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矢島氏
松皮菱
(清和源氏小笠原氏流)


 矢島氏は仁賀保氏と同族と伝えられ、大井氏とも称しているので、甲斐源氏小笠原氏流の大井朝光の後裔と思われる。
 由利十二頭のなかでは、仁賀保氏につぐ大勢力であったが、戦国時代末期に仁賀保氏との対立で滅亡したことで古記録は失われてしまった。そのため、矢島氏の事蹟をたどることは困難となっている。家系図も伝わっておらず、世系も諸説あって一定していないのである。

矢島大井氏の出自

 由利地方の中世の諸豪族の興亡の歴史を綴った『由利十二頭記(矢島十二頭記)』の前書に大井氏の家系について、以下のような記述がある。
 「『初代を義久公と申し候。御本名は小笠原にて右三代は大井名字を御名乗り光安公は大井大膳大夫殿とも矢島五郎とも申候』由利十二頭は応仁元年に何れも鎌倉より御下りの一統に申候。仁賀保殿を旗大将と申しなし信濃より下り来る。矢島先祖大膳大夫義久の由来は応安元己酉年より応仁之丁亥迄の内百年に成ると申し候。根之井と申す侍浪人分にて矢島へ下り地頭とてもなく百姓ども我勝なる様子見届け信州木曽義仲公の末葉小笠原大膳大夫義久を連れ下り矢島の地頭に立て根之井も矢島を三つ一つ知行致し候」という内容である。しかし、記述を仔細に見ると、小笠原氏を木曽義仲の末葉などと記し、初代義久の以前についての言及もない、まことに漠然としたものであるとしかいえない。そして、「大井氏は義久、光久、義満(義光)、満安(光安)の四代」という。
 一方、矢島大井氏の出自をうかがえるものとして『羽黒祭文』があり、その祭文のはじめに矢島大井氏の由来について述べたくだりがある。
 「(前略)出羽奥州の乱世やむときなく、矢叫びの声の絶え間も嵐吹く、鳥海山の北表、由利の郡は一入の乱れなるによって鎌倉執権の仰せにて、由利十二党を下さるる。初筆には矢島の大江大膳の太夫、院内の仁賀保大和守、赤尾津孫九郎、子吉の子吉兵部少輔、芹田伊予守、打越の打越左近、石沢の石沢次郎、岩谷の小笠原右兵衛尉、潟保の潟保双記斎、鮎川の鮎川筑前守、下村の下村彦次郎、玉米の小笠原信濃、これを由利十二党と申さるる。十二党の旗頭、矢島の大江大膳太夫殿に二代目、左衛門尉義満殿は、生まれつき病身にて、捗々しい下知もならぬによって、旗頭の役を仁賀保殿に譲ったれども、このさまにては行々矢島の城も覚束ない。(後略)」
 というもので、これによれば仁賀保氏が旗頭となる以前には、矢島氏が旗頭であったという伝承があったことをうかがわせている。
 矢島氏と仁賀保氏とはともに大井朝光から出た孫の時光と光泰の二系統のあることが伝えられ、時光並びにその子光家が仁賀保氏となり、弟光泰の系統が矢島の大井氏になったものとも考えられる。しかし、これも推測であって、裏付けのあるものではない。結局、矢島氏の出自についていえば、不詳としかいえないようだ。

乱世の到来

 戦国期の矢島氏は、仁賀保氏と並ぶ由利郡の二大勢力に成長して、両者は抗争を繰り返した。両者の抗争は、永禄三年(1560)から文禄元年(1592)までの間に十数回に及んでいる。
 仁賀保氏と矢島氏とは先祖を同じくする近い同族であった。それが、対立するようになったのは、近隣諸大名からの影響もあったが、直接の原因となったのは、由利十二頭の一でもある滝沢氏の存在であった。  滝沢氏は鎌倉時代のはじめに由利地方の地頭であった由利氏の後裔といい、一時、勢力を失ったが、室町時代に至って由利地方に再入部したきたものである。そして、滝沢氏は地歩を固めるために矢島氏に対して謀略の計をめぐらした。このころ、矢島氏は勢力を拡大しつつあったこともあり、滝沢氏は矢島氏に単独であたる力はなく、仁賀保氏の支援を求めたのである。そして、永禄三年(1560)矢島氏と滝沢氏の衝突があった。このとき、仁賀保氏が滝沢氏に加勢したことで、仁賀保氏と矢島氏の対立が始まったのである。
 この戦いのときの矢島氏の当主は義満であったようで、義満は仁賀保氏が滝沢氏に加勢したことで苦戦に陥ったが、勝敗を決するまでにはいたらず、両軍は兵を引き揚げた。しかし、義満はこの戦いにおける戦傷がもとで死去したといわれる。義満の死後は、大井五郎が家督を継いだが年少であったため、しばらく雌伏の時代が続いた。
 戦国時代における由利地方の周辺には、北方に秋田氏、東方に小野寺氏、南方には武藤氏、さらに山形の最上氏といった大勢力が存在していた。それに対して、由利郡内には大勢力は存在せず、いわゆる由利十二頭と呼ばれる小領主が割拠する状態で、近隣の諸勢力の影響を受けざるをえなかった。
 そして、矢島氏は小野寺氏との関係が強く、仁賀保氏は庄内の武藤氏の影響を受けることが多かった。そして、小野寺氏と武藤氏との対立が由利地方に及んでくると、矢島氏と仁賀保氏の対立が激化するのは、自然の成りゆきでもあった。いいかえれば、滝沢氏のことが発端になったとはいえ、由利地方の二大勢力である、矢島・仁賀保の両氏は近隣諸大名の代理戦争を行ったともいえよう。まさに小勢力同士の同族相うつ不幸でもあった。

仁賀保氏との抗争

 矢島氏と仁賀保氏の戦いは、永禄三年(1560)に始まったことは既述したが、以後、連年のように合戦が繰り返された。
 義満のあとを継いだ矢島大井五郎は豪勇の武将で、武勇の誉れ高く滝沢・仁賀保連合軍を相手に奮戦した。天正三年(1575)、滝沢氏の居館を攻撃し、滝沢政家をはじめ多くの武士を討ち取り滝沢氏を没落させた。翌天正四年の戦いでは仁賀保明重を討ち取る勝利をあげ、翌年、その弔合戦を挑んできた仁賀保安重も討ち取った。二代にわたって当主を討たれた仁賀保氏は矢島氏を不倶戴天の敵とし、いよいよ両者の抗争は熾烈を極めるようになった。
 その後も抗争は止むことなく、仁賀保氏と矢島氏の戦いは消耗戦の様相を呈し、両者は謀略をもって相手を倒そうとはかった。矢島氏は仁賀保氏の重臣に調略を施し、仁賀保に進撃したがその途中で急病を発し、中止のやむなきに至った。しかし、矢島氏の調略にのった土門・小川らの仁賀保氏の家臣らは謀略が露見することを畏れ、天正十一年(1583)突然治重を襲い殺害してしまった。こうして、仁賀保氏の当主は三代にわたって矢島氏のために斃されるという結果になった。ここに、仁賀保氏は断絶に直面したが、治重の一女に子吉氏から婿を迎えてかろうじて家を保った。
 由利郡は、庄内の武藤氏の影響をうけることが多く仁賀保氏らも武藤氏に通じていた。そして、天正十年(1582)、武藤義氏は庄内に兵を進め小助川館まで進攻した。ところが、小助川氏を支援する秋田氏の軍と戦って敗戦、この敗因がもとで武藤氏には内紛が起り、天正十二年、武藤義氏が敗死した。そのあとは最上義光の勢力が強大化し、十二頭の多くは最上氏と結ぶ仁賀保氏に協力し、小野寺氏と連合する矢島氏と対立した。その後、満安は仁賀保氏との抗争激化にともなって、本拠を根城館から新荘館に移したという。
 天正十四年、仁賀保氏と矢島氏との間で合戦が行われた。このときも満安は奮戦し、仁賀保当主の重勝をみずから討ち取った。しかし、大将を失ったとはいえ仁賀保軍もよく踏ん張り、結局勝敗が決しないまま双方疲れ手て兵を引き揚げた。ここに、矢島氏は仁賀保氏の四代の当主を討ち取ったのである。

軍旗画像 矢島大井五郎の旗印

 天正十六年、秋田氏に内紛が起った。天正十年九月、秋田愛季が急死したあと、嫡子の実季が家督を継いだ。しかし、若年であったため従兄弟である土崎湊城主の道季を担いだ勢力が謀叛を起こしたのである。この秋田氏の内訌に由利十二頭は実季に加担して出陣し、湊城の攻撃に加わった。
 『永慶軍記』には「先大手の人数組には秋田兵右衛門を大将に四千余人、搦手は豊島勘十郎重氏、同主典重儀、大平左近将監、同源八郎、六郷長五郎正乗ら二千余人が陣を張る。由利の人々は打越孫四郎、赤尾津孫二郎、岩屋匠助、仁賀保兵庫頭勝俊、岩屋小太郎ら二千余人、大舟小舟二百余艘に打ち乗り、土崎の湊に着て」とあり、湊の城に攻撃を加えたが、城中の防備が厳しくどうにもならなかった。このように攻めあぐんでいるところに矢島からも援軍がやってきて大井五郎が活躍することになる。
 「由利の郡矢島の五郎大江満安兄弟加勢にぞ来ける。彼は秋田の旗本なりし大平左近将監広治とは一家なりしが、此の間秋田殿大勢を以て土崎を攻め給いとも落城せず数日を送るよし、内々大平が方より内通あれば、城介殿の味方をせんとて人数を催し矢島を打ち立て、滝沢岩沢を経て岩屋、赤尾津を打ち過ぎ、荒尾浜よりぞ来りける。(中略)矢島五郎は大手の先手を望みたりし事なれば、人並の軍しては生たる甲斐もなしと、内詰を極め、大手口一番に攻詰たり。続く兵には舎弟六郎満衡、饗庭助之進などいう兵とも三百余人、一文字に三つ星の旗押立、柵の際へ付て無二無三に切破る(後略)」とあり、矢島氏の活躍によって湊城は落城したと記している。
 この『永慶軍記』によれば、矢島氏は大平氏の依頼で戦いに参加したことになっている。そして、矢島氏と大平氏とは一家であると記されている。ちなみに大平氏は「姓氏家系大辞典」によれば「大江姓羽後秋田郡大平邑に在りし豪族にて、大江姓と称し、先祖は源頼朝公より忠賞として大平城を賜ふと伝え、大平八幡宮を鎮守とす。家紋三星一文字」とあり、大平氏は大江氏の出であることが分かる。
 永慶軍記には矢島五郎を大江五郎満安と記したり、大江氏の家紋である「一文字に三つ星の旗押立」などと記すなど、大平氏と矢島氏とはまったく同族の扱いである。しかし、矢島五郎が大井五郎と称したことは間違いのないことであり、当時の遺物にみえる矢島大井氏の紋章は小笠原氏の「三階菱」と大井氏の「松皮菱」であることから、矢島氏を大江氏の流れと認めることはできない。
・矢島氏の軍旗:左)鞠挟み紋 / 右)一文字に三つ星


矢島氏の家紋

 先述のように、矢島氏と仁賀保氏は同じ小笠原氏の流れであるが、由利太平記などは両者とも大江氏から出たと記している。たしかに、仁賀保氏の家紋は大江氏と同じく「三星一文字」であり、同じ由利衆の打越氏も同紋である。これらのことから、矢島氏ら由利衆と大江氏とは関係が深かったことがうかがわれ、湊の戦いの行われた戦国時代末期には、矢島氏と大江氏を一家と記すような扱いを受けていたものともみられる。
 では、大井五郎が用いた旗印はどのようなものであったのだろうか。当時の武将は旗印に自らの家紋を据えることが普通であった。そして、五郎の家紋は三階菱もしくは松笠菱であったことは諸記録から知られている。ところが、残された五郎の旗印は「六段挟み」の紋を付けたものである。とすれば、大井五郎の家紋は「六段挟み」であったのだろうか、という疑問が生じてくるところだ。
 大井五郎が旗印に用いた「六段挟み」の紋は、大井氏が発祥したという信濃国の日吉神社の神紋であったという。そのいわれは「日吉神社であるから日月星を表現し、天の恵みを受けるという意をあらわした。そして周囲の六段は六曜星を象った」のだという。戦国武将にとって、旗印は神の依り代でもあり、みずからの家紋を据えたのはそれを顕彰するためでもあった。そして、大井氏が旗印に「六段挟み」を用いたのは、先祖の故地である信濃の日吉神社の神威にあやからんとして、その神紋をみずからの軍旗に据えたものと考えれば納得がいく。
 ところで、秋田氏の内訌に出陣したとき、大井五郎は豊島勘十郎と口論をしたことが伝えられている。勘十郎は仁賀保氏と姻戚関係にあった人物で、この口論の背景には矢島氏と仁賀保氏の対立があったことはいうまでもなく、矢島氏と仁賀保氏はともに行動しながらも相容れない関係であったことを物語っている。
 その後も仁賀保氏と矢島氏の抗争は続き、天正十七年にも戦いがあったが、雌雄を決するまでには至らなかった。そして、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐があり由利衆もそれに参陣している。ところが、小田原開城後に行われた太閣検地、翌十九年の九戸の乱などに矢島氏の名は見い出せない。おそらく病気だったようで、九戸の乱には重臣の小介川氏が代理として出陣している。

矢島大井氏の孤立、そして滅亡

 九戸の乱後、由利郡周辺の情勢にも大きな変化がもたらされ北方の小野寺・秋田氏、南方の最上氏、越後の上杉氏らが由利郡を味方につけるためにさまざまな働きかけを行うようになった。この情勢に矢島氏を除く、仁賀保氏ら由利郡の諸領主は最上氏との親交を深めるようになった。しかし、矢島氏は小野寺氏との関係を保持したことで、由利十二頭から孤立するようになった。一方で、由利十二頭諸氏にしても新しい時代に対応するために結束を強めることは不可欠であり、それを疎外する矢島氏は邪魔な存在になっていたようだ。そしてそのことこそが、矢島氏滅亡の要因となったのである。
 天正十九年十一月、最上義光は大井五郎を山形城に招き、新しい時代に対応するために上洛して秀吉に謁することを説いたという。義光は大井五郎に直接あって、傑出した武将であればみずからの配下において将来役に立てようと考えていた節もある。そういう意味では、この山形城を訪問したときの大井五郎は運命の岐路に立っていたといえよう。
 もし、五郎が政略的な視点をもった人物であったならば、この機会をとらえて一時矢島を失うことになっても、のちに最上氏を後楯として由利郡の旗頭に返り咲くことも可能であった。しかし、義光は五郎を山形城に招きながら、抜け目なく矢島家中に謀略の手を伸ばしていた。すなわち、五郎の弟与兵衛が謀叛を起こしたのである。これには、連年の戦いに矢島氏の家中が耐えられなくなっていたこともあったようだ。五郎は急ぎ居城に帰り謀叛を鎮圧した。このとき、生き残るための好機は五郎から去ったといえよう。
 五郎は叛乱を鎮圧したとはいえ、同士討ちによりその戦力は半減してしまった。さらに、文禄元年(1891)秀吉による「文禄の役」が起り、矢島氏は小介川氏を代理として派遣した。こうして、さらに戦力が減った矢島氏に対して仁賀保氏を旗頭とする由利十二頭は一斉に矢島へと攻め込んだ。この事態に武勇を誇る五郎も、対抗することはできなかった。ついに、妻の実家である西馬音内城主の小野寺茂道のもとに逃れた。
 ところが最上義光は小野寺氏にも謀略の手を伸ばしており、小野寺茂道と宗家の小野寺義道との離間策を講じていたのである。翌二年、義光の謀略が効を奏し、小野寺茂道は義道の疑いを受け軍勢を向けられた。この事態に満安は、みずからの存在が義道の茂道に対する疑惑を招いたとして自害し、矢島氏は滅亡した。

矢島大井氏の最期を検証する

 このように軍記物によれば、矢島氏が由利衆に敗れて、矢島を去ったのは天正十九年(文禄元年)ということになっているが、それをそのままには受け取れない傍証が多い。
 まず、天正十八年に仁賀保兵庫助ら由利衆は秀吉から領地宛行朱印状を賜ったが、仁賀保氏のそれのなかに、かつて矢島氏の所領であったところが含まれているのである。したがって、この段階で矢島氏は矢島における勢力を失っていたものとみられる。さらに、天正十五年(1587)暮、秀吉は関東・奥羽の諸大名に対し戦闘行為の停止を命ずる惣無事令を発している。これに反して葦名氏を攻撃、滅ぼした伊達政宗は秀吉から討伐の対象となった。つづいて秀吉は天正十八年に小田原北条氏を降し、奥州仕置を命じている。このように、豊臣秀吉の天下統一は強力に推進されていたとき、由利衆が矢島氏を攻撃するという私闘が可能であったとは思われないのである。
 矢島氏が由利衆から攻撃を受けた真相としては、天正十六年(1588)ごろ矢島五郎満安が最上義光と会い、上洛して豊臣秀吉に拝謁するという噂が由利衆の間に広まった。由利衆は国人一揆であり、平等を基礎にした契約的関係で結ばれていた。矢島満安の行動は一揆契約に対する重大な裏切り行為と由利衆は受け止めた。そして、由利衆は一致して矢島氏打倒に立ち上がったのである。
 しかし、豊臣秀吉の天下統一が着々と進められているとき、自己の領域を一揆結合によって守ろうとする由利衆のなかにあって、満安はより的確に時代の流れをつかんでいたともいえよう。そして、満安が義光の言をいれて上洛し秀吉に拝謁していたならば、その後の展開は全く変ったものとなっていただろう。おそらく、小さいながらも豊臣大名の一員として残りえたのではないか。しかし、由利地方をとりまく複雑な情勢は、満安の飛躍を許さず悲劇的結末に終わらせたのであった。
 このようなことから、矢島氏が由利衆の攻撃を受けて滅亡したのは、天正十六年(1588)のころであったとみるのが実態に近いものと思われる。

参考資料:由利郡中世史考/大内町史/本荘市史 ほか】   →由利十二頭通史・家紋拾遺へ

■参考略系図
・矢島氏の詳細系図は不詳。ご存知の方、ご教示ください。お待ちしています。

 
  


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