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乱世を生きる
小川氏が勢力を張った東吉野は吉野郡に属しているが、宇陀郡から伊勢に通じる街道上に位置していたことから中世の記録ではしばしば宇陀郡と記されている。応永十二年(1405)ごろ、宇陀郡では郡内の国人・郷民らが一揆を結んでいたが、そのなかに雨師・大熊四郷も加わっていたことが知られる。また、宇陀郡は伊勢国司北畠氏の影響力がおよび、室町時代中ごろ、沢・秋山・芳野の宇陀三人衆とともに小川氏も大乗院の国民でありながら北畠氏の被官となっていた。 弘光死後八年が経った延徳二年(1490)、『大乗院寺社雑事記』に「小川丹生神主弘茂」とあり、弘茂が小川氏の家督にあったことが分かる。他にも弘房、弘覚、一族の鷲賀殿などが記録にあらわれる。弘房は弘光の嫡男とも思われる人物で、多武峰との戦いで討死している。弘覚は長谷北室に住して、小川氏が興福寺に年貢を納める窓口となっていた。 弘光の生きた十五世紀、大和では衆徒・国民を二分する大和永享の乱が起こり、筒井・十市・越智・箸尾氏らが興亡を繰り返した。京では将軍が暗殺されるという嘉吉の乱が起こり、弘光も関わった後南朝の京乱入事件もあった。そして、幕府重臣の斯波氏、畠山氏の家督争い、将軍家の継嗣問題などが絡んで応仁の乱が起こった。世の中は、確実に戦国時代へと移り変わっていた。そのような乱世において小川氏は宇陀郡にも勢力を保ち、永正四年(1507)、沢氏や檜牧氏とともに初瀬で兵を挙げ、柳本氏や森屋筒井氏らと戦っている。そして、享禄五年(1532)には秋山国堅らの呼びかけに応じて宇陀郡内一揆の盟約に参加している。 一揆は宇太水分神社の神前で神誓が行われ、領主間の利害調整、農民支配の協同を図り、宇陀郡内における秩序を守ろうとした。宇陀郡の国人たちは北畠氏の支配を受けながら、それぞれ自立した領主として家中を構成し、領地を支配する体制づくりを目指したのである。小川氏にとっては大乗院からの独立であり、小川氏の姿は興福寺の記録に登場しなくなり、その動向も知られなくなるのである。 永禄八年(1565)、吉田兼右から祈雨祝詞を相伝した小川弘久は『神道相伝抄』によれば丹生社神主弘栄とあり、小川氏は弘茂のあと弘栄、弘久と続いたようだ。また、小川氏は天正期まで菩提寺である天照寺において春秋の二回懺法(センポウ)講を行っていた。懺法講とは小川氏が郷民を代表して観音像を拝請し、日々の罪穢を懺悔、郷内の安泰を祈願するもので、法要には多額の費用がかかった。戦国時代、小川氏は確かな記録にあらわれないものの、丹生社神主として東吉野の領主として一定の勢力を保っていたことは間違いないようだ。 中世の終焉 戦国時代後期になると、筒井氏が大和の最大勢力に成長した。しかし、松永久秀が大和を支配するようになると筒井氏勢力は後退、松永氏の威勢は宇陀郡にも及ぶようになった。その一方で天正四年(1576)に宇陀郡を支配下においた伊勢北畠氏が織田信長によって滅ぼされ、松永久秀も織田信長に謀反を起こして滅亡した。その結果、筒井氏が大和一国の大名となったが、本能寺の変で織田信長が滅びると、豊臣秀吉が天下人となり筒井氏は伊賀に国替えとなって大和は秀吉の弟豊臣秀長の領するところとなった。 まことに目まぐるしい世の中の有為転変のなかで、大和の旧勢力は一掃され、宇陀郡の沢氏、秋山氏、芳野氏ら三人衆も勢力を失っていった。小川氏も最期の当主と思われる次郎が、天正十五年(1587)、木津川の孫三郎・大太郎に置文をして東吉野から去っていった。一説には、天正六年、筒井氏の吉野制圧のとき没落したともいわれる。 その後、天正十八年八月、南都で多武峰の法師を殺害した「宇多の小川」が召し捕らえられた。小川氏と多武峰との対立の歴史を思ったとき、「宇多の小川」とは小川次郎であったかも知れない。いずれにしろ、中世領主として東吉野を支配した小川氏は没落の運命となったのである。小川氏の子孫は多くが伊勢国へ移り住み、いまも三重県員弁郡大安町南金井には小川姓を名乗る家が多いという。 ●お薦めページ:気分は国人 【参考資料:奈良県史・東吉野村史・東吉野と小川殿 ほか】 ■参考略系図 ・東吉野と小川殿で推定された系図と東吉野村史の記述から作成 |
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