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土橋氏
●三つ巴
●村上源氏顕房流
・村上源氏流土橋氏は、巴紋を用いたといいますが、確たる裏付けはありません。ご存じの方教えてください。
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戦国時代、もっとも威力を発揮した武器は種子島銃であった。そして、その種子島銃に練達してもっとも恐れられたのが、根来衆と雑賀衆であった。いずれも紀伊国を本領とする集団で、相互に深い関係を有していた。そもそも種子島銃は、根来衆の一員である津田監物が種子島から伝えたもので、根来から紀の川を下った河口に雑賀があった。
雑賀衆のなかで、もっとも有名な人物は雑賀孫市であろう。孫市は鈴木孫一とも書かれ、平井孫市を称したともいわれるなど不明な点が多い。この孫市とならんで活躍した雑賀衆の有力者が土橋氏である。
土橋氏は系図によれば村上源氏で、右大臣顕房の後裔と伝えている。『姓氏家系大辞典』では、顕房の後裔平次大夫重平は仁平年間(1151〜54)に越前国大野郡土橋の里に移住し、土橋を称したという。嘉応元年(1169)、後白河法皇の熊野御幸に供奉して功があり、大和守に任じられ当郡十三所を賜った。そこに一城を築くと、承安二年(1172)、越前より移住して代々領主として続いたとある。加えて重平の子時平は後鳥羽上皇の熊野御幸に供奉して、幸物の称を賜ったという。
南北朝合一がなった明徳三年(1392)、時平九代の孫という若大夫重春は伊都郡学文路に蟄居したという。嫡男の重村は幕府管領の細川勝元に召されて上洛、軍功によって旧領を安堵された。以後、土橋氏は管領細川氏に仕え、つぎの重勝は細川高国に仕え、両細川氏の乱における桂川の戦いで嫡男重胤とともに戦死したという。
乱世のなかの土橋氏
ところで、紀州の守護は畠山氏が世襲したが、畠山氏は内紛の多い家で領国の支配は思うように任せなかった。とはいえ、国内の武士たちは守護畠山氏の動向によって戦いに巻き込まれることが多かった。戦国期の永禄三年(1560)、三好実休の軍勢が和泉・河内に進出したとき、それを迎撃する畠山高政に「雑賀の人々」が呼応した。そのなかに鈴木孫九郎、同孫市、そして土橋小平次種興が見られる。
戦国時代の記録に見える土橋氏としては、永禄五年の「土橋平次胤次」、天正八年(1580)の「土橋平尉春継・胤継」などがある。また、天正五年の織田信長朱印状に「土橋若大夫とのへ」、天正十年の明智光秀書状に「雑賀五郷、土橋平尉殿」がある。
おそらく、土橋小平次種興と土橋平次胤次は同一人物と思われ、土橋若大夫は胤次の別称であったと考えられる。一方、土橋氏系図をみると重隆、若大夫守重が見え、守重の弟に平之丞重治がいる。記録に残る人名と系図のそれとは著しい違いをみせているが、それぞれ同一人物のことと思われる。
さて土橋氏は、栗村に本拠を置き、雑賀惣国の雑賀組に属し、鈴木孫市とともに雑賀衆として行動した。土橋氏は根来の泉識坊と関係があり、雑賀衆と根来衆を結び付けるキーマンでもあったようだ。しかし、織田信長による根来攻めに際しては、鈴木孫市とともに誓紙を出して降伏している。とはいえ、その後も根来衆との連携を保ち信長への抵抗姿勢は崩さなかった。
また、信長と本願寺との戦いに際して雑賀衆は、石山本願寺に入って信長軍を相手に活躍した。とくに鈴木孫市は「大坂の左右の大将」と称される中心人物であったが、土橋氏は本願寺を支援したとはいえ孫市とは別行動を取っていたようだ。雑賀衆の活躍で手痛い反撃を被った信長は、本願寺を倒すためにはまず雑賀を制圧することが肝要と考え、雑賀衆への攻撃を行った。雑賀衆は信長軍を果敢に迎え撃ったが、圧倒的な物量の差に降伏した。
天正八年、信長と本願寺が和睦したとき、雑賀衆年寄衆の連署で起請文が出されたが、そのなかに土橋平次の名はない。土橋氏は、雑賀衆とは別に胤継・春継の二人が連署で起請文を出している。これらのことについて、『和歌山県史』には、土橋氏は浄土宗に帰依していたことから、一向宗である他の雑賀衆とは別行動をとったのであろうとしている。
時代の変動に身を処す
本願寺が石山を退去したのち、鈴木孫市は織田信長に接近していった。一方、土橋氏は信長への徹底抗戦の構えを崩さなかった。その結果、鈴木家(雑賀孫市)と土橋家の間で、利権を巡るトラブル、宗教的な対立が起り、ついに内乱が勃発した。信長を後ろ楯とした孫市は、天正十年正月、土橋若大夫を襲撃して殺害した。このとき平之丞、平次らは栗村城を落ち、泉識坊を頼ったがそこも追撃を受け、牟婁郡矢ヶ谷村に落去した。ところが、同年六月、本能寺の変が起こり、信長が殺害されると、土橋氏が雑賀の実権を掌握した。居場所を失った孫市は秀吉の下に走り、天正十三年の大田城水攻めに秀吉方として活躍している。
土橋平丞は光秀に書状を送って「御入魂」を申し入れるとともに、入洛を望んだようだ。それに対して光秀は、背後からの援軍を期待する返書を送っている。その一方で土橋平丞は、土佐の長宗我部氏とも連携を深め、十月、元親の誘いに応じて、約二千の軍勢を率いて讃岐に渡った。
一方、信長が死去したのちの織田家中では、光秀を討った羽柴(豊臣)秀吉と筆頭重臣である柴田勝家とが対立した。天正十一年、秀吉と勝家は近江の賤ケ岳で戦い、敗れた勝家は滅亡した。ここに秀吉は、織田信長後の出頭人に躍り出た。そのような秀吉に対して、徳川家康が織田信雄と結んでたちはだかった。家康は、四国の長宗我部元親、紀州の雑賀衆・根来衆と結び、秀吉を挟撃しようとした。秀吉は紀州勢に対する押えとして、岸和田城に中村一氏を入れて牽制した。
天正十二年正月、紀州勢は岸和田城を攻撃したが敗れた。そして四月、小牧・長久手の戦いが起こると、雑賀衆・根来衆らは大坂を攻める気配をみせ、秀吉の出陣を遅らせた。戦いは家康・信雄連合軍が勝利をあげたものの局地的な勝利にすぎず、また秀吉の連合軍切り崩し策が効を奏して和議が成立した。ここに至って、雑賀・根来は秀吉の攻撃にさらされることになる。
秀吉の紀州制圧
天正十三年三月、豊臣秀吉は紀州攻めを開始した。根来・雑賀衆らは和泉において秀吉軍を迎えうったが、ことごとく敗れて紀州に退いていった。紀州に攻め入った秀吉軍は根来寺を攻撃、山内をことごとく焼き尽くした。ついで、土橋氏を攻めたが、すでに土橋氏は退去して土佐へ逃れたあとであった。こうして、土橋氏の居城であった「平丞城」へ入った秀吉は、抵抗する諸勢力を制圧した。残すところは、大田党と根来・雑賀の残党が立て籠る大田城ばかりとなり、秀吉は水攻めによってこれを攻撃した。
このとき、大田城には五千人が籠っていたといい、ほどなく食糧がつき、老人や婦女子がつぎつぎと倒れ、弑兵にも疲労の色が濃くなった。ついに城将大田左近以下、五十一人の将が切腹し、大田城は開城した。ここに、紀州はまったく秀吉に制圧されたのであった。
ところで、土橋氏の系図によれば、若大夫の子平次郎守重は大田城で戦死し、弟の幸物十郎盈重、平三郎重房らは栗村に帰住して帰農したと伝えられている。こうして、反信長、反秀吉の立場を貫き通した土橋氏は武士としては残りえず、野に埋もれたといえよう。・2005年4月28日
【参考資料:和歌山県史/姓氏家系大辞典/海草郡誌 ほか】
■参考略系図
・『姓氏家系大辞典』『海草郡誌』の記事から作成。
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