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戸沢氏
丸に輪貫九曜
(桓武平氏貞盛流)


 戸沢氏は桓武平氏貞盛流で、その後裔兼盛をもって祖とする。陸中国岩手郡雫石庄戸沢邑から起こり、古くは雫石氏を称し、のちに戸沢を名乗ったと伝えられる。奥州土着については、その伝に「飛騨守衝盛は和州三輪里に生まれ、木曽義仲に属したるも、その不義を悪み、奥州磐井郡滴石の庄、戸沢に下り住む」とある。文治五年の奥州征伐に従軍してこの地に土着したとも考えられる。
 戸沢氏が出羽の豪族として定着するのは、家盛の時代に出羽国角館城に移動して以来で、ここに一族が集結して新体制を敷き、戦国大名としてのスタートを切ったと考えられる。
 十八代の盛安は、病弱の兄盛重の跡を継いで、戦国時代から江戸時代初期にかけての多難な時代を乗り切った歴代を代表する勇将であった。盛安の時代に戸沢氏の軍事力は急速に強大化し、南下しては大曲平野におよび、小野寺氏と対立を深めながら、戦国大名として急成長を遂げつつあった。そして、最上氏と連携しつつ小野寺氏包囲を進めたり、安東氏内乱には湊道季を支援するなど広範な活躍をみせている。
 秀吉の小田原の陣には、小野寺氏と前後して参陣し、四万四千石の所領安堵を得ている。しかし、不幸にも盛安は、小田原において陣没してしまった。その後は弟の光盛が継いだが、朝鮮出兵に従い、その途上、名護屋で客死した。十七歳だった。そして盛安の子政盛が家を継ぎ、角館から常州茨城郡小河城に移封された。
 その後。宝永七年(1704)に出羽国最上郡小田島庄新庄城六万八千石に転封となり、明治維新に至った。

参考資料:角館市史/秋田人名大事典 ほか】   →●詳細ページへ


●戸沢氏の家紋

 戸沢氏の家紋は「細輪の内に九曜」で、とくに「丸輪に抜き九曜」といっている。九曜紋は妙見信仰からきたもので、関東から東北にかけて多く分布し、そのほとんどが桓武平氏千葉氏流を称している。妙見信仰とは北斗七星を信仰するもので、北天に輝く北極星は常にその位置を動かず、その周りを巡る北斗七星が尊ばれた。北斗信仰ともよばれ、のちに仏教の菩薩と合体して妙見菩薩の名も生まれた。
 戸沢氏は「細輪のうちに九曜」のほか、輪のない九曜も用いるが意味は同じである。そのほか、「鶴丸」と「戸の字」も用いる。戸の字は、戦場で敵味方を判別するため戸沢の「戸」の字を旗紋に用いたものが、そのまま家紋に転用された。

・家紋:鶴丸/戸の字


■参考略系図


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