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石見吉見氏
●二つ引両
●清和源氏範頼流
吉見氏の紋は『見聞諸家紋』に二つ引両と出ている。また、石見吉見氏の紋は毛利十八将図にみえる正頼の肖像に「二つ引両」が確認できる。文献により「丸に違い鷹の羽」「梨の切り口」とするものもある。


 吉見氏は、源頼朝の弟蒲冠者範頼の後裔と伝えている。すなわち、範頼の孫為頼が武蔵国横見郡吉見庄に住して吉見を称したことに始まるという。しかし、『吾妻鏡』文治三年の条に吉見次郎頼綱なる者が、収公された畠山次郎重忠領であった太神宮領伊勢国沼田御厨を賜ったことが記されている。さらに『承久記』には、北条時房に随って近江国勢多の合戦に参加した吉見十郎・小次郎父子がみえている。
 吉見氏が源範頼の後裔であることは、ほぼ間違いないようだが、範頼流吉見氏以前に、異流の吉見氏が存在していたことは疑いない。
 さて、所伝によれば、為頼の子為忠は能登国に移住し、武蔵に残った嫡流の義世が謀叛の罪で断絶したことで、能登吉見氏が吉見一族の惣領家になったという。以後、吉見氏は能登を中心に発展し、南北朝時代には足利尊氏に属して能登守護に任じられたこともあった。

石見に勢力を拡張

 石見の国人領主吉見氏は、能登吉見氏の庶流ということになっている。鎌倉時代の中ごろ、吉見頼行が蒙古襲来に際して、弘安五年(1282)、幕命によって石見国を防御するため能登から石見に下向したことに始まるという。一方、吉賀郡野々郷の地頭職を有していた吉見氏が、庶子家の頼行を代官として下向させたとも考えられる。
 いずれにしろ、石見吉見氏の初代とされる頼行は吉賀郡を本拠と定め、永仁三年(1295)、津和野一本松城を築き石見国に土着した。
 頼行の子頼直のとき元弘の乱に遭遇し、頼直は後醍醐天皇の綸旨を奉じて長門探題を攻め、建武の新政がなると、恩賞として阿武郡を賜った。その後、足利尊氏の謀叛によって新政が崩壊すると、頼直*は尊氏に属してその養女を室に迎えたという。しかし、南北朝時代における吉見氏の動向は史料も少なく、不明な点が多い。
 ところで、南北朝時代は一族が南北に分かれて相争う例が多かった。吉見氏と境を接する益田氏の場合、惣領は武家方に三隅氏ら庶子家は南朝方に分裂して互いに相争った。吉見氏も例外ではなく惣領の頼直は武家方に、弟といわれる八郎頼基や一族の高津入道道性長幸らは南朝方に属していた。また、尊氏と弟の直義が争った観応の擾乱が起ると、頼直の二男という入道元智とその子元実らは直義方となり、直義が討たれたあとはその養子直冬に味方して活躍したことが知られる。
史料などでは、頼行が尊氏の養女を娶って頼直が生まれたとするものもあるが、年齢的にみて 無理があるようだ。

一族の繁衍

 やがて、周防の大内氏が武家方に転じて勢力を拡大、大内弘世が周防・長門・石見の守護に任じられると吉見氏も大内氏に従うようになった。弘信のころで、石見吉見氏の動向が知られるようになるのは、この弘信の代からである。
 吉見氏の系図を見ると、頼行の子らから下瀬・上領氏が分出し、ついで、頼直の子から伊藤氏・生田氏が、そして、弘信の兄弟から三宅・長野・竹内・柳・中屋氏らが庶子家として分かれたことが記されている。しかし、鎌倉時代ならいざしらず、南北朝時代において庶子家が分かれ出たとするのは、時代相からみてうなづけないものがある。先述のように、南北朝時代は惣領家と庶子家が対立関係にあんることが多く、惣領家は一族の統率に頭を悩ましていた。益田兼見なども庶子家との対立に奔走し、一族が結束する旨を強調した置文を残している。
 おそらく、吉見氏の系図に庶子家と見えているのは、石見の土豪らと思われ、吉見氏の系図につらなることで吉見氏を中核とした新たな結束を図ろうとしたものであろう。それが、弘信の代にみられることは、吉見氏が勢力を確立したのが弘信の代であったことの表れではないだろうか。
 かくして、吉見氏は弘信のあとを継いだ頼弘の時代に至って、史料上にも登場してくるようになる。頼弘は応永十二年(1405)正月、福屋氏兼・周布兼宗・三隅氏世・益田兼家ら石見の国人衆と神文をもって盟約を交わしている。これは、一揆契状ともよばれるもので、南北朝時代における惣領制の崩壊を受けて、近隣の国人領主らが自己の諸領と権益を保持するための新たな秩序を求めたものに他ならない。
 頼弘はこの地域連合を背景に、守護領となった吉賀郷が開発本領であることを幕府に訴え、認めさせることに成功した。さらに吉賀郷に対する能登吉見氏の支配を斥け、石見西部の有力国人に成長していったのである。

大内氏との関係

 吉見氏が石見の有力国人に成長することは、源平の争乱期より石見に勢力を保持している益田氏との対立を引き起こすことになった。また、吉見氏は阿武郡のほかに、厚東郡吉見郷などを領していたが、それらの所領は益田氏の所領と隣接、あるいは複雑に交錯したいたため、所領をめぐって益田氏と対立することが多かった。一方、大内氏の重臣陶氏とも所領を廻って対立しており、この所領問題が吉見氏を益田・陶氏らと宿敵関係におく要因となった。
 応仁元年(1467)、応仁の乱が起こると大内政弘は西軍の中心勢力として上洛した。吉見成頼・信頼父子は益田貞兼らとともに西軍に属して戦った。しかし、文明二年(1470)、大内政弘の留守をついて政弘の伯父教幸(道頓)が、大内氏の家督を奪おうと東軍に立って挙兵した。これに、吉見信頼は周布和兼・三隅長信・小笠原又太郎らとともに味方した。信頼が教幸に呼応して兵を挙げたのは、大内氏に敵対するというよりは、陶・益田氏らを打倒しようとする意図の方が強かったといわれている。
 国元の危機に接した大内政弘は、ただちに益田貞兼を帰国させ、陶弘護と協力させて乱の鎮圧にあたらせた。吉見信頼は貞兼に攻められ、陶弘護に敗れた教幸は九州に逃れ、翌年自害して道頓の乱は終わった。その結果、道頓に味方して大内政弘に敵対した信頼は多くの所領を失い、それは益田氏や陶氏らが支配するところとなった。かくして、信頼は陶氏と益田氏と鋭く対立するようになったのである。文明九年、戦乱に倦んだ大内政弘が帰国すると、信頼は前非を悔いて政弘に臣従を誓った。
 文明十四年、大内政弘は諸将を招いて酒宴を催した。その席に吉見信頼も出席し、政弘からの歓待を受けた。ところが、その席上で信頼は弘護との間に隙を生じ、弘護を討ち果たした。しかし、信頼自身も内藤弘矩に討たれてその場で死去した。信頼は山口に出発する前に弟の頼興に家督を譲っており、決意するところがあって酒宴に臨んだようだ。
 弘護は政弘の留守を守って道頓の乱を鎮圧するなど、大内氏の筆頭重臣として押しも押されもせぬ存在であり、その死は政弘はもとより多くの人びとから惜しまれた。一方、吉見氏は信頼の一挙によって、存亡の危機に立たされたが、政弘は領国の安定を優先して吉見氏の討伐は行わなかった。とはいえ、頼興は失った信頼回復のため、政弘に忠節を尽くし、義興の代になるとそのほとんどの合戦に出陣している。義興も頼興の働きを認め、吉賀郷を改めて吉見氏に与えてくれた。
 永正四年(1504)、義興が前将軍足利義稙を奉じて上洛すると、頼興もこれに従い、永正八年の京都船岡山の合戦では目覚ましい活躍をしたことが系図に記されている。

大内義隆の死

 こうして、大内氏の信頼をかちえた頼興は、嫡男隆頼の室に義興の娘を迎えた。ところが、隆頼は早世してしまい、僧籍にあった周鷹が還俗して正頼と名乗り、義興の娘を室にして家督を継承した。こうして、正頼は義興の嫡男義隆と義兄弟となり、これがのちに正頼の行動を決することになる。
 家督を継いだ正頼は十六ヶ条からなる吉見家掟書を制定し、大内氏の一族に連なり、吉見氏は正頼の代に戦国大名と呼べる存在に飛躍するのである。天文十三年(1543)、大内義隆は出雲月山富田城を攻め、正頼もこれに従軍したが、戦いは大内氏の敗北に終わった。この敗戦をきっかけに義隆は、戦いを忌避して文弱に流れるようになった。その結果、大内家中は陶隆房を領袖とする武断派と相良武任らの文治派とに分かれて、たがいに争うようになった。
 時代は戦国乱世であり、義隆の文弱な行動は、そのまま国を危うくしかねるものであった。また、義隆が寵愛する相良武任は他国者であり、陶氏はもとより内藤・杉らの大内氏重臣は大内氏の行く末を考え、ついに謀叛を企てるようになった。この情勢下、相良武任は正頼を尋ねて、隆房が謀叛を起したときには義隆を援けてくれるよう依頼している。
 天文二十年(1551)、陶隆房は兵を挙げ、追いつめられた義隆は自害して大内氏の嫡流は滅亡した。大内義隆を弑逆した隆房は、豊後の大友義鎮の弟晴英を迎えて大内氏の当主とした。その後、晴英は将軍から一字を賜って義長と改めたが、大内氏の実権は晴賢が掌握していた。陶氏が義隆を討ったとき、毛利元就は消極的ながら陶氏の謀叛に加担していた。
 一方、隆房謀叛の報を聞いた正頼は、陶氏との宿怨関係にあることと、義隆の姉を娶っている血縁関係もあって反陶=義長の旗色をあらわした。吉見氏と境を接する七尾城の益田藤兼は、隆房が義隆を殺害すると、ただちに隆房に味方して吉見家の支城能登呂山城を攻めてきた。

陶氏に徹底抗戦

 天文二十二年(1553)、陶晴賢打倒を宣言した正頼は、三本松城をはじめ嘉年城、下瀬山城などに拠り、毛利元就・隆元父子に応援を依頼したが、元就から色好い返事は得られなかった。かくして、吉見氏は陶=義長軍と戦ったが、翌天文二十三年には三本松城を中心に攻防戦が繰り返された。
正頼の肖像  陶方には益田氏も加担して三本松城を背後から攻撃したが、正頼は陶・益田軍の包囲、攻撃を五か月にわたって防戦し続けた。しかし、ついに力尽き嫡男広頼を人質に出すことで和議がなった。
 吉見氏が陶氏、益田氏らを相手に孤軍奮闘している間、毛利元就は晴賢との間に齟齬が生じ、吉見氏が陶氏と和議を結んだころには、安芸・備後の陶方の諸城を攻略していた。陶晴賢、義長らにすれば、吉見氏だけに係わっていられない状況が生じていたのである。正頼の奮戦は、結果として毛利元就に寄与するところが大きかったといえよう。
 かくして、翌弘治元年(1555)十月、毛利元就と陶晴賢は厳島で決戦を行い、敗れた陶晴賢は自害して滅んだ。毛利勢はただちに周防・長門の征圧戦を展開、山口に迫った。吉見正頼もこれに呼応して、大内義長と戦って山口に侵攻した。山口を捨てて下関に逃れた義長は、弘治三年、ついに自害して周防・長門は毛利氏の支配するところとなった。
 その後、正頼は毛利元就に謁して、毛利氏の麾下に属した。この間、益田藤兼は七尾城にあって毛利氏との対峙姿勢をつづけていたが、結局、毛利氏に帰服して臣従するにいたった。毛利元就は吉見正頼の功を第一として、阿武郡全郡と佐波郡・厚東郡内などに所領を宛行った。このとき、以前益田氏に奪われていた旧所領をほぼ取りかえすことができたようだ。
・正頼の肖像:胸の部分に二つ引の紋が見える

毛利氏に属す

 毛利氏の麾下に属した正頼は津和野三本松城を本拠として、家臣らに郡内各地に所領を与え、また波多野氏を城ノ腰山城の城番とするなど、所領支配の体制を整えていった。その形態は、小さいながら戦国大名の所領支配そのものであった。やがて、正頼は嫡男の広頼に家督を譲て隠居し、天正十六年、七十六歳を一期として波乱の生涯を閉じた。広頼は毛利隆元の娘を室に迎え、出雲尼子氏との戦いなど、毛利氏の重鎮として各地に出陣して軍功を挙げている。
 その間、時代は大きく動き、豊臣秀吉が天下統一を果たし、群雄割拠した戦国時代は終焉を迎えていた。毛利氏は秀吉政権の大名となり、吉見氏も毛利氏の家臣に位置付けられるにいたった。文禄元年(1592)、秀吉が朝鮮出兵を開始すると、広頼に代わって嫡男の元頼が出征した。元頼は吉川元春の娘を妻とし、将来を嘱望されていたが、二十歳の若さで朝鮮において陣没した。そのため、広頼は改めて二男の広行(のち広長)に家督を譲ると隠棲した。
 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いが起こると毛利輝元は西軍の総帥にまつりあげられ、大坂城に入った。しかし、西軍の敗戦によって、中国六ケ国の太守から、わずかに周防・長門の二国の知行を認められるばかりとなった。このとき、吉見広行は阿武・厚東両郡に一万一千石余の地を与えられた。
 しかし、広長は毛利氏の処遇を不服として、たびたび出奔、不穏な行動もあったため所領を没収されてしまった。広長の度重なる毛利氏への反抗は、かつて石見において宿敵関係にあった益田氏が広大な領地を与えられ、萩城建設の責任者として着々と実績をあげることへの焦りもあったようだ。毛利氏のもとを去った広長は江戸に赴き、幕府への仕官を求めたようだがならなかった。

吉見氏の終焉

 元和三年(1617)、恥をしのんで帰国した広長に対して輝元は、祖父正頼の功と叔父甥の関係もあって二百石の扶持を与えて帰参を許した。ところが、翌元和四年、広長が輝元毒殺を企てているとの讒言によって毛利軍の追討を受け、その包囲のなかで三人の男子とともに自刃し吉見氏は滅亡した。
 吉見氏滅亡の背景には、広長の毛利氏に対する不遜な行動もあったが、幕藩体制の成立期における主導権争いに吉見氏が敗れた結果とみるべきであろう。
 ここに吉見氏の男系は絶えたが、広頼は広長の出奔中に吉川広家の三男就頼を五女とめあわせて吉見の家系を継がせていた、のちに就頼は吉見姓を廃し、毛利氏を称して一門に加えられ大野毛利氏となった。 ・2005年4月8日

主な参考文献:萩市史/津和野町史 など】


■参考略系図


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