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横田氏
三つ巴/矢車
(藤原北家宇都宮氏流)


 宇都宮氏五代頼綱の次男越中守頼業が横田郷を分知され、その地名をとって横田を称したことに始まる。上三川・中三川・今泉・竹林・松野・石井・刑部・桑島等多数の庶子家を分派し、氏家・塩谷・多功氏と並んで宇都宮一族屈指の一門であった。
 承久三年(1221)、「承久の乱」が起こると頼業は宇都宮氏の一部将として出陣した。六月、頼業は宇都宮勢の先鋒となって、手兵を率い、勢多の橋にさしかかり敵状をさぐった。このとき、敵陣から一本の矢が飛んできて頼業の鎧の端に突きささった。抜いて見ると、十三束二つ伏の大矢に「信濃国住人福地源十郎俊定」と漆書きがしてあった。頼業はにっこり笑いながら「敵にもかかる剛勇の士のあること頼もし、応えてわが矢一本を進ぜよう」と、十三束三伏の大矢にわが名を記して敵陣を見渡した。そして、隊長とおぼしき人物の雨笠を狙い剛弓をひきしぼって一矢を放った。矢音一声、雨笠が吹っ飛んで敵勢は一斉にざわめき騒いだ。一方、味方の兵たちはどっと歓声をあげた。
 かくして、頼業は宇治川の戦いにおいて陣頭に立ち川を渡ろうとした。しかし、激流にのまれて水に沈むと、水底にあって鎧を脱ごうとしたが上帯が湿って解けない。満身の力をふりしぼって上帯を引きちぎり鎧を脱ぎ捨てて浮かび上がった。そして、対岸に泳ぎつくや裸のまま敵陣に斬りこんで荒れ狂ったと伝えられ、頼業の剛将ぶりを彷佛とさせている。

歌人武将、頼業

 承久の乱後については、『吾妻鏡』に宇都宮四郎左衛門尉頼業または越中前司頼業と記され、鎌倉幕府に仕えて嘉禎年間(1236〜38)までの十数年間にわたり将軍の近臣として重きをなし、弓矢の儀においては常に射手に選ばれていた。また、頼業は歌人としても知られ、「新和歌集」の中にも藤原頼業の名で

 春といえば花なき里に行く雁の 心のうちやのどけかるらむ

の一首が載せられている。  頼業は横田郷の領主として兵庫塚に横田城を築きそこに拠ったが、建長元年(1249)上三川に城を築いてそこに移った。頼業が横田城に在ったのはわずか十二年間であった。以後、上三川城が横田氏の居城となり、建治三年(1277)八月、頼業は上三川城において没した。享年八十一歳であった。
 頼業の没後は、その子泰親、時業、秀頼らが鎌倉に出仕し、みな父の血を享けて武勇にすぐれ、その後孫たちからも多くの武将が出ている。頼業のあとは泰親が継いだが、子がなかったためそのあとは時業が継承し、時業は父や兄と同様に鎌倉へ出仕し平穏な生活を送り弘安七年(1284)に逝去している。時業は横田郷の年貢の徴集、不役割当てなど、財政経済面に努力をし横田氏発展の基礎を築いたようだ。時業の弟の義業は那須郡松野郷を与えられ松野を家号とした。その下の弟実頼(のちに秀頼)は蒲生を名乗り、横田陣営の重要な一翼を担って子孫継続した。
 三代は親業で、弟の業澄は河内郡石井郷に出て石井五郎左衛門尉と称し、宇都宮宗家の東方にあたる鬼怒川沿岸を守備する有力武将となった。親業の三男親綱は河内郡落合郷に分家して和泉守四郎左衛門尉と名乗り落合氏の祖となった。
 このように、横田氏は宇都宮氏を宗家として支えながら、みずからも代々庶子家を新領地に分出し勢力を拡張していったのである。

南北朝の争乱

 五代貞朝のとき鎌倉幕府が滅亡、その後の南北朝争乱に身を処した。貞和五年(1349)足利基氏が関東公方として鎌倉に下向したとき随身し、「観応の擾乱」には尊氏方に属して観応二年(1351)の薩■(た=土に垂)山合戦に宇都宮公綱の陣に加わり、敵陣に討ち入って十七騎を討ちとる功を挙げた。この戦いで貞朝は敵将の旗指物である矢車を取得したので、足利尊氏から「永く家紋とすべし」との激賞の言葉を賜り、いままでの紋「左巴」を改め「矢車」に替えた。あわせて信州北出ノ郷に五千貫の地を賜り、他領を併せて三万六千八百貫文を所領とする大身となったという。しかし、五千貫は五十貫であろうと思われ、三万六千八百貫文の所領も宗家宇都宮氏と比較して納得がいかないものである。戦記によくある誇張と思われ、横田貞朝の活躍のほどが知れればそれでいいのであろう。貞朝の子泰朝は一時鎌倉公方足利氏満に仕えたため宗家宇都宮氏と不和になったが、のちに和解し二男伴業が宇都宮氏綱の猶子となっている。
 康暦二年(天授六年=1380)五月、宇都宮基綱と小山義政とが戦った裳原(茂原)合戦に出陣し、師綱・綱業父子は敵陣営に乗り込み敵将を相手に奮戦したが、重傷を負い半死半生のありさまで帰城した。この戦いで、宇都宮基綱は武運つたなく戦死した。
 この合戦において横田氏の手兵多数が討死し、師綱陣営は崩壊した。以後、師綱・綱業父子は戦傷の恢復と陣営の再整備に取組んだ。そこで、師綱は今泉郷にいた三男の元朝に城主代行の権限を移譲し、整備の任を委ねたのであった。その結果、今泉氏の勢力が城中に拡大される結果となった。しかし、宇都宮宗家も当主が討死しており、横田氏に援助の手をさしのべるどころではなく、横田氏としては同族今泉氏によって上三川城は存続、勢力も挽回できたと言えよう。
 その後の応永二十六年(1419)に師綱、ついで永享八年(1436)には綱業が病死した。上三川城主は綱業の嫡子綱俊であったが、綱俊は上三川を去って宇都宮に至り宇都宮等綱の家臣となった。ところが、等綱の父持綱は「小栗の乱」に小栗氏を支持し、小栗氏の滅亡後軍を引き揚げたが、鎌倉公方持氏は大軍をもって宇都宮追討の軍を進めた。このとき、持綱は塩谷氏によって暗殺されたため、持氏は兵を引き返した。しかし、持氏は幕府と対立を深め、永享十一年(1439)の「永享の乱」で鎌倉府は滅亡した。
 その後、長禄元年(1457)持氏の子成氏が鎌倉公方となると、成氏が小栗の乱に父持氏と対立した宇都宮氏を討つ由が伝えられ、宇都宮等綱は奥州に逃れて流浪の身となった。綱俊はこれに従って宇都宮を去り流浪したため、上三川城は綱俊の養子綱親が留守を守った。しかし、幼少のため実権は今泉元朝および、その子の盛朝が執行していたのである。寛正元年(1460)流浪していた宇都宮等綱が白河において没すると、綱俊は一人宇都宮に帰り翌年六十歳で死去した。 ・家紋:貞朝が戦功により足利尊氏から拝領した「矢車」紋。

横田兄弟の戦死

 ここに至って上三川城では正式の城主を立てなければならなくなり、すでに一切の実力を失っている横田氏を盛り立てる状況でもなかったことから、今泉元朝の子盛朝が城主となり、名実ともに今泉氏が上三川城主となったのである。これより、横田氏は上三川城内三の丸に屋敷を構え、城主今泉氏の親衛的一翼として同族間の団結に意を注ぐようになった。
 文明九年(1477)九月、古河公方成氏の命で宇都宮正綱が上州に出陣して上杉憲忠と戦った。この戦いは「川曲の合戦」とよばれ、横田綱親は保業・清業の二子とともに出陣して討死、盛朝のあとを継いで上三川城主となっていた盛泰も戦死し、正綱はも陣中で病没するという、宇都宮氏にとっては散々な戦いとなった。  十五世紀になると、関東では小田原北条氏が勢力を拡大し、それに伝統的勢力である古河公方足利氏、関東管領上杉氏らの勢力が対抗するという図式になっていた。しかし、次第に中世的権威は新興勢力後北条氏によって失墜しつつあった。そのような情勢にあって、下野では宇都宮氏、那須氏らが互いに勢力拡張と家名を賭けて合戦に明け暮れていた。
 天文十八年(1549)九月、古河公方足利晴氏から”那須退治”を下知された宇都宮尚綱(俊綱)は、勢力を拡大しつつある那須七党をたたく好機として那須方の最前線喜連川城に出陣した。このとき、宇都宮方は、多劫石見守・笠間長門守・塩谷伯耆守・上三川絵中守・壬生上総介・鹿沼次衛門尉・そして、横田四郎左衛門尉兄弟ら二千五百騎が参陣し、那須勢は大田原備前守・大関衛門右佐・伊王野下総守・千本常陸守ら三百余騎という陣容であった。
 小勢の那須方は野戦を避け、伏巣勢をを氏家・喜喜連川間をむすぶ東山道の早乙女坂付近にひそませた。そうとは知らない尚綱は那須勢を小勢と見て、三方より切って出て那須勢を蹴散らし、数にものをいわせて早乙女坂にさしかかった。そのとき、街道両脇から撃って出た那須衆の騎馬武者たちが尚綱の本陣めがけてまっしぐらに襲いかかった。尚綱の旗本たちは不意を突かれながらも懸命に防戦。宇都宮一門の笠間氏からの支援将満川民部少輔忠親は手兵を率いて那須勢に斬り込み、敵を七騎討ちとったが討死。同じく宇都宮一門の横田五兄弟も手勢二百余を指揮し奮戦、いったんは那須勢を押し戻したものの、五兄弟は枕を並べて討死した。このとき、尚綱は戦況を把握すべく陣前に馬を進めた。これに真っ先に気付いたのは、那須七党の一家伊王野資宗の重臣鮎ケ瀬実光だった。鮎ケ瀬氏は那須党きっての弓の名手として知られ、実光がねらいすました矢は狙い違わず尚綱の胸を貫き尚綱はあっけなく即死、総大将を失った宇都宮勢は潰乱し大敗戦を喫した。
 この合戦は「早乙女(五月女)坂の戦い」として知られているが、その年次については天文十八年五月とするもの、同十五年五月とするもの、あるいは十五年と十八年の二度にわたって行われたとするものなどがある。いずれにしろ、宇都宮勢は那須勢に思わぬ敗戦を喫し、横田氏も大打撃を受けた戦いとなった。

戦国時代の終焉

 五兄弟が戦死したのちの横田氏は末弟の綱久が継ぎ、その後も横田氏は宇都宮一門として宗家宇都宮氏に仕えた。しかし、慶長元年(1596)十月、宇都宮国綱が秀吉によって所領没収の憂き目にあうと、横田一族は佐竹氏に仕える者、武士を捨てて帰農する者とに分かれたといわれる。
 こうして、鎌倉初期以来、横田郷の領主として続いた横田氏も終焉のときを迎えたのである。

→●今泉氏の情報にリンク

参考資料:上三川町史/馬頭町史/下野国誌 ほか】


■参考略系図
 
 


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