戸沢氏は桓武平氏貞盛流で、その後裔衡盛をもって祖とする。陸中国岩手郡雫石庄戸沢邑から起こり、古くは雫石氏を称し、のちに戸沢を名乗ったと伝えられる。奥州土着については、その伝に「飛騨守衝盛は和州三輪里に生まれ、木曽義仲に属したるも、その不義を悪み、奥州磐井郡滴石の庄、戸沢に下り住む」とある。そして文治元年(1185)衡盛は頼朝の臣となり、文治の屋島合戦に活躍し、その功により建久五年(1194)陸奥磐手郡滴石(岩手県岩手郡雫石町)に四千六百町の土地を与えられた。そして滴石内戸沢に拠点を置き、その地名をとって戸沢と称したという。 衡盛のあとの兼盛のとき、戸沢の地から奥羽山脈を越え羽州山本郡鳳仙台の館に移った。建保六年(1218)に至って和賀御所親朝に属し、千貫文の地を与えられ、承久二年(1220)に門屋に移り、安貞二年(1228)に門屋城を築いた。 以上が、戸沢氏の草創期に関して、系譜類などにみえる記事である。 戸沢氏の出自考察 では、戸沢氏の出自は、系譜類が記す通りなのであろうか。まず平氏を名乗っていることについてであるが、新井白石の編んだ『藩翰譜』の戸沢氏の記述には「未だ尾輪平親王と申せしは見え給わず」とか「別に平兼盛と聞こえしなるも知らず、覚束なし」とあり、平氏を名乗ることに関する戸沢氏の伝は、きわめて粉飾されたものといわざるをえない。 さらに、戸沢衡盛が源頼朝に謁見し、四千六百町余の領地を与えられたとるす点はどうか。平安末期から奥州は、平泉を根拠地とした藤原氏が支配していた。文治五年(1189)源頼朝は奥州征伐の軍を起こして藤原泰衡を滅ぼしたが、その遺領は千葉・工藤・南部といった関東御家人に分け与えた。このとき、戸沢氏はどのように行動したのであろうか。加藤民夫氏は推論として、「戸沢氏の祖は『衡』盛の名乗りから、平泉藤原氏の郎従ではなかったか」そして「滴石地方に数十町歩の田地を有する開発領主というのが真の姿ではなかったろうか」とされている。これによれば、奥州合戦では、藤原泰衡の軍勢に積極的に加わらなかったことで、辛うじて幕府から存続を許されたに過ぎないと思われる。 奥州藤原氏は、「前九年・後三年の役」後に勢力を築いたが、それ以前の奥州は安倍氏が勢力を誇っていた。安倍氏は奥六郡の郡司として奥羽地方を支配し、雫石地方もその勢力下にあったことは疑いない。安倍氏につづいた藤原清衡の政権に対して、平安末期以来の開発領主であったと思われる戸沢氏の祖は、これに臣従し「衡」の一字をもらい郎従となったものであろう。そのような立場ながら、頼朝の奥州征伐に藤原氏に味方することもなかったため、鎌倉幕府からその存在を否定されることもなかったが、幕府内に安定した地位を得ることもできなかった。かくして、鎌倉時代は小さいながらも領地を確保し、氏神をまつり、一族の団結を固めつつ勢力拡大につとめたものと思われる。 『戸沢家譜』によれば、南部行光と抗争した記事がみえる。南部氏は甲斐源氏の一流であり、幕府御家人という立場をもって、在地の旧豪族に圧迫を加えたことは否定できない。戸沢氏が平氏を称したのも源氏の南部氏に対抗するためであったのかも知れない。 ところで、南部氏は奥州に領地を賜ったものの、その支配は一族・代官に任せていたようで、その本宗は甲斐にあった。戸沢氏が戦った南部氏というのは、庶流南部氏か代官であったと思われる。いずれにしろ、鎌倉時代の中期を過ぎることになると、南部氏に臣従するかたちでなければ存続が許されない状態となり、南部氏との抗争はそのあたりの状況を語るものであろう。 南北朝の動乱 元弘三年(1333)鎌倉幕府は滅亡し、建武新政権が誕生した。奥州には北畠顕家が陸奥守として赴任し、南部・伊達・白河結城氏らの有力豪族の支援を得て奥州の経営に着手した。しかし、足利尊氏が新政権から離反したことで、奥州の情勢もにわかに慌ただしさを加え、延元三年(1338)顕家が和泉国石津で戦死すると、奥州の南朝勢力は北畠顕信(顕家の弟)を迎えて体制の立て直しを図った。興国二年(1341)顕信は、武家方の奥州総大将石塔義房を攻撃するために、葛西・和賀・雫石・河村・南部の兵を動員した。ここに雫石とみえるのは戸沢氏のことである。『戸沢家譜』では勝盛の後を継いだ玄盛は、建武二年(1335)に後醍醐天皇方に属し足利尊氏と戦ったことになっていることから、玄盛であったかも知れない。 この時点で戸沢氏は南部氏、和賀氏らととも南朝方として行動していたことがわかる。顕信と石塔氏との戦いは顕信軍の敗北に終わり、顕信は一時雫石城に入って勢力挽回を図ったが、ついに出羽国へと去っていった。そして、戸沢氏も顕信とともに出羽移住を決意したようだ。このとき、名字の地である雫石の地には、庶流を残していったものと思われる。 ところが玄盛の次の英盛は貞和四年(1348)に門屋城を出立し、転戦を続けたあと延文元年(1356)には尊氏の命により鎌倉に入っている。これは当時の武士団が、北朝方が優勢になるにつれ南朝方から北朝方に変わるといういう一般的経緯を反映したもので、戸沢氏も奥羽合戦のあと北朝方に帰属して時代を生き延びたものと判断される。 さて、出羽北浦地方に入った戸沢氏は、小山田の真山寺を祈願所と定め、代々の菩提寺とした。併せて小杉山の円満寺とも深いつながりをかさねて地域支配にその権威を利用した。そして、平氏の流れを汲む由緒ある家柄であると宣伝して周囲の小豪族を味方につけていったのである。 戦国争乱の兆し やがて、足利義満によって南北朝が統一され、時代は比較的安定していった。そのころ、出羽仙北三郡に勢力を振るっていたのは小野寺氏であった。一方、南部氏も勢力拡大策をとり、奥羽山脈を越えて山本郡への進出を開始した。そして、応永十七年(1410)に秋田郡から勢力を拡大しつつあった安東氏と刈和野で激突し、大激戦を展開したのである。 安東氏に勝利したと思われる南部氏が山本郡を勢力下に収めたことは、応永二十六年の『南部政光下知状』などから確実視できる。また、八戸南部氏の一族久慈政継が代官として大曲に入部したことが『久慈氏系図』に伝えられている。一時期とはいえ、南部氏は仙北郡の中央部から西部にかけて領地を保持していたのである。この事態をもっとも警戒したのが、これに南接する小野寺氏で山本郡の攻略を開始した。そして、寛正六年(1465)大曲代官の久慈氏をやぶり南部領に追放した。当然、南部氏は援軍を送り、以後、四年間の抗争のすえに南部側の敗北となり、出羽仙北地方は小野寺氏が領有するところとなり、小野寺氏の全盛時代が到来したのである。 この間、戸沢氏と北浦地方の動向は明確ではない。戸沢氏にしても南部氏の仙北支配は無関心でいられるはずはなかった。しかし、小野寺氏の活動に対しては傍観の姿勢をとり、みずからの領国経営に忙殺されていたのであろう。この時期の戸沢氏は楯岡の揚土城主の小笠原氏と姻戚関係をかさね、その同盟軍として大きな力を発揮していた。 長禄二年(1458)小笠原光冬は小野寺氏に圧迫され、楢岡に移住し楢岡を称した。このことは、戸沢氏に小野寺・南部のいずれかに加担することは、北浦地方の安泰にはつながらいことを戸沢氏に説いたようで、それが戸沢氏の中立的立場を堅持させたようだ。小笠原氏はのちに戸沢氏が大名化するに及んで、その重臣となっている。 勢力の拡大 戸沢氏が領国経営の中心としたのは、初め、小館であった。その後、より強固な基盤を確立するため、門屋城を築き移住した。それは応永二十年代のころ、戸沢家盛の時代であったと推定されている。そして、十五世紀前半には門屋城を囲むように小山田城、ワブロ城、佐曾田城などを築き、一族・家臣を配置した。 こうして、門屋地方の整備を完了した戸沢氏は近隣地方への勢力拡大を図るようになった。それは、婚姻政策をもって進められた。楢岡城主小笠原氏とのことは既述の通りであるが、寿盛の母は白岩城主の下田盛忠の娘で、寿盛は本堂親末の娘を室に迎え、嫡子征盛が生まれた。さらに二男を小笠原氏の養子に入れ光遠を名乗らせている。つづく征盛は小笠原氏の娘と結婚し、その間に秀盛が誕生した。そして、秀盛と小笠原清長の娘との間に生まれたのが道盛であった。このように小笠原氏とは二重・三重の姻戚関係を結び、際立って強固な関係を形成していた。 道盛の代になると、以前から成長しつつあった数カ村程度の領域を支配する中小国人領主が広範に登場する。本堂・六郷氏のような伝統的領主をはじめ、前田薩摩守・楢岡左馬介・白岩備前・旗幅内膳・堀田長五郎・小杉山・円満寺・半導寺・戸蒔の諸士がその主なもので、他に村落領主と称される二・三ヵ村を領有する武士も加わる。彼らは戸沢氏の家臣団に列せられ、小野寺氏や安東氏との戦いでは戸沢氏配下に組み入れられた。しかし、本堂・六郷氏のように古い歴史をもつ国人衆は向背定まらず、小野寺氏に鞍替えしたり独立的な動きをしたから、戸沢氏が戦国大名として成長していくためには、支配を固める上ですぐれた政治力を必要としたことはいうまでもない。 このようにして戸沢氏は、南部・小野寺両氏の抗争に関わらず周囲の豪族と血縁関係を深め安定した勢力に成長していったのである。これは、門屋地方が南部・小野寺両勢力の領地争奪に直接巻き込まれないところであったことも幸いしたようだ。 近隣諸豪との抗争 準備体制を整えた戸沢氏が角館への進出を果たしたのは、『家譜』によれば、家盛のときの応永三十一年(1425)であったという。しかし、『古実記』をもとに編まれた「戸沢氏系図」では、正員の子政保が「角館に柵を移す」とあり、この政保の五代あとが天正六年(1578)に家督を継いだ盛安である。この系図は、人名が通説の戸沢氏のそれとは随分異なるものであるが、そこに記された年代はかなり信頼のおけるものである。 政保の活躍した年代を『家譜』にあてはめると、文明十一年(1479)家督を継いだ秀盛の時代であり、戸沢氏の角館進出は秀盛の時代と考えるのが、周囲の状況からも妥当であるようだ。戸沢氏が角館に進出できたのは、南部氏の勢力が仙北地方から払拭されたことが最大の要因であった。このことからも、南部氏が仙北地方から撤退した応仁二年(1468)以後のことであると考えて間違いないだろう。 角館に進出した戸沢氏は、安東氏との対決を迫られることになる。明応五年(1496)秀盛は安東氏の攻撃に備え、弟の忠盛に二千の軍勢を与え、秋田領との境界にある淀川城の守備につかせた。こうして、忠盛は安東氏の軍勢を唐松野に迎撃したが、敗れて淀川城に退いた。秀盛はただちに応援のためみずから出陣し、安東軍との間で激戦となった。この戦いで、両軍ともに有力武将の戦死が相次いだ。 ついで、永正年間(1504〜21)になると、小野寺氏との対立が決定的となり、小野寺氏との間で激戦が展開されたが、楢岡氏・六郷氏らの仲介で和睦した。大永七年(1527)には、ふたたび安東氏との合戦が始まり、このとき弟の忠盛が秋田方に寝返ったとの風聞が伝わり、角館領内は動揺したが、翌年、忠盛が角館にきて弁明したことで一件落着した。その翌享禄二年(1529)、戸沢氏の版図拡大につとめた秀盛が死去した。あとにはわずか五歳の道盛が残され、淀川城主の忠盛が角館に移り、その後見役として政務を担当した。ところが、忠盛は宗家奪取を企てたため道盛とその母は角館を脱出して城外に身を隠すという事態になった。 幸い、忠盛の謀叛は家臣たちの支持を得られず、道盛の外戚である楢岡氏を中心に六郷・本堂・白岩氏らが結束して角館に圧力をかけ、天文元年(1532)に忠盛を淀川城に退去させたことで一件落着した。この危機を切り抜けたことで家臣団の結束は強まり、以後、戸沢氏は領国の拡大と安定を目ざし、近隣の諸大名と激戦を繰り広げることになる。かくして、戸沢氏は戦国大名への道をひた走ることになった。 戦国乱世を生き抜く 天文十年、小野寺氏は角館城攻略に本腰をいれた。そのため、一時戸沢方の諸将が動揺し、角館開城もやむをえずとの空気がみなぎった。そのとき、道盛の母が諸将の奮起を促し、それに奮い立った諸将の活躍で、小野寺氏からの攻勢を回避できたのは天文十二年であった。その後、小野寺氏に内紛があり、戸沢氏に対する小野寺氏の脅威は去った。 しかし、天文十四年淀川城主忠盛が死去したことで、安東氏が淀川城攻略に意欲を燃やした。そして、ついに淀川城は安東氏の手に落ちてしまった。翌々年、態勢を整えた道盛は淀川城奪還を目ざして出陣、安東勢と激戦を展開した。そして、秋田方の城将湊丹波守を降し、戸沢四郎三郎を改めて城将として淀川城に配置した。つづいて秋田氏の配下となっていた荒川城を攻略し、角館に帰還した。その後、大曲土屋館の富樫氏を降して臣従させ、元亀元年(1570)には、富樫勝家をして六郷領・小野寺領に接する高畑に居城を築かせた。こうして戸沢氏は、仙北郡のうち六郷・仙南・千畑・仙北・太田・大曲の一部を除くすべての地を掌中に収めることに成功した。道盛は本堂親康の娘を室とし、その間に盛安をもうけた。永禄九年(1566)のことであった。この道盛こそ、のちに鬼九郎の名をほしいままにした猛将戸沢盛安である。 さて、このころの中央に目を転じてみると、織田信長が著しく台頭し、天下統一を目前にする状態にあった。この情勢は奥州にももたらされ、安東愛季は天正三年(1575)の段階で織田信長に鷹を贈って誼を通じていた。盛安も重臣とはかって信長へ接近することを決意し、大曲城主前田薩摩守を使者として、天正七年、良鷹一居、駿馬二疋を安土城にいる信長に献上した。ところが、これが思わぬ誤算となった。安土城に伺候した前田薩摩守は戸沢盛安の名代としてではなく、仙北の独立領主として振る舞ったのである。信長は前田を天守閣に案内し、帰りには御服や黄金を返礼として受け取っている。前田は外様的存在であり、この上洛を千載一遇のチャンスととらえた。戸沢氏としては迂闊な人選であった。 この前田の背信行為は京都の鷹買商人田中清六の情報によって確認された。以後、戸沢氏は田中清六から上方の情報を入手し、迅速な行動へと結び付けた。田中清六の陰の情報援助は、戸沢氏の中央政界との連絡に大きな力となった。 鬼九郎盛安の奮闘 天正十四年(1586)小野寺義道は、最上義光の雄勝郡進出を抑えるために、みずから大軍を率いて国境の有屋峠に向った。居城の横手城には大築地織部が留守役として残るのみであった。戸沢氏はこの機会を逃さず、盛安みずからが三千余騎を率いて布晒に布陣した。これをみた、大築地織部もただちに阿気野に出陣した。 そして、両者激突となり、戸沢氏の先鋒楢岡氏は小野寺軍に崩され敗走した。これを見た盛安は、五百人の手勢を従え敵陣に突き進んだ。これに白岩・本堂・堀田・門屋らが続き、大激戦となった。勢いに乗じて戸沢勢は大築地の居城沼城を攻撃しようとしたが、そこへ小野寺方に援軍が到着したことがわかり兵を退いた。この合戦における盛安の奮戦は目覚ましく、誰いうともなく鬼九郎と称されるようになった。 戸沢氏の威勢はこの勝利と盛安の武名によって大いにあがったが、それに加えて、当時盛んになりつつあった鉱山経営の成功も背後にあったようだ。いまも、戸沢氏が開発、経営した鉱山跡が残っており、戸沢氏はそこからもたらされた富を蓄積し、その富をもって武士を召し抱え軍事力を増大していったことは想像に難くない。 唐松野の戦い 翌天正十五年、盛安は祖父秀盛の時代から抗争を繰り返してきた安東氏と仙北唐松野で戦った。安東氏は湊と檜山の二家に分かれていたが、檜山の安東愛季が湊安東氏を併呑したことで、湊安東氏が支配していた秋田湊は檜山安東氏の支配するところとなり、その勢力は一躍拡大した。 秋田湊は出羽北部のさまざまな交易品が集まる湊で、近隣の国人領主はもとより雄物川上流の穀倉地帯を領する戸沢氏や小野寺氏の諸大名も米の輸送や京畿からの商品流通の基地として利用していた。これに対して、湊安東氏はわずかな通行税で自由に船が出入りすることを許していた。しかし、愛季が湊安東氏を併せたことで、事態が変ってきた。愛季にしてみれば、戸沢氏ら山北の諸大名を抑えようと思えば、雄物川の川筋を利用した交易を封じることで可能となったのである。 ここにおいて、いままでの単なる境界をめぐる争いから、雄物川舟運路と東西運路を結ぶ刈和野をめぐる争いとなったのである。刈和野は角館地方と由利海岸を結ぶ塩の道の中継点で、戸沢氏にとっては経済上・戦略上の要所であり絶対に負けられない戦いとなった。初戦は安東方に虚をつかれて淀川城が安東方の手に落ちた。急報を得た盛安はただちに軍を発した。しかし、すでに安東勢は唐松野に陣を布いていたため、盛安は淀川を隔てて陣を布いた。安東勢三千に対し戸沢勢は千二百人で、合戦は三日間にわたって続き、秋田勢三百、戸沢勢百人の戦死者が出た。 戦いは膠着状態になるかと思われたが、安東方の大平八郎五郎が奇襲に出たことでふたたび激戦となった。戦いは戸沢軍が必死の力を揮い、ついに安東愛季は舟岡に退去した。これを追撃した盛安は、安東方の剛将吉成右衛門を組み伏せその首級を挙げた。こうして、盛安は安東氏の仙北進出の野望を打ち砕いた。この戦いは「唐松野の合戦」と呼ばれ、戸沢氏の実力を出羽諸豪族に認識させる勝利となった。 戦国時代の終焉 ところで、この合戦の最中に安東愛季は死去していたが、それを安東軍はひた隠しにして戸沢勢と戦っていたのであった。愛季が没したあとの安東氏は、嗣子実季が家督を継いだがまだ十二歳の少年であった。この情勢に、豊島城主の安東道季は周辺の諸領主を誘い、謀叛に及んだ。このとき、戸沢盛安も誘われ道季に加担した。盛安にしてみれば、秋田湊を開放することと、先年の唐松野の戦いの結着をつける意味でも、秋田氏の内紛は願ってもないことであった。こうして、盛安は安東氏の内紛に乗じて檜山城を包囲した。そして、五十日間にわたって猛攻を繰り返したが、ついに落とすことはできなかった。その後、乱は実季方の勝利に終わり、戸沢氏は角館に戻って領内の引き締めに専念することとなり、安東氏を打倒して大領国を形成する夢はまったく打ち砕かれたのであった。 このようにして戸沢氏は、安東・小野寺の二大勢力に挟まれながら、六郷・本堂らと同盟し、戦国大名としての地歩を固めていった。この間、中央政界にも異変があり、天正十年(1582)織田信長が本能寺の変で横死した。そのあとは、信長の部将羽柴秀吉が信長の事業を継承して天下統一に邁進し、天正十五年には太政大臣に就任し朝廷から豊臣の姓を賜って豊臣秀吉を称するに至った。戸沢氏と安東氏が戦った「唐松野の戦い」はちょうどこの時期のことであった。 秀吉は西国を平定すると、最後まで抵抗を続ける小田原北条氏を征伐するために全国の諸大名に出陣を命令した。盛安もこの命令を受け取り、ただちに角館を出発した。それは、商人の姿に変装してわずか九人の家来を率いるだけのものだった。まさに、若さにまかせて新時代に乗り遅れまいとする盛安の面目躍如といったところである。盛安は猛烈なスピードで旅を続け、東海道を東下する秀吉の陣所にたどりついた。秀吉はこの盛安の参陣に満足し、謁見を許し腰刀備前兼光を盛安に授けた。盛安は小田原に従軍するとともに、角館に連絡をとり将兵を呼び寄せ小田原攻めに参加した。しかし、不幸にして小田原の陣中で病死したのである。ときに、盛安は二十五歳の若さであった。 かれの十三歳で家督を継いでのちの短い生涯は、合戦に明け暮れたといっても過言ではない。そのようななかで、奥州という地にありながら機をみるに敏なところは戦国乱世を乗り切るだけの器量を持っていた人物であったといえよう。当時、伊達氏をはじめ、葛西・大崎など奥州の諸大名は豊臣秀吉の力量を計りかね、小田原参陣のことを逡巡をしていたのである。そのようななかで無鉄砲ともいえる盛安の行動は、大名として存続するためにはそれなりの大胆さが必要であることを十分に知り抜いていた。まさに、乱世の傑物であった。 近世大名へ 盛安が死去したとき、嫡子の政盛は六歳の若年であったため、盛安の遺志によって弟の光盛が家督を継いだが、かれも十五歳の若年であった。秀吉は盛安の功を認め、その遺領は光盛が無事相続することができた。こうして豊臣大名に列した戸沢光盛は、文禄の役に出陣することになり、肥前名護屋に向けて出発したが、その途上の姫路で疱瘡(天然痘)のため死亡した。享年十七歳だった。そのあとは盛安の子政盛が家を継ぎ、重臣の補佐をえて領国経営に専念した。 慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦には徳川方に属したが、東北の関ヶ原とよばれる上杉、最上の戦いには積極的に参加はしなかったようだ。これは、秋田・六郷の提携に対し、戸沢氏は最上氏と結んで対抗しようとしていたが、上杉氏に加担した小野寺氏を討伐することは、秋田氏の勢力拡大に弾みをつけるものとしてそれほど気乗りがしなかったためであるようだ。 いずれにしろ、関ヶ原の合戦は徳川方の勝利に終わった。その後、秋田地方の大名を待ち受けていたのは、永年住み慣れた秋田から常陸への転封であった。関ヶ原の合戦で中立的立場をとった常陸の大名佐竹氏が秋田に転封となり、それと入れ違いに、秋田氏、六郷氏、本堂氏、戸沢氏らは常州に転封となり、戸沢氏は茨城郡小河城に封ぜられ秋田地方を去ることになった。西軍に加担した小野寺氏は改易され、義道兄弟は石州津和野に流された。 ここに、秋田地方の戦国時代はまったく終熄し、時代は近世へと大きく動き出したのである。その後の宝永七年(1704)、戸沢氏は出羽国最上郡小田島庄新庄城六万八千石に転封となり、子孫封を継いで明治維新に至った。 ←戸沢氏へ ■参考略系図 |