|
吉良氏
●二つ引両
●清和源氏義朝流
|
戦国時代、土佐には「土佐の七守護」と呼ばれる諸豪族がいた。長岡郡岡豊城主長曽我部氏、安芸郡安芸城主安芸氏、長岡郡本山城主本山氏 、香美郡香宗城主香宗我部氏、高岡郡蓮池城主大平氏 、高岡郡姫野々城主津野氏、そして吾川郡吉良城主吉良氏の七家であった。『長元物語』には、「一条一万六千貫、津野五千貫、大比良四千貫、吉良五千貫、本山五千貫、安喜五千貫、香宗我部四千貫、長曽我部三千貫、以下八人の内、一条殿は別格、残て七人守護と申す」と記されている。
(注)
また、吉良氏といえば、「忠臣蔵」の吉良上野介義央が有名だが、土佐の吉良氏はまったくの別流である。とはいえ、吉良上野介の吉良氏も土佐吉良氏も、ともに清和源氏義家流であった。
土佐吉良氏は、「保元・平治の乱」に活躍した源義朝の子希義の子孫と伝えられている。希義の兄は源頼朝で鎌倉幕府を開いた人物であり、二人は熱田大宮司の女を母とする同母兄弟であった。父義朝は「平治の乱」に敗れて討死し、兄頼朝は伊豆へ、希義は土佐に流された。介良荘に住んでいた希義は、 治承四年(1180)、頼朝の挙兵を知りこれに応じようとしたが平家方の蓮池家綱・平田俊遠に襲われ、長岡郡の年越山で殺害された。
・注:「土佐の七守護」は、香宗我部氏に代えて山田氏を入れる説もある
吉良氏の発展を探る
かくして、土佐冠者源希義は源氏再興を目前にして討死してしまった。希義の遺体は、琳献上人が請い受けて葬り、のちに源頼朝に報告したことが知られる。中世の土佐にあらわれる吉良氏は、この土佐冠者源希義の子孫ということになっている。ちなみに『尊卑分脈』を見ると、希義の子に隆盛、孫に貞義が見えているが、その後の記載はない。
土佐吉良氏の歴史を記した『吉良物語』を見ると、希義は平田俊遠の弟三郎経遠の女のもとに通い、希義が討たれたあとに女は男子を生んだという。これを希義に心を寄せていた夜須七郎が聞き付けて、頼朝の高聴に達した。頼朝はこれをにわかに信じなかったが、のちに希義の子と認め、土佐郡吾川郡のうちに数千貫の土地を与えた。さらに、三河吉良庄に馬の飼場三百余貫を賜り、吉良八郎希望を名乗った。そして、吾川郡大野荘に吉良峯城を築城し、土佐吉良氏の始めとなったである。
以後、希仁、希綱と吉良峯城主として続いたが、幕府執権北条氏の権勢が盛んになるにつれ、吉良氏は次第に衰微し鎌倉末期には世系も不明という状態になった。やがて、元弘・建武の動乱に際して吉良希重があらわれ、土居・得能氏らとともに宮方に属して活躍した。ついで南北朝の争乱期には、細川氏に属して武家方として行動し、宣実の代に至って近隣に勢威を振るう存在となった。応仁・文明の乱にも細川氏に属して上洛、所々の戦いに参加したという。
このように「吉良物語」は、土佐吉良氏を清和源氏源希義の後裔として、戦国時代の駿河守宣直に至るまでの事歴を記している。しかし、吉良物語の記述は多分に潤色されており、そのままに受け止めることはできない。
ちなみに、吉良氏の出自に関して『土佐国編年紀事記』には「吉良平三尉」とみえ、吉良氏を平氏としている。さらに、『土佐史要』では「吉良物語という俗書により吉良氏を源希義の裔とすることが普通になったが、『土佐国編年紀事記』から推して吉良物語の説は疑わしい」と記されている。
源氏といい、平氏といい、いずれが吉良氏の出自なのか、その判断は難しいが、「棟札」を典拠にしたという『土佐国編年紀事記』の平氏説に歩があるのではないだろうか。また、いまに伝わる吉良氏の系図も世代数がいささか多いようで、こちらも信がおけないないものである。
国人領主に成長
ところで、吉良氏の系図をみると、初代の希義から南北朝時代の希定までは「希」の字を通字とし、希定のあとを継いだという弟の宣実以降は「宣」の字を通字としている。このことは、当時の武士の名乗りからみてまことに奇異な感じを抱かせる。「春野町史」では、南北朝期を境として宮方に属した希義系の吉良氏が衰微し、細川氏とともに入部した足利系の三河吉良氏の一族がとって代わったのではないかとの推理がなされている。
南北朝期から室町時代にかけて土佐守護職は細川氏が世襲し、守護領国制を展開し国人衆を被官として組織していた。応仁元年(1467)に応仁の乱が起ると、長宗我部・安芸・大平氏らが細川勝元に従って在京していたことが知られる。なかでも長宗我部氏は細川氏を後楯として、岡豊城を拠点に侮れない勢力を有していた。応仁の乱後、世の中は下剋上が横行する戦国時代となり、永正四年(1507)、土佐守護で幕府管領職にある細川政元が、家中の争乱から家臣によって殺害された。
この細川氏の内紛によって、細川氏の勢力は土佐から一掃され、にわかに群雄が割拠する情勢となった。翌永正五年、長岡郡本山城を本拠とする本山養明は、細川氏との関係により横柄な態度をみせていた長宗我部兼序を山田・大平氏らとともに攻撃、兼序を討ち取った。これに、吉良平三尉が大平氏に従って参加していた。平三尉の実名は分からないが、時代からみて宣通か宣忠であったかと思われる。
吉良氏が土佐の戦国領主として台頭してくるのは、宣経の代においてである。宣経は「吉良物語」に「人倫の重きこ所を知れる人」とあり、また領内の開発を進め、仁淀川に堤を築いて治水にもつとめた。宣経は戦国武将ながら、内治にも尽した名君であったようだ。さらに、宣経は「吉良条目」を定めたというが、それは内容などから後世の作と見られている。しかし、その原型となるものを宣経は制定していたようで、宣経が国人領主としてひとかどの存在であったことは認めていいのではないだろうか。
吉良氏の興亡
ところで、土佐南学の開祖と伝えられる南村梅軒は、吾川郡弘岡城主の吉良宣経に仕えたという。宣経が梅軒に道義の学や修養の方法について問うと、梅軒は儒禅一致の立場に立って儒教道徳を講説したという。しかし、梅軒の講説を理解しえたのは、宣経と従兄弟の宣義の二人だけで、宣経の子宣直は居眠りしていたという。
天文二十年(1551)に吉良宣経が死ぬと、宣直が家督を継承した。宣直は梅軒の講説に居眠りするだけに、凡庸な人物で政治も怠ることが多かった。翌二十一年には、梅軒も吉良氏のもとを去っていったという。一方、兼序の戦死後、一条氏の後押しで長宗我部氏を再興した国親は着々と勢力を回復していった。そのあとを継いだ元親は、さらに長宗我部氏の勢力を大きく広げ、ついに永禄六年(1563)、吉良氏は元親の攻撃を受けて滅亡した。
吉良氏が永禄六年に滅亡したとするのは「吉良物語」であり、諸史料、諸戦記とは一致しない。ちなみに「土佐国編年紀事略」によれば、永正十四年(1517)高岡郡の有力者津野元実が恵良沼の戦いで一条氏に敗れて戦死した。一方、本山氏が高知平野に進出して朝倉城を築き、吉良氏は一条氏と本山氏に挟撃される状態となった。
この情勢を打開せんとした吉良駿河守は一条氏に通じるようになり、ついに、本山氏は吉良氏攻撃を決した。そして、天文九年(1540)、駿河守が仁淀川へ狩猟に出たとの情報をえた本山茂辰は、軍を二手に分けて吉良峰城と仁淀川に向かった。城主のいない吉良峰城が落城し、仁淀川の駿河守宣直は応戦したものの敗れて討死した。ここに吉良氏は滅亡し、吉良峰城に入った茂辰は吉良氏を称した。
さきの吉良物語とくらべると十年以上の時間差があるが、土佐氏の所領であった弘岡村の荒倉神社の天文九年銘の棟札に「大檀越清茂」の名が残されている。清茂は茂辰の父であり、このことから吉良氏は天文九年以前に滅亡したとみて間違いないだろう。吉良氏が滅亡したことで、大平氏も勢力を衰退させ、土佐は西の一条氏、中央部を本山氏、長宗我部氏が割拠する、新たな勢力地図が現出したのである。
長宗我部系吉良氏
さて、由緒ある吉良氏の没落を惜しんだ長宗我部元親は、吉良宣直の娘を娶っていた弟親貞を吉良左京進と名乗らせ吉良家の名跡を継がせた。これは、「土佐の七守護」の一に数えられる名家である吉良氏を体よく乗っ取ったとも解されよう。
親貞は永禄三年の長浜の戦いに兄元親とともに初陣を飾り、以後、元親を援けて長宗我部氏の家運隆盛に力を尽した。親貞が吉良氏を名乗るようになったのは、本山氏が朝倉城を退去したあと弘岡村吉良の城主になったときで、永禄六年(1563)のことであったという。
永禄十二年、安芸氏を滅ぼした元親は、一条氏との戦いを展開するようになった。親貞は謀略をもって一条方の高岡蓮池城を攻略すると、蓮池城に移り高東・吾南を領した。そして、長宗我部氏が一条兼定を追放した天正二年(1574)には、一条氏の居城であった中村城の城主となり幡多郡の支配にあたった。しかし、それから三年後の天正五年、わずか三十六歳を一期として中村城で病死した。
土佐一国を統一し、四国制覇の戦いを進めようとしていた元親にとって、謀略の才に恵まれていた親貞の死は大きな損失であったと思われる。吉良氏の家督は、嫡男の親実が継承した。親実は父に劣らぬ勇猛な武将で、元親の四国制覇の戦いに参加して、天正十一年、讃岐国引田で豊臣秀吉麾下の仙石秀久と対戦した。親実は引田古城を守る秀久の軍勢を、散々に打ち破ったという。
長宗我部元親の四国制覇の野望は、豊臣秀吉の四国征伐に敗れて潰えた。秀吉に帰服した元親は、土佐一国を安堵されて豊臣大名に列した。
吉良親実の死
やがて天正十四年、大友宗麟の支援要請を容れた秀吉が九州征伐の陣ぶれを発し、長宗我部氏ら四国勢にも出陣の命が下った。豊後に渡海した長宗我部・十河氏らは、秀吉から付けられた軍監仙石秀久、大友軍と連合して島津軍と対峙した。
そして十二月、戸次川の戦いにおいて連合軍は潰滅的敗北を喫し、十河存保、元親の嫡男信親らが戦死した。元親は土佐に帰国できたものの、もっとも期待をかけていた嫡男信親の死により一挙に老け込んだという。信親の死後、元親は後継者を容易に決定しなかったため、長宗我部家中は元親後の家督をめぐって不穏な空気が流れるようになった。
『土佐物語』には、「家の惣領は、五郎次郎か、孫次郎たるべしといえども、彼等は素より他家を継がしめぬ。惣領の器にあらず。是に依って千熊丸(盛親)を家督として」と所存を問うた。信親を失ってのちの元親は往年の明敏さを失っており、幼少の四男盛親を偏愛していたようだ。
これに佞臣久武親直は真っ先に賛成し、元親の甥吉良親実、従兄弟比江山親興らは「長子不幸のときは、次男是に継ぐこと、道の常にて候へば、五郎次郎殿、一度香河に移り給ふといへども、彼家断絶の上は、今是を御惣領に立てられん事当然なり」と、正論をとなえて反対した。しかし、元親の後嗣には盛親が定められた。
家督相続において諌言を呈した吉良親実は、天正十六年(1588)、比江山親興とともに切腹を命じられた。この処分は人々の非難と無言の抗議をうみ、その後の長宗我部氏に暗い翳を落した。かくして、親実の死によって吉良氏の嫡流は滅亡となった。
ところで、江戸時代に村君、あるいは組頭として家串を支配してきた吉良家がある。この吉良家は清和源氏の末流であるといい、系図によれば親貞の二男親義を祖としている。その真偽はともかくとして、土佐吉良氏の名字をいまに伝えた家であるといえよう。・2005年4月14日
【参考資料:春野町史/吉良物語/高知県史 など】
■参考略系図
・「高知県史」に掲載された系図をもとに作成。「吉良物語」の記述を系図化されたもので、本文にも書いたように世代数が多い。兄弟・一族間で相続があったとも思われるが、それぞれの当主の事蹟を裏付ける史料も乏しく、このようなものもあるという系図であろう。
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
|
|
|