「由利十二頭」とは、戦国期に出羽・庄内の間の日本海側でいわゆる一揆結合の形をとっていた豪族衆の集まりである。由利十二頭は応仁元年(1467)に結成されたといわれ、まさに時代は戦国へ突入しようとする時期にあたっていた。戦国時代の由利地方には傑出した大勢力は存在せず、北に秋田、東に小野寺、南に武藤、そして最上氏といった強豪にはさまれ、小領主は一揆を結んで戦乱を乗り切ろうとしたのである。 由利十二頭、登場前史 ところで、戦国時代に至るまでの由利地方の歴史とはどのようなものであったのだろうか。もともと鎌倉時代以前の由利地方は、由利氏が土着の豪族として支配していたところである。源頼朝の奥州征伐で由利八郎が捕虜となるものの、知行を認められて御家人となった。しかし由利氏は、和田合戦における不手際で執権北条氏によって所領を没収され勢力が衰えた。その後に小笠原氏の一族が由利地方を与えられて入部した。たしかに小笠原氏(大井氏)が由利地方に地頭職をもっていたことは記録にも残されているが、霜月騒動に関係したため北条氏領となり、さらに、鎌倉幕府崩壊とともに北条氏は滅亡し、南北朝内乱期になると由利地方の領主はめまぐるしく変った。 和田合戦後に由利氏は北条氏に所領を没収されたとはいえ、まったく勢力を失ったというものでもなかったようだ。『奥羽永慶軍記』には、正中元年(1334)由利の領主中八維実が、仁賀保の鳥海弥三郎に攻められて自害し、その後は鳥海弥三郎が由利郡全体を支配したと記されている。しかし、鳥海氏は弥三郎の死後の観応元年(1350)、重臣の進藤長門守・渡辺隼人の謀叛によって滅亡し、以後の由利は進藤・渡辺両氏が支配した。ところが、今度は両氏が対立するようになり、康安元年(1361)から貞治二年(1363)にわたる抗争のなかで、両氏ともに滅んでしまったのだという。 以後、百年間にわたり由利地方には地頭がなく、掠奪暴行が頻発したため住民の代表が鎌倉に陳情した。その結果、十二頭が信州から下って来た。そして、信州から下ったという十二頭が次第に衰えて、新しく編成変えされたのが応仁元年(1467)のことであったというのである。その時の十二頭は、仁賀保、矢島、赤宇津、子吉、打越、石沢、岩谷、潟保、鮎川、下村、玉米、滝沢の諸氏であった。しかし、これは民間伝承であって、そのまま史実として受取ることは出来ない。 しかし、これらのことをまったくの虚構と断じることもできないようだ。すなわち、正中元年は鎌倉時代の末期にあたり、後醍醐天皇による討幕計画が発覚した年でもある。このころになると北条氏の政治も弛緩し、東北では「津軽大乱」とよばれる大規模な反乱が起っていた。やがて幕府は滅亡し、建武新政から南北朝争乱へと時代は激変を続ける。その混乱のなかで、さまざまな出自を持つ武士たちが、由利地方に割拠しそれぞれ勢力を競いあったとしても違和感はない。 『軍記』の記述は、このような由利地方における争乱のなかで興亡した武士たちの様子を伝えたものとも考えられる。そして、このような内乱のなかから、のちの由利衆として登場してくる武士たちが現れて来たのであろう。 『由利十二頭記』と『打越旧記』 由利の歴史と由利十二頭の事蹟を知るには『由利十二頭記』に頼らざるを得ない。由利十二頭記は江戸時代になって編纂された戦記物語で、『矢島十二頭記』とも呼ばれている。由利地方の歴史を叙述したものであるから「由利十二頭記」がふさわしいと思われるが、「矢島十二頭記」と呼ばれるのは、その内容が矢島五郎を中心とした物語であり、おそらく矢島氏関係の人物の手によって書かれたためと想像される。 由利十二頭記には、十二頭が応仁元年に信州から打ち揃って由利郡にやってきたとあるが、信州のどこから来たということにはふれていない。由利郡の所領は約五万四千石あり、その地域に信州から十二人もの領主が初めて移住したということは、当然なんらかの記録に残されているものと思われるが、そのようなものはない。結論的には、応仁元年に十二頭の先祖たちが信州から下ってきたとは到底考えられないのである。他方、『打越旧記』には応永ころ(1394〜1427)に十二頭がいたと伝えており、同記は南北朝時代直後の由利郡の様子と、のちの十二頭との関連との変化がみられる。応永と応仁との時代の隔たりは約六十年である。 応永から応仁にかけての時代は、南北朝対立が終わり、その後の新たな激動の時代にあたっており、諸国で領主の興亡が甚だしかった。当然、由利地方も平穏ではなく武家の興亡があったことは疑いない。その興亡のあとは応永年間に領主として存在しながら応仁のころに名を消している楠木・鳥海・新田氏らがおり、応永期には見えず応仁期に新たに名前が認められるものに、由利氏系の滝沢氏、小笠原氏系の仁賀保氏らがいる。この変化の特長は、南朝方に属していた家が衰退していることである。楠木氏と小笠原氏とが合流して打越氏になったという伝承も、このような変化を物語っているのかも知れない。 さて、由利十二頭のことが確かな記録にみえるのは宝徳二年(1450)のことである。すなわち、小助川立貞が年貢を横領したために、赤宇曽領主である三宝院の訴えにより幕府が未進年貢等催促の遵行を決定したのである。しかし小助川氏は長年に渡り三宝院に年貢を進上していない、ということを述べ、年貢進上に難色を示していた。この事件の結末がどうなったかは不明であるが、由利地方に国人領主が現れたことを物語っている。宝徳二年といえば、由利十二頭が入部したという応仁元年(1467)の二十年近くも前であり、由利十二頭が一度に入部してきたという伝承は否定されることになる。 さらに、由利十二頭のこと ところで「由利十二頭記」にみえる十二頭は「打越孫四郎宮内少輔、滝沢刑部、小笠原大膳大夫義久(矢島)、子吉兵部少輔、赤宇津孫次郎道益、小笠原信濃守助兵衛、小笠原大和守仁賀保重挙、石沢作左衛門、岩谷忠兵衛内記、下村彦六蔵人、潟保外記、鮎川筑前守」の十二人である。しかし、佐藤本「由利十二頭記」では、出羽由利郡に十二人の大将有是を十二頭と云其人々には、仁賀保保兵庫頭殿、子吉修理助殿、潟保弥太郎殿、滝沢兵庫頭殿、矢嶋大江五郎殿、到米殿、下村小笠原殿、石沢孫四郎殿、打越左近殿、赤尾津孫八殿、羽根川孫市殿、岩谷右兵衛殿、鮎川小平太殿と記されている。 他方、奥羽永慶軍記には「其の人々には小笠原大和守重誉、仁賀保に居城す、大江大膳大夫義久、矢島に住す、其外赤尾津・子吉・芹田・打越・石沢・岩屋・潟保・鮎川・下村・玉前等也」とある。ほかに、仁賀保家文書の「由利十二頭記」、「湊・檜山両家合戦覚書」のなかに見える由利十二頭の記述などがあるが、ぞれぞれ人名は一致しない。さらに、佐藤本由利十二頭記などは十二頭といいながら十三人の名が記されている。 「由利郡中世史考」には「古来由利郡の領主らしいものは、十二頭にとどまらないように見えるが、常に十二陣代とか、十二頭を以て呼ばれているのは、十二の数には何か信仰上の伝統があったのではないか」といって「十二神将」と「由利十二頭」との関係をあげている。ここでいう十二神将とは、天徳三年(1331)出羽国由利郡津雲出郷の源正光・滋野行家が、天下泰平ならびに一族の除災を祈願して鋳造し、鳥海山に納めたという十二神将のことである。そもそも十二神将は薬師如来の前立で、薬師如来の十二誓願を達成する十二の善神が十二神将である。 鳥海の神である大物忌神は本地垂迹説によれば薬師如来であるというので、鳥海山修験道では、鳥海山を薬師如来と見立てる信仰が生まれた。そのことから、鳥海山を日夜仰いで生活する由利地方においては、薬師如来と十二神将との結びつきは不即不離のものとなった。ここにこそ、由利地方の諸領主をして「由利十二頭」と呼ばれるようになった理由があったのであろう。 由利郡の戦国時代 由利郡の所領は先にも記したが合わせて五万石前後であった。他方、由利地方の周辺の領主たちは、北部にいた秋田氏が十万石、東方の小野寺氏も十万石に近い勢力を有し、南方庄内の武藤氏も十万石から二十万石の勢力を保っていた。さらに、北方進出を企てる最上氏も武藤氏をしのぐ勢力に拡大しつつあった。これらの大領主に囲まれた由利郡の赤尾津・仁賀保・滝沢・岩屋・打越・潟保・玉米・下村・矢島・子吉らの由利衆は、近隣の諸大名から圧迫を受けるようになった。 こうなると、由利十二頭が従来保っていった一揆的な協調関係も、破綻せざるをえなかった。由利衆を取りまく諸勢力がそれぞれの勢力拡大のために衝突することは時代の趨勢であり、由利郡はそのまっただ中に位置していた。戦国の荒波は由利地方を直撃し、十二頭も分裂と闘争を繰り返すようになったことは、まことに不幸なことであった。そして、情勢により武藤氏や安東氏、あるいは小野寺・最上氏などと離合しながら領地を維持することに努めた。とくに、近隣諸大名の代理戦争の側面を有した、由利十二頭の二大勢力である仁賀保氏と矢島氏の抗争は激烈で、三十年間にわたって合戦を繰り返した。 矢島氏と仁賀保氏の抗争は、滝沢氏と矢島氏の対立がもたらしたものであった。滝沢氏は由利氏の後裔といい、永禄のころ、秋田を浪人して由利地方にやってきた。その背景には秋田氏がいたようで、滝沢氏は秋田氏の力を利用して矢島氏に対抗しようとしたと考えられる。しかし、矢島氏の勢力に対して滝沢氏の力は及ぶものではなく、滝沢氏は仁賀保氏を味方に引き入れて矢島氏に対抗しようとした。矢島氏と仁賀保氏は同族であったが、仁賀保氏が滝沢氏に加担したことで不倶戴天の関係となり、泥沼の抗争を繰り返すようになったのである。 天正十年(1582)三月、庄内の武藤義氏が由利に侵攻してきた。そして、由利を席巻した義氏は由利新沢において秋田氏と激突した、「新沢合戦」とよばれるものである。このようななか、横手城主の小野寺義道は由利衆から人質をとり、それらを皆自害に追い込んだ。この小野寺氏の仕打ちに怒った由利衆は一揆に立ち上がり、大沢山に布陣して小野寺方を迎え撃った。激戦であったようだが、由利衆は小野寺勢を撃退し、小野寺氏にとってこのときの敗戦は衰退の一因ともなった。 時代に翻弄される 天正十年の暮れになると武藤義氏の由利攻略が再燃し、秋田方の砦を襲い、翌年には新沢城を攻撃し、上由利と中由利の攻略を終えた。義氏にとって由利攻略において残された地域は下由利の地だけとなった。ところが、意外なところから義氏は破局を迎えた。義氏の度重なる強引な外征に対して、義氏の近臣前森蔵人が謀叛を起こし敗れた義氏はあっけなく自刃してしまったのである。 その後、武藤氏は義興がついだが家臣の反乱が続き、それに最上氏の攻勢が加わって、ついに天正十五年、最上氏の庄内侵攻に敗れ自害して果てた。武藤氏は上杉氏の武将本庄繁長の子義勝が継承し、最上氏に対して庄内奪還の兵を進め、庄内は混乱を続けた。最上義光はこの事態に対処するため、由利衆を味方につけるためにあらゆる手段を講じている。また、武藤氏の衰退によって由利衆内部に主導権争いが生じたようで、秋田氏も由利地方に対する影響力を強めようとはかった。 最上義光は庄内の混乱に対応するために由利衆の協力が不可欠であることをよく理解していただけに、由利衆に対して頻繁に使者を送っている。そのような天正十五年九月、秋田氏の当主愛季が死去し若い実季が家督を継いだ。これに対して叔父の道季が謀叛を起こしたことで内訌が勃発した。この秋田氏の内情は秋田氏と対立する小野寺・戸沢氏にとって秋田氏の勢力を取り除く絶好の機会となり、積極的に内訌に介入した。そして、「湊・檜山合戦」が起り、劣勢の実季は由利衆に支援を求めた。赤尾津氏ら由利衆はこれに応えて実季に味方して大いに活躍したという。 翌十六年、本庄繁長は庄内奪還をはかって兵を挙げ、最上勢と十五里ケ原で戦い壊滅的打撃を与えて庄内を取り戻した。ここに、最上氏の庄内支配は瓦解した。天正十七年、庄内領主である武藤義勝は上洛に伴って由利衆の総出陣を命じた。このことは、由利衆の忠誠を確かめるものであり、由利衆は庄内の新しい支配者となった武藤義勝の下に従うことになったのである。 やがて天正十八年(1590)、豊臣秀吉の天下統一によって由利十二頭は「由利衆」として把握され、根井氏や下村氏などは二百石にも満たない石高で知行安堵の対象となっている。そして、仁賀保氏と由利氏の抗争は矢島氏が滅亡することで終熄し、由利地方にも一時的な安定期が訪れた。このころから、仁賀保・赤尾津・滝沢・打超・岩屋をとくに「由利五人衆」と呼ばれるようになり、五人衆はたとえば文禄二年(1592)の朝鮮出兵には、大谷吉継の一手として与力的に配属されて軍役を担っている。 由利衆の終焉 関ヶ原合戦には、由利衆は最上氏の指揮下に属して西軍の上杉氏と対峙したが、直江山城守が西軍の参謀として百万の兵を率いるとの風聞がもたらされ、事実、最上軍は直江率いる上杉軍に手痛い敗戦を喫した。この事態に大半の由利衆は逃亡し、残ったのは赤尾津・岩谷・滝沢・仁賀保の四家のみだった。関ヶ原の合戦は東軍の勝利に終わり、逃げ去った者は武士にあるまじき行為としてことごとく領地没収の処分を受け、残った者は仁賀保・打越氏のように幕臣になる家、滝沢・赤尾津氏のように最上氏家臣となる家などに分かれた。 こうして中世以来、由利地方に割拠して戦国時代を一揆という形で乗り越えた由利衆の諸家も近世へと歩み出した。その後、由利衆の最大勢力で最上氏に仕えた赤尾津氏は改易されて没落、一万石の大身で最上氏に仕えた滝沢氏も元和元年(1615)最上氏が改易されたことによって所領を失い没落した。 加えて、幕臣となった仁賀保氏と打越氏も江戸時代初期に嫡流は断絶し、庶流が家名を伝えるばかりとなった。家を保つということは、まことに過酷な運命との戦いであるといえようか。
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