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結城氏
三つ巴
(藤原氏秀郷流)


 結城氏は、三上山の百足退治の伝説で有名な俵藤太こと藤原秀郷を祖とする下野の豪族小山氏の流れである。すなわち、小山政光の三男朝光が初めて結城氏を名乗った。朝光は治承四年(1180)の源頼朝の挙兵に従い、また翌年の志田義広の討伐に功を挙げ頼朝から重く用いられた。朝光の母は八田宗綱の女で寒川尼とよばれ、頼朝の乳母であった関係から朝光は頼朝を烏帽子親として元服し名乗りの朝光は頼朝から一字を賜ったものである。
 このような頼朝との親密な関係から、結城朝光を頼朝の落胤とする説がある。『結城系図』には「朝光、実ハ頼朝御男也」とあり、頼朝は自分の子を妊娠した寒川尼を小山朝光に与え、生まれたのが朝光であると記している。これに似た話は、豊後の大友氏、薩摩の島津氏にもあるが、いずれも信ずるにたるものではない。また、寒川尼は頼朝の母親ほどの年齢であり、落胤説もそのままには受け止められない。ちなみに、結城氏は室町時代に本姓を藤原から源に改めていることから、自分の家を飾るため、出自を頼朝に結び付ける作為を施したものと考えられる。
 文治五年(1189)の奥州合戦にも従軍し、阿津賀志山の戦いで抜群の戦功をあげ、戦後の論功行賞で陸奥国白河荘が与えられた。朝光は文武両道に通じ、建久六年(1195)の東大寺供養の際、頼朝の随兵と衆徒との争いを弁舌を持って鎮め名声をあげた。頼朝の死後、朝光の頼朝への思慕を頼家に対する叛意とした梶原景時によって讒言されたが、これはかえって御家人たちによる景時排斥を招き、景時失脚、滅亡へと事態は推移した。承久三年(1221)の「承久の乱」には、東山道の大将のひとりとして出陣し、嫡子の朝広も北陸道軍の大将のひとりとして出陣している。

庶子家の分立

 結城氏から分かれた庶家は多い。朝光の庶長子朝俊は平方氏、三男時光は寒河氏、四男重光は山川氏、五男朝村は網戸氏をそれぞれ名乗り、分家独立した。朝光のあとは嫡子で二男の朝広が継いだが、その庶子の祐広は陸奥国白河荘を与えられて白河氏を名乗り、朝泰は関氏、時広は金山氏、信朝は平山氏となってそれぞれ分家独立した。
 結城氏の惣領は嫡男の広綱が継いだ。広綱の弟祐広の白河氏は白河結城氏とも呼ばれ、結城氏の庶子家のなかでは最も力があり、惣領である下総結城の結城氏と肩を並べるほどの力を持っていた。とくに、鎌倉時代末期に、惣領結城氏の当主が相次いで若死したため、相対的に白河結城氏の地位が上昇した。そして、元弘・建武の争乱期に惣領結城氏と白河結城氏の力関係は逆転することになる。
 元弘・建武時の白河結城氏の当主は祐広の子宗広で、後醍醐天皇に従い、新田義貞とともに鎌倉攻めに功を挙げた。その後も、北畠顕家に従って、霊山城に義良親王を迎えるなど南朝方として大活躍をした。その結果、後醍醐天皇は、結城氏の惣領職を態度があいまいだった結城朝祐から取りあげて宗広に与えた。ここに、惣領結城氏と庶子家白河結城氏の立場は逆転し、本来の結城宗家であった結城の結城氏は下総結城氏とよばれるようになった。
 下総結城氏は庶子家である白河結城氏が南朝の忠臣であったのに対して、足利尊氏の鎌倉挙兵以来、常に北朝側勢力として働いていた。朝祐は足利尊氏が九州に敗走したときそれに従い多々良浜の戦いで戦死し、その子の直朝も常陸関城の戦いにおける傷がもとで死んでしまった。直朝は十九歳という若さで、子もなかったため家督は弟の直光が継いだ。

下総結城氏の勢力拡大

 直光も足利尊氏に従って各地を転戦、功をあげ一時安房国の守護に任命された。そして、直光の子基光のとき、結城氏はさらなる飛躍をすることになる。そのきっかけは「小山義政の乱」にあった。康暦二年(1380)、小山義政は宇都宮基綱と境界争いを起こし合戦沙汰となり義政は基綱を討ち取った。鎌倉公方足利氏満はこれを私闘とみなして、関東管領上杉憲定に命じて小山氏を追討させた。義政はいったん降伏したものの、その後も反乱を起こし、結局、永徳二年(1382)に討たれその遺領は基光に与えられた。
 義政の子若犬丸は陸奥に逃れて、鎌倉公方に抵抗したが、ついには行方不明となってしまった。こうして下野の名族小山氏は断絶したため、その名跡を基光の二男泰朝が継ぐことになった。ここに、結城氏は本来の宗家にあたる小山氏を併合した形となった。さらに。基光は下野守護にも任ぜられたのである。こうして、下総結城氏は関東における一大勢力となり、のちに宇都宮氏や佐竹氏・小山氏らと並んで関東八家のひとつに数えられる存在となった。
 関東は幕府の関東支社ともいうべき鎌倉府が治め、鎌倉公方がその主たる存在であり、それを補佐したのが関東管領で上杉氏が世襲した。結城氏は、直光、基光父子の二代にわたって鎌倉府の重鎮として活躍し公方からの信頼もあつかった。ところが応永二十三年(1416)、公方足利持氏を補佐していた管領上杉氏憲が、公方に対して反旗を翻した。
 世に「上杉禅秀の乱」とよばれる争乱で関東一帯を戦乱に巻き込んだが、翌応永二十四年正月、幕府軍に敗れた氏憲と一党は自刃して乱は終結した。この争乱に際して基光は持氏方として行動し、ついで起こった「小栗氏の乱」にも持氏方として活動した。

関東争乱の始まり

 禅秀の乱を乗り切った公方持氏は、禅秀に加担した関東諸将の征伐に乗り出していった。一方、幕府は鎌倉公方持氏の勢力拡大を危険視するようになり、両府の間には不穏な空気が流れるようになった。そして、正長元年(1428)、将軍家では義持が死に跡継ぎの義量も先に死んでいたため、僧籍にあった義教が新将軍となった。
 義持の死に際して持氏は将軍職を望んだが、義教の将軍就任は持氏の野望を退けると同時に、持氏に新将軍義教への反発心を増長させた。持氏は関東統一の野心をふくらませ、幕府との対立関係を深めていった。永享三年(1431)、一時幕府と持氏は和睦したが、その後も持氏の反幕的姿勢は改められることはなく、翌年には京都扶持衆の山入佐竹氏を攻略した。
 このような持氏の姿勢に管領上杉憲実は諫言を行ったが、持氏は聞き入れることなく返って憲実を親幕的として討伐しようとした。身の危険を感じた憲実は上野に退去したが、持氏は憲実討伐の兵を発した。ここに「永享の乱」となり、幕府は上杉氏を支援するかたちで乱に介入し、これを機会に鎌倉府をつぶしてしまおうと画策したのである。持氏は幕府軍に抵抗したものの敗れて鎌倉で自刃し、鎌倉公方家は断絶した。
 永享の乱当時における結城氏の当主は氏朝で、室町時代の結城氏で特筆される人物である。氏朝は応永二十九年、小栗満重に加担して上杉憲実の討伐を受け、以後、憲実と対立関係にあった。したがって、鎌倉公方足利持氏が「永享の乱」を起こすや持氏側となって戦った。



・結城城跡(公園と化した本丸址・土塁の跡)


結城氏の断絶と中興

 持氏が自刃して乱が鎮圧されたとき、遺児春王丸・安王丸らは下野日光山にのがれ、やがて常陸で挙兵すると、氏朝は春王丸・安王丸を結城城に招きいれて公然と幕府に対して反旗を翻した。これが「結城合戦」である。結城城には、結城氏朝・持朝父子をはじめ、山川氏や小山氏などの一族が籠城し、氏朝は反上杉党の諸勢力にも参集を呼びかけた。この呼びかけに、下野の宇都宮等綱・小山広朝・那須資重、常陸の佐竹義憲・筑波潤朝・宍戸持里、上野の岩松持国、信濃の大井持光らが呼応した。
 一方、幕府は上杉憲実の出陣を要請し、上杉清方・同持朝、千葉胤直らを中心に信濃の小笠原政康、甲斐の武田氏、越後の長尾氏、さらに朝倉・土岐・今川氏らが加わって、約十万ともいわれる大軍が結城城を包囲した。戦いは結城城籠城軍の奮戦によって年を越し、翌嘉吉元年(1441)の幕府軍の総攻撃によって結城城は炎上し、春王・安王らは捕縛され二人は美濃で斬られ、結城氏朝は嫡子の持朝とともに自害し結城氏は没落した。
 鎌倉公方家の断絶後、戦後処理にあたった上杉氏の力が強大化したが、それを喜ばない関東の諸将は鎌倉府の再興を幕府に願った。それは、本来ならば許可されようもないことであった。ところが、幕府は「嘉吉の乱」で将軍義教が殺害されて以後、混乱が続いていたこともあって、唯一人残っていた持氏の遺児永寿王丸が赦されて成氏を名乗って鎌倉に下向し鎌倉府が再興された。
 この間、結城氏は氏朝・持朝父子の死によって断絶状態にあったが、新公方となった成氏は、氏朝の四男ともいわれる成朝を取り立てて結城氏を再興した。これは、成氏が父持氏や兄たちに尽くして滅亡した結城氏の功に報いる意味があった。さらに、成氏は成朝をはじめ持氏に加担して没落した武士たちを側近に取り立てた。この成氏の行動は幕府寄りの立場である管領上杉氏にとって看過できるものではなく、成氏と管領上杉憲忠との間に不和が生じ、享徳三年(1454)、成氏は結城成朝らに命じて憲忠を殺害してしまった。
 これが、関東を四半世紀にわたる戦乱に叩き込んだ「享徳の乱」の引き金となった。成氏は鎌倉を出て上杉氏らと戦ったが、鎌倉を留守にしている間に幕府軍が鎌倉を占領してしまい、成氏は鎌倉に戻ることができなくなり、下総古河に奔った。以後、成氏が鎌倉を回復することはなく「古河公方」と呼ばれるようになる。古河城は結城城とも近く、成氏が結城成朝の力を頼ったことがうかがえる。しかし、その成朝は家臣の多賀谷高経に謀殺されてしまった。

戦国時代への序奏

 成朝には男子が無かったため、成朝のあとは兄長朝の子氏広が継いだ。氏広は古河公方に従って伊豆の掘越公方を攻めたり、古河城をめぐる争奪戦などの戦いに参陣するなど、文字どおり戦いの連続の日々を過ごし文明十三年(1481)三十一歳の若さで死去してしまった。跡を継いだ子の政朝はわずか二歳であった。この家督継承に際しては、有力一族の山川景貞が強く介入したようであり、景貞は子の基景を結城氏に送り込んだ形跡もある。
 結城氏の家督を継いだ若い政朝を補佐したのは多賀谷和泉守であったが、次第に専横を極めるようになり、明応八年(1499)政朝は多賀谷家稙の協力を得て多賀谷和泉守を殺し、その与党を討ち果たすことに成功した。これにより、結城氏は家中の下剋上の芽を摘みとり、守護大名から戦国大名へと脱皮する転機を掴み取ったのである。ときに政朝は二十歳の青年武将であった。
 当時、結城氏は北の宇都宮氏、南の小田氏らと宿命的な対立関係にあり、また下妻城に拠る重臣多賀谷氏が独立、離反の動きを示すといった険しい状況に立たされていた。政朝はのちに結城氏中興の祖とされるが、大永七年(1527)に家督を嫡子政勝に譲るまでの約四十年間は危険と波瀾に満ちた歳月であった。かれは一族の上下の身分関係を整えて下剋上の風潮をおさえ、下妻多賀谷氏・下館水谷氏・綾戸山川氏といった有力領主を「結城洞中」の一員として組み込むことに成功した。大永六年(1526)には、宿敵宇都宮氏に背いた芳賀氏を援け、猿山合戦で宇都宮氏を破って旧領の下野国中村以下十二郷を回復した。また、同族である小山氏に三男高朝を入れ、長く山川氏系が続いていた小山氏を結城系としている。
 政朝の隠居後、家督を継いだ政勝は二十四歳であった。政勝の時代は、戦国大名結城氏の基礎固めから飛躍の時期でもあった。とはいえ、政勝にとっては独立性を強めていった多賀谷氏・水谷氏・山川氏など同盟豪族のつなぎとめと掌握の問題、関東のほぼ中央に位置し政治経済・軍事上の複雑な要因をかかえる立地条件もあって、その前途は予断を許さない険しいものであった。
 こうした情勢のなかでの政勝の緊急の課題は、自らの直臣団の強化もさることながら、前述の多賀谷氏をはじめ水谷氏・山川氏ら有力国人領主や姻戚関係にあった小山氏らをいわゆる「結城洞中」と呼ばれた地縁的、血縁的な領主連合に組みこむこと、さらに下野・常陸などの近隣諸豪族、大名たちとの合従連衡をはかって、上杉氏・小田原の後北条氏、常陸の佐竹氏らの干渉、介入に対処することであった。

戦国大名、結城政勝

 ところで『結城家之記』には、天文十六年(1547)、結城政朝は死の床のなかで、政勝・小山高朝の兄弟に向って「もし私が死ねば、小田氏や宇都宮氏が小山・結城へ攻めてくるだろう。その時には兄弟二人力を合わせて小田・宇都宮の軍勢を討ち、その首を墓前に供えよ」と遺言した。
 政朝が死去すると、その死から五十日もたたないうちに宇都宮氏が小山に侵攻してきた。政勝は高朝を助けるためにただちに出陣し、高朝とともに宇都宮軍と戦い、多数の首を討ち取った。そして、それらの首を政朝の遺言にしたがって墓前に供えた、という話が記されている。政勝と高朝兄弟が堅い絆で結ばれて結城・小山氏の連合体制を形成し、周辺の宇都宮・小田・佐竹氏らと対峙しながら、勢力の維持・拡大につとめていたことをうかがわせる挿話といえよう。このような小山・結城氏の関係によって、高朝の三男晴朝が政勝の養嗣子となって結城氏に入った。政勝には明朝という男子があったが、幼くして死去したため、甥の晴朝を迎えて家督を譲ることにしたのである。
 こうして、さらに関係を強化した結城氏と小山氏とは、北方の強豪宇都宮興綱・俊綱父子と戦った。一方、宇都宮氏はその北方で那須氏と対立していた関係で、常陸の佐竹氏と結んだ。そのため那須氏は、結城・小山氏に接近していった。佐竹氏はまた小田氏とも結んでいたことから、ここに結城・小山・那須氏と、小田・佐竹・宇都宮氏という二つの勢力が抗争するという関係が成立した。その一方で、北条早雲が小田原を本拠として以来、後北条氏が着々と関東一円に勢力を拡大していた。
 天文十四年(1545)十月、古河公方足利晴氏と扇谷・山内両上杉氏の連合軍は、後北条側の河越城を攻撃した。北条氏康は河越城の救援に出陣したが、連合軍は大軍であり、一計を案じた氏康は降伏を請うなどして連合軍の油断を誘い、翌年、精鋭を率いた北条氏康は連合軍に夜襲をかけた。氏康に呼応して河越城の後北条勢も出撃し、油断しきっていた連合軍は散々な敗北を喫した。「河越合戦」として名高いこの戦いに勝利を収めた氏康は、武蔵北部から下野・下総・常陸へとその勢力を伸ばし、公方晴氏を影響下においた。その後、北条氏康はみずからの甥にあたる義氏を公方に据え、関東管領として振る舞うようになった。この時代の変化を敏感に感じとった結城政勝は、北条氏康と足利義氏に接近し、連携に成功すると宿敵小田氏討伐に踏み切るのである。
 弘治二年(1556)結城政勝は、小田氏の北部最前線基地である海老島城で小田軍と激闘して破り、その結果、『結城家之記』に記されたような「小田領中郡四十二郷、田中庄、海老島、大島、小栗、沙塚、豊田、一所も残さず結城の領地と作す」といった所領拡大に成功したのであった。 しかし、結城氏にそれらの土地を安定的に支配する実力はなく、真の意味で占領地を結城領に編成することはできなかった。

結城氏新法度

 小田氏方の海老島城を攻略した政勝は、伊達氏の『塵介集』、武田氏の『甲州法度』などと並ぶ戦国家法の一つとして有名な『結城氏新法度』を制定した。前文、百四カ条の本文、制定奥書、ニカ条の追加、家臣連署の請文からなるもので、戦国家法のなかでも注目されるものである。
 制定されたのは、海老島合戦において勝利した政勝が結城氏最大の支配領域を獲得した時期で、その勢力圏は結城から下館・下妻・山川・小山・富屋・小栗・海老島の諸地域に及んでいたが、法度の施行範囲はその全域ではなく、結城氏みずからが統治した本領の結城郡上方を中心とする地域に限られていたようだ。結城氏の勢力圏はあくまで勢力圏であって、結城氏が実質的に支配しえたのは、本領の結城郡上方をこえるものではなかった。すなわち、結城氏の南には山川城の山川氏、東方には下館城の水谷氏、東南には下妻城の多賀谷氏らが、それぞれ独自の支配領域を形成していたからである。
 たしかに、山川・水谷・多賀谷氏らは結城氏に従っていたが家臣というよりは目下の同盟者というべき存在であった。それゆえ、山川・水谷・多賀谷氏は、それぞれ独自の家臣団をもち、かれらに対する知行宛行、官途・受領の付与、さらに寺社への所領安堵、寄進などを実施しており、結城氏がかれらの領内でそういった行為を実施することはなかった。
 さらに三氏は外交面でも佐竹・小田氏らと独自に結ぶこともあり、多賀谷氏などは小田氏と連合して結城氏と戦ったり、佐竹氏の麾下に属すなど、きわめて独立的な動きを見せていた。とはいえ、山川氏は鎌倉時代以来の結城氏一族であり、水谷・多賀谷氏らは、結城氏の被官として結城氏のもとで勢力を築いてきた。そして、結城氏は三氏を目下の同盟者とし、結城氏の軍事的支柱として、かれらの支配領域までを勢力圏と意識していた。このようことから、結城氏新法度は山川・水谷・多賀谷氏らの支配領域にまで及ぶことはなかったのである。
 結城氏新法度の制定目的は、前文によれば、家中の秩序維持にあり、統治規範をあらかじめ明示することで、家臣の不当な主張を抑止し領内の平和を結束を保持するのだとある。内容的には、主従関係、行政手続、刑事事犯に重点がおかれ、ついで財産・家族・従属身分についての規定がなされている。戦国時代の大名領主が領内を統治するときに直面するであろう基本問題が全面的に取り扱われており、この法度がまぎれもなく結城氏の基本法規であったことが示されたものである。

結城晴朝 時代の変転

 永禄二年(1559)八月、政勝が死去すると、小山高朝の子で養子に迎えていた晴朝が家督を継いだ。すると間もなく、家中の混乱をみこして小田氏治が本領回復に動き、常陸の大島、北条で戦いとなったが晴朝は小田勢をよく撃退した。ついで翌三年、小田氏治は佐竹氏・宇都宮氏らを語らい一斉に結城城を攻めてきた。晴朝は落城寸前まで追い込まれたが城を守り抜き、結局、両軍講和というかたちでおさまった。
 ところが永禄三年(1560)、越後の長尾景虎が佐竹氏からの要請を受け、越後において庇護していた上杉憲政を奉じて関東に出陣してきた。越山した景虎はたちまちのうちに上野を征圧し厩橋城において越年すると、翌四年三月、参集してきた北関東諸将を率いて小田原城を包囲、攻撃した。このとき、小山・佐野・宇都宮・皆川・小田・真壁・多賀谷・水谷・梁田・里見氏らの関東諸領主の多くは謙信に味方した。しかし、落城にはいたらず長陣を嫌った景虎は鎌倉に兵を引き、上杉憲政から譲られた関東管領職就任式を執り行った。併せて上杉名字、重宝なども送られ、長尾景虎改め上杉政虎を名乗った(その後輝虎と改めのちに出家して謙信と号した)。
 謙信は永禄四年に、上杉方に参集してきた関東諸将の名前と幕紋を記した『関東幕注文』を作成したが、そのなかに結城氏の名は見えない。これは、結城氏が古河公方足利義氏との関係から、那須・壬生氏らとともに北条氏康に味方した結果であった。一方。多賀谷・山川・水谷ら結城氏の目下の同盟者たちの名前が見え、かれらが後北条方である結城晴朝から離れて、独自な立場で上杉謙信になびいていったことが分かる。憲政から譲られて関東管領となった謙信は、北条氏康が奉じる義氏に対抗して藤氏を推戴したため、後北条氏についていた関東諸将の中から謙信に転じる者が続出したのである。このため謙信の攻撃を受け小山氏とともに降伏、以後上杉方に加担した。とはいえ、この後も結城氏は後北条方、上杉方の両者の間を揺れ動き、その状態は天正二年(1574)宇都宮・佐竹氏らと連携を強め上杉方に転じるまで続いた。
 その間の永禄十二年(1569)、上杉謙信と北条氏康の間に「越相同盟」が結ばれ、義氏が唯一の古河公方として承認されたが、古河公方は次第に後北条氏の傀儡と化していった。その結果、関東の諸将は古河公方の実態は、後北条氏に操られるたんなる足利氏の名跡継承者に過ぎない存在と看破し、中世の呪縛から解き放たれることとなった。後北条氏も義氏を立てた行動から、武力を前面に押し出したかたちで関東の諸将に対するように変化した。
 そのような、天正六年三月、謙信が病死し、上杉氏の勢力は関東から大きく後退した。ここにいたって関東は、後北条氏の勢力は巨大化し、結城氏は後北条氏の攻勢にさらされるようになった。晴朝は、佐竹・宇都宮_那須氏らと結んで後北条氏に対抗し、天正五年には連合しえ、北条氏政・氏照んお軍勢を撃退している。
 天正十二年(1584)、佐竹義重が下野沼尻で北条氏直と対陣したとき、結城氏も佐竹方として軍勢を率いて参陣している。その軍勢は佐竹一族の東氏をのぞけば、多賀谷・江戸氏につぐものであった。
………
・結城晴朝像(東京大学史料編纂所:肖像複製画DBより)


戦国時代の終焉

 関東の地で後北条氏勢力と反後北条氏の諸大名らが抗争を繰り返している間に、中央の政治情勢は大きく動いていた。すなわち、天正十年、織田信長は徳川家康と連合して甲斐武田氏を滅ぼし、天下統一に大きく前進した。ところが、同年六月、信長は部将明智光秀の謀叛によって京都本能寺で横死した。その後、秀吉が明智光秀を破って天下統一に乗り出すと、晴朝は多賀谷重経を仲立としたり、あるいは秀吉に直接連絡したりなどして誼を通じている。この時点では、他の常陸諸領主たちよりも天下の大勢を見通していたといえる。
 信長の事業を継承した秀吉は関白、太政大臣に出世し、中国、四国、九州をたちまちのうちに平定した。そして、「惣無事令」を発するなど天下統一を強力に推進した。秀吉は小田原北条氏にも書状を送って、麾下に参じるように申し送ったが、後北条氏はそれに応じなかった。ついに、天正十八年(1590)秀吉は後北条氏征伐の軍を発した。この小田原攻めに際して、結城晴朝は秀吉の要請に応じて後北条方の小山城、榎本城を攻略している。天正以降の反後北条的姿勢、佐竹・宇都宮氏と同じく秀吉側の領主として行動したことが、結城氏が豊臣政権下の大名として生き残る運命の分かれ道になったといえよう。
 小田原落城直後、徳川家康の実子で秀吉の養子となっていた秀康が、男子のない晴朝の養子に迎えられ結城家の家督を継いだ。この縁組によって、豊臣・徳川両氏と姻戚関係が生じ、結城家は大名としての将来が約束されたのであった。ところで、晴朝は天正五年(1577)に宇都宮広綱の子朝勝を養子に迎えていたが、結城の家を守るためには秀吉の息のかかった養子を迎える方が得策と判断し、哀れ朝勝は結城の家を追い出されたのである。もっとも、この朝勝はのちの結城氏系図からは抹消されている。
 秀吉の死後、徳川家康と石田三成との対立が表面化し、慶長五年(1600)関ヶ原の戦いへと発展した。晴朝の養子秀康は家康の実子であり、東軍として活躍し、上杉征伐とそれに続く戦いにおいて宇都宮に駐留し上杉軍の関東侵攻をくいとめるという大役を与えられ、その重責をよく果たした。戦後、秀康は越前六十七万石に転封され、晴朝もそれに従って結城を離れたため下総における結城氏の歴史は幕を閉じた。

結城氏の最期

 その後、秀康は結城から松平に改めたため、結城氏は一時的に断絶した。しかし、秀康は死に臨んだとき、五男の五郎八に結城の名跡を継ぐことを遺言した。五郎八は成人して結城直基となり越前勝山三万石の大名となった。しかし、直基ものちに松平姓を名乗ったことで、結局、結城氏は断絶してしまった。
 一方、晴朝は秀康を養子に迎えて隠居の身となったが、必ずしも恵まれた晩年とはいえなかったようだ。栄達こそしたものの、それが本物でないことを感じ取っていたようである。そして終生、名字の地である結城に戻りたいとの願望を持ち続け、慶長十九年(1614)、ついに越前の土と化した。
………
・城の写真は、常陸周辺の城郭巡りさん結城城さんから転載させていただきましたが、いずれも閉鎖されてしまいました。残念です。

参考資料:小山町史/下館市史/日本の名族/戦国大名系譜人名事典 ほか】

■参考略系図
 


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