今泉氏上三川氏
三つ巴
(藤原姓宇都宮氏族横田氏支流) |
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今泉氏は、宇都宮氏一族の重鎮として続いた横田氏の庶流である。本来ならば、横田氏の有力一族として横田氏を支える立場にあったが、今泉氏は横田氏に代わって上三川城主となり宇都宮氏の重臣として戦国時代に至った。
そのきっかけとなったのは、康暦二年(1380)、宇都宮基綱と小山義政とが戦った「裳原の合戦」に出陣した横田師綱・綱業父子が瀕死の重傷を負い、横田氏が潰滅的打撃を受けたことにあった。この戦いで宇都宮基綱は戦死しており、宇都宮氏にしても横田氏に支援の手をさし伸ばすことはできなかった。そのため、今泉郷にあって留守を守っていた元朝が、父と兄に代わって上三川城主となり横田氏の再建にあたったのである。
こうして、上三川城に入った今泉元朝が重傷の師綱父子をいたわり、上三川領域の統治と内外の整備を担ったことで、今泉氏の勢力が城中に浸透していったのである。横田氏にしてみれば、元朝の尽力によって勢力を存続しえたともいえよう。
上三川城主となる
その後四十余年、「小栗の乱」において小栗氏に加担した宇都宮等綱は奥州に逃れて流浪の身となった。これに上三川城主の綱俊が従ったため、上三川城は綱俊の養子綱親が留守を守った。しかし、綱親は幼少であったため、今泉元朝・盛朝父子が実権を掌握していた。やがて寛正元年(1460)、流浪していた横田綱俊が戻ってきたがほどなく逝去してしまった。
ここに至って上三川城では、幼少のうえにすでに実権を失っていた綱親に代わって今泉元朝の子盛朝が城主に推戴され、名実ともに今泉氏が上三川城主となったのである。一方、横田氏は城内三の丸に屋敷を構え、今泉氏を支える有力一族という立場になった。こうして、今泉家を城主とする横田一族が、蒲生・石井・松野などの諸将との連携を密にし、その配下の家臣団を含めた同族間の統一を強化し、武力を養い、城主を補佐し、上三川城の維持と繁栄に力を注ぐことになったのである。
ところで、今泉氏が上三川城主となったのは永享年代(1429〜1440)ということだけで、正確な年号は史料では求められない。しかし、横田氏から今泉氏に代わったことについては、宇都宮宗家との盟約なども影響したようだ。いずれにしろ、正式に今泉盛朝が第十代上三川城主となったことは間違いのない史実である。盛朝には弟元業がおり、元業は宇都宮城の東北にあたる竹林に住み、竹林淡路守を名乗った。これにより、上三川城は鬼怒川東岸に対するようになり、また奥州路への押えとしても上三川勢の力は一段と強固になった。
文明九年(1477)九月、盛朝の子盛泰は横田越中守綱親とともに、古河広方足利成氏の命を受けて出陣した宇都宮正綱の一翼をになって上州白井に遠征し、川曲の合戦で討死した。つぎの盛高は、大永六年(1526)十二月、宇都宮忠綱が結城政朝と戦った河内郡横山郷における「猿山の合戦」に出陣して討死、この戦いに敗れた宇都宮忠綱は鹿沼に奔り壬生綱雄に助けを乞うたが翌年七月に没した。一説に、毒殺されたもいわれている。
戦国時代の今泉氏
戦国時代に遭遇したのは泰高と泰光父子のときであった。父子は戦国時代の荒波にもまれながらも、よく上三川城およびその領土を維持しつづけたが、合戦のやむことのない世情にあって息つく暇もない生活を送った。
すなわち、天文十八年(1549)九月下旬、古河公方晴氏の下知を受け、宇都宮尚綱が那須退治として塩谷郡五月女坂に出陣したとき先陣にあって泰高・泰光父子が奮戦、ついで永禄元年(1558)五月には、越後の上杉謙信の軍が下野に攻め込み小山から多功城をめがけて襲撃してきた。このとき今泉氏は、多功勢応援のため上三川城から出陣した。ついで、元亀三年(1572)正月中旬、相州小田原の北条氏政の下知で下野へ進出してきた秩父新六郎・太田氏房らの軍との戦い、翌々天正二年(1574)十月には甲州武田勝頼が大軍で来攻し都賀郡金崎に宿営したとき防戦のために出陣するなど、やむことのない合戦の日々に身をおいた。
これらの激動から心身の疲労を癒す時間もなかった泰光は父に先立って天正五年八月逝去し、泰高も子のあとを追うように天正九年四月に逝去した。
その後の天正十二年(1584)、北条氏直が大軍を率いて壬生・皆川を攻め、一気に宇都宮へ迫るということがあった。さらに天正十四年には、常陸下館の水谷勢が一千余騎を引き連れ上三川を攻撃せんと押し寄せた。ところが、このとき奮戦したはずの上三川勢の指揮者の名が史書には記されていないのである。当時、上三川城主は今泉高光であったと推測されるが、年少ということで指揮ができなかったのだろうか。ちなみに高光の名が軍記物に出てくるのは父泰光逝去後十六年目の慶長二年(1597)のことである。これから推して、天正十二・十四年の合戦のときには、十代くらいであったものと考えられる。いずれにしろ、この高光が上三川城最後の城主となった。
天正十八年(1590)、小田原北条氏を降した豊臣秀吉は、宇都宮に陣を進めて関東・奥州の仕置を行った。このとき、宇都宮国綱は所領の安堵を受け豊臣大名の一員となった。翌十九年九月、秀吉は朝鮮征伐を全国諸大名に発令し出兵を催促した。宇都宮国綱もこの命を受け、文禄元年(1592)二月、一族に陣触れして先陣三千騎を発足させ、つづいて後陣三千騎と雑兵五百余人を進発させた。この陣営には高光が率いる上三川勢数百人も同行していたが、文禄四年(1595)朝鮮より帰国したのちは大坂詰として大坂に留まった。このころ、宇都宮国綱に嗣子がなかったことから、豊臣秀吉より浅野長政の二男長重を養子に迎えてはどうか、との上意があった。国綱はこのことを、大坂詰の重臣今泉高光および北条松庵に相談した。高光らは「太閤殿下の仰せとあらばお請け申し上げねばなりますまい」と答えた。
これを聞いた国綱の弟芳賀高武は「宇都宮家は関東の名家であるから一族も多い。しかるに他家より相続するとはもっての外である。今泉、北条の執持は許し難し」と激怒し、石田三成を通じて秀吉へ破談の儀を伝え、その足で北条松庵の宿舎に赴いてその非議を責め松庵を京都の四条河原に引き出し斬罪した。
今泉氏の没落
このことを知った今泉高光はおおいに恐れ、すぐさま郷里へ立ち帰ったが、慶長二年(1597)五月、芳賀高武の軍勢に城を囲まれ、四方より火を放たれ、防ぐにすべなく城中三の丸の長泉寺に逃れて主従十五人ともに自刃した。このとき、高光の子宗高は六歳の幼児で近臣に守られて高光の弟今泉五郎の館に落ち延びた。かくして今泉氏は没落し、宗高は叔父五郎に養われることになった。成長の後は、先祖横田頼業の居館跡である今泉家にあって横田郷兵庫塚を開発しその地に土着したと伝えられている。
ところで、慶長二年(1597)九月、国綱は突如、秀吉の命によって改易の処分を受けた。ひとつに浅野長政の手によって実施された太閣検地の結果、宇都宮氏の所領申告に不正があったと摘発されたことが原因といい、また、宇都宮家中の内紛を咎められた結果ともいう。もし、芳賀高武が高光らに同意して浅野長重を宇都宮氏の養子として迎えていれば、内紛もなく浅野氏も手心を加えたと思われ、改易には至らなかったのではないだろうか。結果からみれば、宇都宮氏宗家に近い高武より、北条松庵や今泉高光らの方が消極的ながらも世間の機微に通じていたとはいえないだろうか。
【参考資料:上三川町史(栃木県立図書館蔵)/下野国誌 ほか】
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