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小川氏
五三の桐
(藤原姓?)
・小川氏の家紋は不詳。丹生川上
 神社中社の神紋を仮に掲載。  


 中世の大和は守護が置かれず、正式な命令はないが興福寺の別当が事実上の守護職として守護権を行使した。興福寺の別当は一乗院と大乗院が交互に任じ、それぞれ藤原摂関家の子弟が入室した。そして両門跡を中心として大和の支配体制が整備され、大和の有力名主たちは衆徒あるいは国民として興福寺の配下に組み込まれていた。衆徒とは興福寺の寺僧でいわゆる僧兵、国民は春日大社の神人で俗体の武士であった。興福寺の支配は奈良から遠く離れた東吉野郡にもおよび、吉野郡を代表する領主で丹生川上神社神主の小川氏も大乗院門跡の国民としてその支配下にあった。
 両門跡は平安末期より対立関係にあり、南北朝時代になると一乗院は南朝方、大乗院は北朝方に分かれて対立を続けた。必然的に両門跡に属する衆徒と国民も南北に分かれて対立、大和各地で抗争が繰り返された。その結果として、両門跡の権威は次第に衰え、衆徒・国民たちの自立への動きが活発化していったのである。
………
写真:奈良市内-大乗院跡の碑

小川氏の登場

 小川氏が拠った東吉野の中世史は不明な点が多いが、丹生川上神社は「雨の神」として古来より朝廷の崇敬も篤く、中世には二十二社の一に列して奉幣を受けた。小川氏は丹生川上神社の神職として、大乗院領竜門庄大熊四郷など吉野・宇陀郡の荘官として勢力を拡大していったようだ。
 記録にあらわれる最初の小川氏は、万里小路時房の日記『建内記』の永享三年(1431)の条に記された小川弘氏である、弘氏は竜門庄大熊四郷を多武峰が武力で押領し、さらに小川氏の本拠を攻めてきたためこれを迎え撃った。弘氏は多武峰の行為を将軍足利義教の発した私闘禁止令を破るものとして、大乗院門跡経覚を通して万里小路時房から将軍義教に兵を引く命令を出してもらうように依頼したのであった。
 弘氏以前の小川氏のことは獏として知れないが、福寿院址に残る正平十三年(1358)銘の五輪塔には藤原弘重の名があり、小川氏の一族であろうとされている。また、小川氏の菩提寺であった天照寺に残る『天照寺取調帳(明治十三年)』には、弘安年間(1278〜88)小川城の城主小川次郎が開基した由緒が記されている。そして、同寺には中世の十三重塔・五輪塔が伝来し、小川次郎の墓という伝承も残されている。小川氏が吉野郡の一角に拠って、鎌倉時代の中ごろより一定の勢力を保っていたことは疑いない。
 小川氏は小(オムラ)の古城と小川・小栗栖にまたがるハルトヤの城に拠って一帯を支配していた。ハルトヤ城はいまも遺構が山上から山腹にかけて残り、山腹には川上村を経て熊野に通じる東熊野街道が通り、宇陀郡から伊勢に通じる伊勢南街道もあり、山上からは吉野山が遠望できる要衝の地を占めていた。小川氏に領した東吉野は、南北朝の勢力が接するところであり、小川氏は要害の地に拠ってよく乱世を生きたのであった。

小川弘光の活躍

 小川氏が歴史に名を刻んだのは、長禄二年(1441)、小川弘光が神璽奪還事件に活躍した一件においてであった。神璽奪還事件とは、播磨守護赤松満祐が将軍足利義教を殺害した嘉吉の乱の混乱に乗じた後南朝勢力が京の内裏に乱入して三種の神器のうち宝剣と神璽を奪い去った。宝剣は取り戻されたが、神璽は吉野に持ち去られてしまった。
 この一件を好機としたのが嘉吉の乱で没落した赤松氏の残党で、幕府に神璽奪還を条件として御家再興を願い出たのである。幕府の承認を得た赤松残党は吉野に潜入、長禄元年十二月、後南朝の王子を殺害して神璽を奪い取った。しかし、深い雪に阻まれて神璽の奪還は失敗した。その神璽を奪還したのが小川弘光で、弘光は神璽をタネに種々の恩賞を望み、なかなか神璽を京都に帰そうとはしなかった。なかなか利に聡いというか強欲というか、弘光はあくまでもみずからの要求を貫こうとした。その間のさまざまなやり取りが当時の記録に残り、小川氏の名は正史に刻まれたのである。
 結局、長禄二年の八月に至って神璽は京に戻ることになった。小川弘光は具足に身を固めた大和武士二百余騎とともに神璽を守って京に出立、京に入ると弘光一人だけが内裏近くまで神璽を守って行くことが許された。弘光にとっては、人生最高の晴れ姿であった。当時、弘光の官職は左衛門大尉であったが、神璽を奉還したのちは従五位下兵部少輔、さらに中務少輔と吉野の田舎武士には過ぎる昇進を続けた。 
 また、弘光は官途の昇進以外に竜門庄代官職を望んだ。これに対して多武峰は異をとなえ、すったもんだの末に弘光の代官職就任は失敗に終わった。その一方で宝徳二年(1450)、萩原庄の代官職を望み、ついには押領するに至った。これに対して興福寺は秋山氏を代官としたため、秋山氏との間で合戦が起こった。多武峰が秋山氏を応援したため小川氏の敗戦となり、萩原庄の代官職もまた手に入れることはできなかった。
 小川氏の拠る吉野から宇陀地方は伊勢北畠氏、宇陀三人衆、さらに興福寺勢力の接点にあたり、雨師庄を本拠とする小川氏はみずからの勢力を保つためにも、近隣の萩原庄、竜門庄などの豊かな地はモノにしたいところであった。その後、文明年間に至って弘光は竜門庄大熊四郷の代官職を得たようだ。やがて弘光は年貢を抑留するようになり、雨師庄の年貢も未納するなどして興福寺から籠名という呪詛を受けている。このような弘光の行動は興福寺にすれば許しがたい行為であったが、弘光にすれば在地領主として興福寺からの自立を企図するものであった。
 文明七年、弘光は菩提寺である天照寺の薬師堂の薬師如来立像を修理するなど領内の治世にも意を用い、文明十五年にその生涯を終えたことが知られる。神璽の一件における弘光の駆け引きや在地領主としての行動を見ると、その是非はともかくとして、戦国乱世に相応しいひとかどの人物であったようだ。
 
小川氏の故地を訪ねる



丹生川上神社 ・ 小川ハルトヤ城址を遠望 ・ 城址の碑 ・ 天照寺の薬師堂 ・ 天照寺に残る小川氏の古墓

→ 小川城址に登る


乱世を生きる

 小川氏が勢力を張った東吉野は吉野郡に属しているが、宇陀郡から伊勢に通じる街道上に位置していたことから中世の記録ではしばしば宇陀郡と記されている。応永十二年(1405)ごろ、宇陀郡では郡内の国人・郷民らが一揆を結んでいたが、そのなかに雨師・大熊四郷も加わっていたことが知られる。また、宇陀郡は伊勢国司北畠氏の影響力がおよび、室町時代中ごろ、沢・秋山・芳野の宇陀三人衆とともに小川氏も大乗院の国民でありながら北畠氏の被官となっていた。
 弘光死後八年が経った延徳二年(1490)、『大乗院寺社雑事記』に「小川丹生神主弘茂」とあり、弘茂が小川氏の家督にあったことが分かる。他にも弘房、弘覚、一族の鷲賀殿などが記録にあらわれる。弘房は弘光の嫡男とも思われる人物で、多武峰との戦いで討死している。弘覚は長谷北室に住して、小川氏が興福寺に年貢を納める窓口となっていた。
 弘光の生きた十五世紀、大和では衆徒・国民を二分する大和永享の乱が起こり、筒井・十市・越智・箸尾氏らが興亡を繰り返した。京では将軍が暗殺されるという嘉吉の乱が起こり、弘光も関わった後南朝の京乱入事件もあった。そして、幕府重臣の斯波氏、畠山氏の家督争い、将軍家の継嗣問題などが絡んで応仁の乱が起こった。世の中は、確実に戦国時代へと移り変わっていた。そのような乱世において小川氏は宇陀郡にも勢力を保ち、永正四年(1507)、沢氏や檜牧氏とともに初瀬で兵を挙げ、柳本氏や森屋筒井氏らと戦っている。そして、享禄五年(1532)には秋山国堅らの呼びかけに応じて宇陀郡内一揆の盟約に参加している。
 一揆は宇太水分神社の神前で神誓が行われ、領主間の利害調整、農民支配の協同を図り、宇陀郡内における秩序を守ろうとした。宇陀郡の国人たちは北畠氏の支配を受けながら、それぞれ自立した領主として家中を構成し、領地を支配する体制づくりを目指したのである。小川氏にとっては大乗院からの独立であり、小川氏の姿は興福寺の記録に登場しなくなり、その動向も知られなくなるのである。
 永禄八年(1565)、吉田兼右から祈雨祝詞を相伝した小川弘久は『神道相伝抄』によれば丹生社神主弘栄とあり、小川氏は弘茂のあと弘栄、弘久と続いたようだ。また、小川氏は天正期まで菩提寺である天照寺において春秋の二回懺法(センポウ)講を行っていた。懺法講とは小川氏が郷民を代表して観音像を拝請し、日々の罪穢を懺悔、郷内の安泰を祈願するもので、法要には多額の費用がかかった。戦国時代、小川氏は確かな記録にあらわれないものの、丹生社神主として東吉野の領主として一定の勢力を保っていたことは間違いないようだ。

中世の終焉

 戦国時代後期になると、筒井氏が大和の最大勢力に成長した。しかし、松永久秀が大和を支配するようになると筒井氏勢力は後退、松永氏の威勢は宇陀郡にも及ぶようになった。その一方で天正四年(1576)に宇陀郡を支配下においた伊勢北畠氏が織田信長によって滅ぼされ、松永久秀も織田信長に謀反を起こして滅亡した。その結果、筒井氏が大和一国の大名となったが、本能寺の変で織田信長が滅びると、豊臣秀吉が天下人となり筒井氏は伊賀に国替えとなって大和は秀吉の弟豊臣秀長の領するところとなった。
 まことに目まぐるしい世の中の有為転変のなかで、大和の旧勢力は一掃され、宇陀郡の沢氏、秋山氏、芳野氏ら三人衆も勢力を失っていった。小川氏も最期の当主と思われる次郎が、天正十五年(1587)、木津川の孫三郎・大太郎に置文をして東吉野から去っていった。一説には、天正六年、筒井氏の吉野制圧のとき没落したともいわれる。
 その後、天正十八年八月、南都で多武峰の法師を殺害した「宇多の小川」が召し捕らえられた。小川氏と多武峰との対立の歴史を思ったとき、「宇多の小川」とは小川次郎であったかも知れない。いずれにしろ、中世領主として東吉野を支配した小川氏は没落の運命となったのである。小川氏の子孫は多くが伊勢国へ移り住み、いまも三重県員弁郡大安町南金井には小川姓を名乗る家が多いという。

●お薦めページ:気分は国人
参考資料:奈良県史・東吉野村史・東吉野と小川殿 ほか】



■参考略系図 ・東吉野と小川殿で推定された系図と東吉野村史の記述から作成  
  


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