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狛 氏
●三つ星一文字
●嵯峨源氏渡辺氏流  
前柏原織田氏の菩提寺−成徳寺墓地の狛氏墓所に彫られた家紋。  


 狛氏は中世山城の国人領主のひとりとして知られ、「山城国一揆」の成員のひとりとしても有名である。その出自は『狛氏系図』によれば嵯峨天皇に発する渡辺氏の後裔というが、系図は江戸時代に作成されたものであり、その記述をそのままに受けとめることはできない。また、狛氏の場合、狛宿禰、高麗氏の裔とする説もあり、その出自を特定することは困難というしかない。
 狛氏の名を有名にしたのは「山城国一揆」であった。そもそも山城国南部は京に近いことから、元弘の変、笠置寺攻防戦に始まる南北朝の内乱に際して南山城を戦場とした。その戦乱のなかから、狛氏、木津氏、田辺氏などの国人と呼ばれる地侍が登場し、勢力を伸ばしていったのである。
 南山城には公領の他、藤原摂関家や社寺などの荘園が多くあり、繰り返される戦乱のなかで領主の支配は不安定なものになり、農民が力をつけてきた。農民たちは協同で灌漑水利の整備や農作業を行うようになり、一年の農作業や行事を農事暦によって協同で計画的に行うにようになったのである。いわば、自衛の意味もあって農民は一揆を形成していたのであった。そして、そのリーダー的な役割を果たした有力農民が武士としての性格をあわせ持ち、「国人」とよばれた。もっとも、江戸時代の武士と違って中世の武士は農民でもあった。
 このように中世以降に成立した、農事や神事などに村民が協力しあって行う共同体は「惣村」と呼ばれる。

狛氏の出自

 狛氏が史料上に登場するのは、嘉吉の乱(1441)の翌年のことで、大和の豪族筒井氏の内訌に際して狛下司がと木津氏が般若坂の合戦で討死したというものである。この狛下司は狛氏として実在が確かで、もっとも有名な人物である狛山城守の父、または祖父と考えられている。戦国時代の助走期にあたる、十五世紀の争乱の時代に狛氏は記録の上にもあらわれてきたのである。
   さて、狛下司はどのような歴史をたどって山城の有力国人に成長したのであろうか。狛氏の歴史に関しては、江戸時代に成立したとされる系図以外にはまったく史料がないというのが実状である。
 系図によれば、狛氏の先祖は嵯峨天皇の後裔、摂津渡辺党箕田氏の末流となっている。そして、狛氏の直接の祖という福原三郎成綱は渡辺競の二男で、鎌倉幕府の三代将軍実朝に仕えて鎌倉に勤番し、高麗の県主であったという。しかし、それらのことは系図に記されているばかりで、それを裏づける史料があるわけではない。
 狛氏でもっとも著名な人物である山城守も系図にみえるが、その没年は、『雑事記』など、当時の記録に記された没年とは食い違っている。一方、江戸時代に成立したという『狛氏由緒書』によれば、織田信長時代の狛左京亮秀綱以前に関して「狛山城守 此節小城これ有り」と記されるばかりで、狛氏自体、江戸時代の中期には中世の記録や伝承を失っていた可能性が高い。
 いずれにしろ狛氏は狛野荘を本拠として、同じ山城国人である椿井氏と対立しながら、筒井氏に属して中世を生き抜いたのである。

南山城一揆の誕生

 南北朝時代が合一され室町時代になっても戦乱が止むことはなく、応仁元年(1467)には「応仁の乱」が勃発した。乱に際して南山城の国人たちは、京都へのぼりそれぞれ東軍と西軍について都での戦いに参加した。南山城の国人の多くは細川勝元の東軍側に属していたが、中国地方の太守大内政弘が西軍に味方して上洛すると、大軍を率いて山城に攻め入った。山城国十六人衆と呼ばれた国人たちは降伏し、大内軍の支配下に入った。そのため、南山城は東軍の攻撃目標となり、何度も大きな合戦が繰り返された。
 文明九年(1477)、応仁の乱は一応の終結をみせたが、京都は焼け野原となっていた。南山城の地も焼け野原が点在し、荒廃をききわめた。応仁のが終わったとはいえ、戦いは慢性的に続き、南山城では東西両軍の対立が続いた。文明十四年、畠山義就が南山城に侵攻し、翌年には畠山政長が義就に反撃して両軍の小競合いが繰り返された。
 そのようななかで、南山城の国人衆や農民・一般住民らは宇治平等院に集まって、両軍の撤退要求やその後の南山城のあり方について話し合った。南山城の住民たちは自主的な地域管理を決議し、両軍との交渉が行われ、ついに両軍とも南山城からの撤退したのである。これが「山城国一揆」であり、以後、南山城は惣国とよばれ、国人達が中心となって「月行事」という機関を設置して自主的な地域管理・運営にあたるようになった。
 しかし、何年かたつうちにまざまな矛盾が表面化し、明応元年(1492)には、大和の古市氏とつながりのある国人が新しく関所を設けようとし、狛野荘・木津荘の住民が荘園の領主に助けを求めるという事件も起った。さらに、国人対農民、国人どうしの対立が表面化し、他国勢力の介入の隙をあたえるに至ったのである。

戦乱に翻弄される狛氏

 明応二年(1493)細川政元と畠山基家が結んでクーデターを起こし、幕府は大きく動揺した。山城惣国もこの政変の影響を受けて、畠山政長・細川政元派の国人と畠山義就派の国人との間に対立がが生じ、結局、ここに自治政治は瓦解し、山城国一揆は自ら解体したのであった。
 激動に揺れる南山城にあって狛氏は稲屋妻城を拠点として、文明十五年(1483)には山城守守秀の子息が討死し、椿井氏の攻勢によって一時没落を余儀なくされている。その後も南山城には戦乱が絶えることなく、狛氏ら南山城の国領主はいたずらに時代に翻弄されるばかりで、たとえば尾張の織田氏、中国地方の毛利氏といった統一勢力は出現しなかった。

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狛氏、ゆかりの地を訪ねる


狛氏が興った上狛は狛野荘と呼ばれる興福寺の荘園で、北方に椿井氏が、南方に狛氏が割拠していた。上狛には、狛一族が守護神として崇めた狛弁財天、山城一揆のとき国人らが結盟を行ったという松尾神社など散在している。狛氏が館を築いた上狛は、周囲を壕に囲まれた環濠集落で、集落内を歩くと迷路のように道がはしり、昔ながらの古い佇まいの人家が佇んでいる。その一画にある西福寺は狛氏一族ゆかりの寺で、境内の一画に狛氏一族の墓碑が祀られ、狛秀綱の位牌・画像も伝えられている。

→山城一揆ゆかりの地へ


 やがて、織田信長が上洛して近畿内を制圧すると狛氏も織田氏に誼を通じ、織田氏麾下に属した。しかし、天正十年(1582)織田信長が本能寺で横死すると、後楯を失ったかたちになった狛氏は次第に武士としての勢力を失っていった。豊臣秀吉が天下統一をはたすと、南山城も豊臣体制に組み込まれ、狛氏は南山城の有力者として土着の道を選んだようだ。
 江戸時代になって、織田信長との関係から織田氏に仕えるようになり、子孫は織田氏の柏原転封に従い、柏原に住したという。・2004年07月12日

参考資料:南山城町史/精華町史 ほか】


■参考略系図
・『南山城町史』所収系図から作成。


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