは、安達氏一族とその分流大曽祢一族、泰盛の母の実家にあたる小笠原惣領伴野出羽守長泰一族をはじめ、三浦対馬前司・足利上総三郎・南部孫二郎ら守護クラスを含む有力御家人で、その自殺者は五十人を越え、事件は全国各地におよんで、泰盛派の有力御家人でえ討たれた数は五百人以上にのぼった。さらに、評定衆の宇都宮景綱、おなじ評定衆・引付衆の要職にあった長井時秀父子らも失脚した。霜月騒動は、鎌倉後期の幕府政治史上のいもっとも重大な事件であった。
そして、この騒動で小笠原氏の惣領、信濃国佐久郡伴野荘の地頭小笠原伴野出羽守長泰は、弟の泰直、嫡子盛時、二男長直ら父子・兄弟四人が殺された。まさに一族誅滅にあった。騒動後、佐久郡伴野荘の伴野氏の所領はことごとく没収さえて、北条氏一族の所領となった。所領を失った伴野氏一族は、縁故をたよって他国に去り、あるいは在地に潜んで復活の機会をうかがうこととなった。伴野氏の没落後の小笠原惣領職は、京都小笠原氏系の長氏に移った。長氏の孫貞宗は南北朝期に信濃守護となって活動し、その子孫は信濃小笠原氏として繁栄した。
このとき、長泰の子泰房は、安達氏の旧領三河国小野田荘に逃れて、その地に住んで三河小笠原氏の祖になった。泰行の子長房は在地に潜んで、出羽弥三郎と称して、父祖伝来の伴野荘地頭職奪還の機会をうかがった。
復活と勢力伸張
その機会は元弘三年(1333)、後醍醐天皇による鎌倉幕府の滅亡というかたちで訪れた。建武新政から南北朝期において、伴野弥三郎長房は京都大徳寺と伴野荘地頭職をめぐって争った。すなわち、伴野長房は京都大徳寺の伴野荘地頭職を乱妨して、しばしば大徳寺から訴えられている。そして長房は足利尊氏の執事高師直にはやくから接近して、在地に代官をおいて、長房自身は師直軍に属して京都方面で活動していたようだ。
延元四年(1339)八月十六日、後醍醐天皇が亡くなった。すでに天皇と袂を分かち、北朝方天皇を擁立していた足利尊氏はさすがに哀悼恐懼して天皇の恩徳を謝し、その怨霊を鎮めるため京都に天竜寺を造営すると、興国六年(1345)天竜寺落慶供養の儀を執り行った。
この盛儀の先陣随兵のなかに小笠原政長、後陣随兵のなかに伴野出羽前司長房がいた。室町幕府を支える有力部将のなかに小笠原惣領信濃守政長とともに、伴野出羽前司長房が列していることは、当時に室町幕府内における伴野長房の地位をうかがわせるに十分なものである。
その後、尊氏と弟の直義の間に、高師直兄弟がからんで幕府内に深刻な対立が起こり、ついに尊氏と直義の兄弟が生死をかかえて争う「観応の擾乱」がはじまった。正平四年(1349)八月、高師直兄弟は直義を討とうとして京都に入った。この師直軍のなかに信濃守護小笠原政長、伴野長房らが加わっていた。対して、直義は南朝方と結ぶなどして擾乱が続いたが、直義は尊氏に降参し、正平七年正月、尊氏とともに鎌倉に入り急死した。一説、兄尊氏によって毒殺されたともいわれる。
伴野長房は南北朝内乱のなかで一貫して尊氏方に属し、高師直と結んで次第にその力を伸ばして、伴野荘の地頭職を掌握するに至ったようだ。そのことは、足利尊氏が長房にあてた「御判御教書」の写からもうかがうことができる。正平八年(1353)、旧直義党が南朝軍と合して六月京都に攻め込んだ。この時、尊氏はまだ鎌倉にあり京都は義詮が守っていた。この戦いに義詮は京都神楽岡に陣をとり、伴野長房は義詮に属して戦い討死、敗れた足利勢は近江に退いた。
伴野氏、二系に分かれる
長房の討死後の長房系伴野氏の動向については明らかではないが、長房が戦死してから三十九年後の元中九年(1392)八月、将軍足利義満の相国寺落慶供養にの先陣随兵に伴野次郎長信の名が見出せる。この伴野長信を若狭守護代小笠原長房とする説もあるが、おそらく長房の子にあたる人物とであろうかと考えられる。
ついで、相国寺落慶供養から七十三年後の寛正六年(1465)、信州伴野弥四郎貞棟が将軍足利義政に上総介受領を願いで出て、受け付けられて、同人から礼物が差し出されたことが、室町幕府政所代蜷川親元の『蜷川日記』に記されている。この貞棟こそ長房の系統を継いだ者と思われ、伴野氏の嫡流は在京して奉公衆を務めていた。一方、伴野荘の在地における伴野氏の活動をみると、伴野上総介貞棟と同時代に、前山城主伴野光利がいたことが知られている。
前山城は伴野時長の子長朝が築き、数代続いて時長十代の孫伴野光利が相続し、子孫相続して戦国時代に至ったことが『洞源山貞祥寺開基之由」に記されている。そして、前山城主伴野氏は時直─長泰系とは別で、時直の弟で佐久郡跡部に住した跡部長朝系ということになる。これによれば、室町時代には伴野荘に、長房系と跡部長朝系の二人の領主が存在していたことになる。
文明三年(1471)信州国人伴野上総介貞棟が将軍足利義政に太刀一腰・銭十貫文を贈っているが、これは上総介推挙に関する謝礼であろう。また貞棟は松原神社に寄進をしており、十五世紀中期において伴野荘に勢力を持っていた人物であることは疑いない。そして、この貞棟と同時代に伴野荘に存在した前山城主光利との関係の位置付けが困難となっている。先述のように光利は跡部長朝系と思われ、伴野長泰・長房系の貞棟とは系統の異なる伴野氏であった。室町時代の伴野荘には、二系統の伴野氏が存在していて、貞棟は野沢館に住していたものと考えられている。
大井氏との抗争
文明十年(1478)、岩村田城主の大井政朝が、初めて諏訪上社の御射山頭役を請けた。このとき、伴野氏の代官鷲野伊豆入道が、同頭役の右頭をうけた。翌十一年七月、大井・伴野両氏は諏訪上社御射山祭の左頭・右頭として頭役を勤めたことは間違いない。
ところが、その一ヶ月後の八月、大井・伴野両氏は大合戦をして、大井政朝は伴野方の生け捕りとなり、大井氏の執事相木氏は討死をとげた。この戦いに勝利を得たのは、前山城主の光利・光信父子と思われ、甲斐の武田信昌は先年の大井氏の甲斐侵入に対する報復として伴野氏に味方している。
鎌倉後期の霜月騒動で勢力を失い、南北朝期において勢力を盛り返した伴野氏は、光利の時代に至って伴野荘のほとんどをその支配下におくようになり、境を接する大井氏と所領を争う存在になったのである。翌十二年、『諏訪御符礼之古書』に「伴野殿死去」という記事がみえている。この伴野氏は野沢館の貞棟と考えられ、前山城主の伴野氏と野沢館の伴野氏が戦い、野沢館の伴野氏が敗れたのであろう。
ところで、大井氏と戦ったとき光利は七十五歳の高齢であった。『洞源山貞祥寺開基之由』によると、光利八十五歳・光信七十六歳・貞祥八十九歳といずれも当時としては希な長寿を保っている。これは疑問を感じさせるが、世代交代などの記述を見る限り作為を感じさせるものはなく、大井氏は長寿の人物が続いたのであろう。そして、光利は延徳元年(1489)に没し、その跡は光信が継ぎ、光信は永正十二年(1515)に没した。
武田氏麾下に属す
永正六年(1509)、将軍足利義尹(義稙)は関東管領上杉顕定に命じて、伴野六郎と大井太郎の争いを和解させている。その翌年、顕定は越後国長森原で長尾為景・高梨政盛らと戦って討死した。顕定の調停によって和解した伴野六郎は貞慶、大井太郎は行満とするものもあるが、確証はない。ちなみに、このころの前山城主は伴野貞祥で、大井城主は玄慶のあとを継いだ忠孝か貞隆であったと想定される。伴野氏と大井氏の争いはその後も続き、この両者の対立を利用して武田氏が佐久郡を制圧することになるのである。
大永元年(1521)、貞祥は祖父光利三十三回忌・父光信七周忌の追善のため、前山に貞祥寺を開基した。大永七年、「甲斐の武田信虎が伴野氏に頼まれて信州に出立したが、信州方が一つになって、伴野氏は行方不明になった」ことが『妙法寺記』などから知られる。この伴野氏は貞慶ともいわれるが、前山城主は貞祥であった。
この事件は、大井貞隆を中心とする信州の諸将が伴野方に反撃したとき、武田信虎は伴野氏を支援するかたちで、佐久郡侵攻を目論んだものであろう。天文九年(1540)、武田信虎は板垣信形を大将として佐久郡へ侵攻を開始した。伴野氏は武田軍の侵攻に協力して前山城に武田氏を迎え入れたようだ。そして、武田氏は前山城を根拠地として佐久郡を制圧していったのである。おそらく、伴野氏と武田氏とは永年にわたって親睦関係を築き、それを背景として武田氏は佐久郡に侵攻してきた。そして、このころから伴野氏は武田氏に属するようになったと思われる。天文十八年六月、「伴野左衛門方始て出仕」したことが『高白斎記』にみえ、この伴野左衛門は貞祥の嫡男信守の弟にあたる人物と思われる信豊であろうとされている。
戦国時代における伴野氏に関していえば、諸記録にさまざまな伴野氏が登場している。ひとつは、光利に敗れて討死した野沢系の伴野氏、そして、それを受け継いだと思われる野沢城主伴野氏、それに大沢城主の伴野氏が加わって三家の伴野氏が存在していたようだ。このように、室町から戦国期における伴野氏の動向・系譜関係は不明な点が多く、その歴史は不明瞭といわざるをえない。
伴野氏の滅亡、その後
こうして伴野氏は前山城主として武田氏に仕えたが、天正元年、武田信玄が病死し、そのあとを継いだ勝頼は天正三年、三河国長篠で織田・徳川連合軍と戦って壊滅的敗北を喫した。以後、武田氏の勢力は急速に衰退していき、ついに天正十年、織田軍の甲斐侵攻によって滅亡した。その結果、織田信長に接収された武田氏領は信長の部将がそれぞれ分け与えられ、佐久郡・小県郡は滝川一益が与えられた。ところが、同年六月、織田信長は明智光秀の謀叛によって京都本能寺で殺害されたため、甲斐・信濃の織田諸将は領地を捨てて上方へ去った。以後、甲斐・信濃は後北条・徳川・上杉の草刈り場となってしまった。
後北条氏は氏直に七万の大軍を率いらせて上州に軍を進め、家康はかくまっていた依田信蕃に命じて甲斐の旧知の武士たちを味方に付けさせ甲斐へ送り込んだ。信蕃のもとには三千の甲斐武士が集まり、信州小諸へ入った。一方の後北条氏は碓氷峠を越えて信濃に入り依田信蕃と対決せんとしたが、信蕃は蓼科山の山中に入って要害を構え、後北条軍は小諸を押えて大道寺政繁を城主とした。真田氏、望月氏、阿江木氏らは後北条方に従い、岩村田城主の大井氏、相木・岩尾らの大井一族、そして前山城主の伴野氏らもこれにならった。
これは、同じ武田氏遺臣である依田信蕃が徳川家康に属して佐久統一をすすめているのに対し、もともと大井氏の家臣であった依田氏の下風に立つのを快しとしなかったためであったという。そのような伴野信守に対して依田信蕃は前山城攻略の軍を進め、信守は父子君臣ともに城を死守して抗戦に努めたが力尽きて自害した。このとき、信守の嫡子貞長は城外に出て戦っていたが、城中火に包まれたのをみて残る兵を集めて敵軍に突入して戦死した。ここに小笠原伴野氏は滅亡した。貞長の弟信行は、武州八王子に逃れたがその終わりは不明である。
『寛政重修諸家譜』に、伴野時長六代の孫貞元を祖とする伴野氏がおさめられている。それによれば旗本伴野氏は、能登守貞守が武田信玄・勝頼に仕え、その子貞吉も信玄・勝頼に仕えたが、天正十年武田氏滅亡後徳川家康に属し、家康の関東入国ののち上野国に采地を賜っている。慶長五年(1600)、家康の上杉征伐に加わり、関ヶ原の合戦にも参陣している。その後、家康の命によって信濃国上田城を守備した。ことが知られ、子孫は数家に分かれてそれぞれ徳川家旗本として続いた。
【参考資料料:佐久市志/南佐久郡志誌(長野県立図書館蔵書)ほか】
■参考略系図
|
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
全国に広まった時代でもあった。
|
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
|