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楢原氏
丸に花菱
(中原姓/古代豪族滋野氏裔?)


 楢原氏は南葛城郡楢原郷(現御所市楢原)から興った大和武士の一で、中世大和を支配下においた興福寺別当の 大乗院方に属する国民であった。大和国最大の神事である若宮祭礼の願主人として、 鎌倉末期には伴田(吐田)氏とともにその名が史上に現れる。
 大和武士たちは南北朝時代のころより党を形成するようになり、室町時代になると越智氏を中心とする散在党、 十市氏を刀禰とする長谷川党、箸尾氏を刀禰とする長川党、平田荘の荘官万歳・布施・高田氏らの平田党、 筒井氏を中心にした戌亥脇党、そして、楢原氏を中心とした南(葛上)党の六つの党が生まれた。そして、 それぞれの党は、若宮祭礼の願主人をつとめ若宮祭礼に際して、流鏑馬を奉納するのが恒例だった。 このように、楢原氏は南党の刀禰として一帯の武士たちを率いた有力国人領主で、 本拠とした楢原城はその規模の大きさから大和でも有数の山城に数えられている。
 楢原氏の出自に関しては、『大乗院寺社雑事記』の文明三年(1471)に、楢原景遠のものと考えられる書状があり「仲原景遠」とある。また、承安三年(1173)興福寺大衆による多武峯神社の焼き討ちがあったとき、興福寺側の大将の一に人「楢原中内光遠」がみえ冬野において討ち死にしている。この光遠は楢原氏の先祖とみられる人物で、仮名の中内は当時の慣習から中原姓にちなんだものと思われ、楢原光遠は中原姓であったとみられる。一方、楢原に鎮座する駒形大重神社には、かつて楢原氏の祖という滋野朝臣貞主が祀られていたといわれ、 楢原氏を滋野氏の後裔とする説を裏付ける傍証となっている。
 ところで、楢原氏の確かな系図は伝来していないが、一本越智氏系図に楢原氏の系図が含まれている。それによれば、越智氏十六代の家永には家通・通邦・邦度・重度・善知坊の男子があり、重度の子光度が初めて楢原氏を名乗ったとある。そして、楢原氏は南朝方として活躍したことが勇ましく記されている。しかし、同越智氏系図にはその実在を疑われている越智邦永・邦澄父子が記され、全体的に当時の記録と整合しないものである。そのすべてを否定することはできないが、 楢原氏の出自に関しては不詳というしかないようだ。

楢原氏の興亡

 さて、元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅亡、つづく後醍醐天皇の親政による建武新政が崩壊すると、 日本全国は南北朝の動乱時代となった。大和も例外ではなく、吉野や金剛山が戦場となった。葛上はその膝下にあり、 楢原氏はこの楢原郷の山城に拠って南朝方として、越智氏とともに活動した。楢原氏の菩提寺だった九品寺(くほんじ) の境内や本堂裏山にびっしりと千体地蔵と呼ばれる石仏群がある。これは、南北朝の争いの時、 南朝の楠木正成に味方した楢原氏の兵たちが身代わりとして奉納した石仏で、身代わり千体地蔵とも呼ばれている。
 その後、楢原氏は応仁の乱の最中に越智党から筒井党に転じて南隣の吐田氏と争うようになった。 後に越智氏とは婚姻関係を結んで一門となり、南大和では越智氏に次ぐ勢力となった。越智氏系図によると、 家永の子・重慶とその子の光慶の時に楢原氏を名乗るようになったという。人物の名こそ違うが先の越智氏系図の 記述と通じるところがあり、中世の大和武士が有する系譜上の整合性に悩まされるところである。
 応仁文明の乱以降は、ずっと筒井氏とともに転戦している。越智・古市氏の後援を得た吐田氏の攻勢をうけて 城を追われて福住まで退却し、筒井・福住氏らと二十年間にわたって行動をともにした。その後、 筒井氏が越智氏を破ったのにともなって在所への復帰を果した。このように、戦国時代後期における楢原氏は 葛城地域にあって第一の筒井党として行動、大和を統一した順慶の代には楢原周防守俊久が内衆に連なって その大和国支配を支えた。
 
楢原氏の故地を訪ねる



楢原氏の菩提寺-九品寺山門 ・ 本堂 ・ 楢原一族の古墓 ・ 楢原城址の大堀切 ・ 駒形大重神社本殿

→ 楢原城址に登る


 戦国時代から織豊時代にかけて、楢原氏は大和国人の有力者として行動していたことが残された記録から うかがわれる。永正二年(1505)の大和国人一揆の和睦に際しては、連判衆九人のなかに楢原氏の名もみえている。 その翌年の安位寺再建の奉加帳には楢原景遠の名が記されている。さらに『多聞院日記』の天正十一年の条には、 楢原右衛門尉が六十六歳で死去したことが記されている。楢原氏の動向は当時の記録に散在しており、 戦国末期まで大和武士の有力者として存在していたことは疑いないが、その最期を明らかにすることは 困難となっている。

●お薦めページ:気分は国人
参考資料:奈良県史=大和武士・大和国越智家譜・大塔宮之吉野城 ほか】



■参考略系図  
  


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