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服部氏
源氏車に矢筈/矢車
(称桓武平氏)


 伊賀国阿拝郡に服部郷がある。『延喜式』をみれば、阿拝郡に小宮神社ありと記されている。『伊賀考』には、「小宮は、服部氏の惣社にして、伊賀国二之宮」と云い、『三国地誌』には、「昔は服部の輩、阿拝郡を領地せる故に、服部の社もありと、永閑記に見ゆ。土俗なべて服部氏を秦人の裔となすは、非なり」とみえる。
 服部氏は、伊賀一洲に散在する豪族となった。『源平盛衰記』に平内左衛門尉家長が現われ、服部氏ではその名が最も高い。伊賀服部氏は家長を家祖とし、よって桓武平氏を称している。

●服部半蔵の活躍

 戦国時代、服部半蔵の名が知られているが、服部半蔵という人物は一人ではない。初代服部半蔵保長は、はじめ足利将軍義輝に仕え、石見守を称し、義晴を経て三河国に至り、家康の祖父清康・広忠に仕えたという。
 保長亡き後、家督を継いだのが、嫡子半蔵正成(まさなり)である。家康の独立後、遠州掛川城・高天神城攻略、姉川合戦などに従った。元亀三年(1572)三方ケ原合戦ののち、伊賀者150人を預けられた。天正七年、織田信長に疑われ、家康の嫡男信康が遠州二俣城で自刃したとき、介錯を命じられたが、「三代相恩の主に刃は向けられない」と落涙するばかりであった。そこで、変わって天方通綱が苦しむ信康の首を落とした。正成は無念の最後を遂げた信康の菩題を弔うため、のち江戸麹町に安養院を建立している。
 天正十年(1582)六月、本能寺の変が勃発する。家康は少数の家臣を従えただけで、伊賀を越えて三河へかろうじて帰国できた。このとき、家康一行を先導したのが正成であった。以後も小牧.長久手の役などで戦功を重ね、槍の渡辺半蔵と並んで「鬼半蔵」と称された正成は八千石を領した。小田原の役後、家康が関東入国すると、正成は与力三十騎・伊賀同心200人を支配し、慶長元年(1596)に没した。
 正成の嫡子正就は、与力七騎・伊賀同心200人を預かった。だが、正就は組下の同心を酷使して反感を買い、同心一同が寺院に籠るという不祥事を起こして、改易となった。正就はこれを恥じ、大坂夏の陣に加わり汚名挽回をはかったが討死した。そのあとを継いだ弟の正重は、舅の大久保長安事件に際し、進退が将軍秀忠の忌諱にふれ、慶長十八年に除封処分となった。結局、服部氏嫡流は改易処分となる。
 さきの正就の室は桑名藩主松平定勝の娘だったことから、息子たちは松平家に仕えた。定勝の息子の代に松平家は、松山、桑名、今治に分かれたことで、服部家の息子たちも三つの地に分かれて仕えた。



■参考略系図  
  


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