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多羅尾氏
●抱き牡丹/藤巴
●藤原北家近衛氏流
・『寛政重修諸家譜』には「大割牡丹」とあるが、本ページでは多羅尾にある多羅尾氏菩提寺─浄顕寺の紋に拠った。
 


 多羅尾氏は、近江国甲賀郡信楽荘多羅尾より起こった。信楽は十一世紀初頭に関白藤原頼道の荘園となり、その後、近衛家に伝領されたものであった。十三世紀の末ごろ職を辞した前関白近衛家基は信楽荘小川に隠居、永仁四年(1296)にこの地で亡くなった。家基の子経平も信楽荘に住し、多羅尾の地侍の娘との間に男の子をもうけた。その男子が多羅尾氏の祖という左近将監師俊で、はじめ高山太郎を名乗っていた。
 師俊は小川を中心として小川出・柞原と領地を広げ、さらに長野・朝宮まで領有、その勢力を信楽全体へと拡大していった。多羅尾氏の祖が近衛家の落胤とする確かな資料があるわけではなく、各地に流布する貴種譚のひとつと思われ、もとより信じることはできない。おそらく、近衛家との関係を梃子として信楽に勢力を伸ばした在地領主(土豪)の後裔であろう。

多羅尾氏、勢力を伸張

 多羅尾氏と並んで信楽に勢力を保っていた武士に鶴見氏がいた。「鶴見氏系図」によれば鶴見弾正左衛門長実が近衛家基に従って信楽に来住、嘉元三(1305)年に小川城を築いたとある。一方、平安末期より信楽にある興福寺領の下司職として小川東部に居住、鶴見伊予守道宗(定則)が正安二年(1300)に小川城を築いたとする説もある。
 南北朝時代を迎えると鶴見氏は南朝の味方して活躍、暦応三年(1340)、鶴見俊純は朝宮城を築き、山城国和束の米山一族との戦いを展開した。この戦いに多羅尾播磨入道は鶴見氏を後援、合戦は鶴見方の勝利となった。このことから、南北朝の争乱に際して多羅尾氏は南朝方として行動していたことがうかがわれる。以後、多羅尾氏と鶴見氏は拮抗するかたちで並立、小川の地の統治は交互に行われるということがつづいた。
 室町時代を迎えると守護大名の強大化から幕府の権威が動揺、さらに将軍後継をめぐる内訌が生じ、応仁元年(1467)、応仁の乱が起こった。乱の一方の主要人物である足利義視は伊勢の北畠氏を頼って京を脱出、多羅尾氏は信楽に入った義視を守護して伊勢に送り届けている。また、義視が伊勢から京に帰るときも多羅尾氏が道中の警固をになった。甲賀の地は伊賀を通じて伊勢に通じる道筋にあたることから、甲賀武士たちは中央貴族の往来を保護する任を担っていたようだ。
 応仁の乱がもたらした下剋上の風潮は、諸国の守護・地頭らが荘園の押領をうながし、貴族らの経済基盤はおおきく揺さぶられた。応仁二年、近衛政家が信楽に下向してきたのも、京の戦乱を避けることもあっただろうが信楽荘の経営安定と立て直しが狙いであった。政家を迎えた多羅尾玄頻はその接待につとめ、信楽荘の年貢公事等の徴収にあたるという契約を結んだ。かくして、多羅尾氏は、近衛家の年貢徴収役をあずかることで、地域に大きな基盤を築き、近衛家への公事徴収からの利益を得ることでさらに勢力を拡大していったのである。
 応仁の乱における近江は、佐々木六角氏が西軍、佐々木京極氏が東軍に味方してそれぞれ抗争を繰り広げた。多羅尾氏ら甲賀武士は六角氏に属して活躍、文明年間(1469〜87)になると六角氏と京極氏の対立はさらに激化した。文明三年(1471)の蒲生黒橋の戦いに参加した甲賀武士の多くが戦死した。
 応仁の乱より反幕府的姿勢を明確にする六角高頼は、自己勢力の拡張をめざして、近江国内にある寺社領、幕府奉公衆の所領を蚕食していった。幕府は再三にわたって六角高頼の行動を制止したが、高頼は幕命に応じることはなかった。高頼の態度に業を煮やした将軍足利義尚は、長享元年(1487)、六角高頼攻めの陣を起こした。いわゆる長享の乱で、高頼は居城の観音寺城を捨てて甲賀に逃走した。以後、幕府の大軍を相手に六角高頼はゲリラ戦を展開、そして、多羅尾四郎兵衛ら甲賀武士は将軍義尚の鈎の陣を夜襲する活躍をみせ、甲賀五十三士と称された。

表舞台への登場

 多羅尾氏と並ぶ信楽の有力武士であった鶴見成俊は将軍方に属したため、多羅尾氏は小川城を攻略、敗れた成俊は山城の椿井播磨守を頼って没落した。多羅尾氏家譜によれば、光教十二代の孫が光吉で、左京進・和泉守などを称し、永禄十一年(1568)に死んだとある。このことから、鶴見氏を逐って小川城主となったのは、光吉の父か祖父の代かと思われる。
 鶴見氏を逐って信楽の最有力者となった多羅尾氏は、近衛氏領である信楽の押領を繰り返すようになり、ついに明応十年(1501)、近衛氏は信楽郷を守護請として支配を放棄するにいたった。その後、多羅尾氏は伊庭氏の代官職管掌のもとで庄官を務め、近衛家領を完全に掌握し、名実ともに信楽随一の領主に成長したのである。
 光吉の子が多羅尾氏中興の祖といわれる四郎兵衛光俊(入道道可)で、光吉より信楽の領地七千石を受け継ぎ佐々木六角氏に属した。永禄十一年(1568)、六角氏が信長の上洛軍に敗れて没落すると信長に仕え、天正九年(1581)の伊賀攻めの陣にも参加した。ところが、翌天正十年(1582)六月、信長が明智光秀の謀叛によって、京都本能寺において生害した。
 本能寺の変に先立って信長に招かれ安土で響応を受けた徳川家康は、変の時、和泉国堺界隈を遊覧しているところであった。信長死去のことを聞いた家康は、ただちに京師に馬を進めんて光秀を征伐せんとした。しかし、家臣らは寡兵の故もあって家康を押し止め、まずは本国三河に帰って兵を整えることを説いた。しかしこのときすでに、海道筋は明智方が押さえるところとなり、家康主従は長谷川秀一を先導として大和路より山川を経て漸く近江路へと落ちていった。
 ちなみに、家康と同じく信長に招かれていた穴山梅雪は、事変当時、家康とともに和泉方面にあったが、家康主従と別行動をとり、結局野伏に殺害されている。いいかえれば、家康っまた非常に危険な状況に身をおいていたのである。
 長谷川秀一は、以前より交流のあった田原の住人山口藤左衛門光広の邸に一行を案内した。光広は多羅尾光俊の五男で、山口家を嗣いだものであった。光広は家康一行を迎え入れ、このことを父光俊に急報した。光俊は嗣子光太とともに、光広の邸に急行し、家康に拝謁して改めて信楽の居宅に家康主従を迎え入れた。光俊は嗣子光太、三男光雅、山口光広らに従者五十人、さらに甲賀の士百五十余人をそへて家康を護衛、伊賀路を誘導した。そして、伊勢国白子の浜まで家康主従を無事送り届けることに功をなした。

栄枯盛衰を味わう

 山崎の合戦後、織田家中に勢力を伸ばす秀吉に対して、北陸の柴田勝家や信長の三男・信孝と滝川一益らが反秀吉の姿勢を示した。この情勢を察した秀吉は、柴田勝家が雪に閉じ込められている間に伊勢の一益と岐阜の信孝をたたこうと計画、大軍を近江国・草津に集めた。一方、浅野長政に山城国から信楽、伊賀に出て、柘植から加太越えに一益の亀山城を攻めるよう命じた。
 この長政軍の前に立ちはだかったのは多羅尾光俊で、四男光量の拠る和束の別所城に攻め寄せた長政軍を光俊は夜襲で撃退した。敗れた長政は力攻め愚をさとり、光俊に和睦を申し入れ、一人娘を光俊の三男光定の嫁にする条件で和睦は成立した。かくして、多羅尾光俊は秀吉に従うようになり、天正十四年頃には、信楽を本領に、近江、伊賀、山城、大和に八万石余を領する大名となったのである。
 やがて、豊臣秀吉が天下を掌握すると、秀吉の養子秀次が近江四十三万石を与えられ、近江八幡に城を築いた。近江の太守となった秀次は領内の視察を行い、多羅尾城にも立ち寄った。光俊らは一族をあげて秀次を歓待、その場に光太の娘万も連なった。万を気に入った秀次は、光俊・光太に万をもらいうけたいとの申し出を入れ、光俊・光太らは万を秀次のもとに差し出した。のちに、これが災いして多羅尾一族は没落の憂き目にあうことになる。
 天下人となった秀吉は朝鮮への出兵を行い、その留守を秀次に命じた。秀次は京都の聚楽第に住して、国内の政治にあたったが、次第に残虐な行為を募らせるようになり「殺生関白」のあだ名をつけられた。その背景には秀吉に実子が生まれたことに対する我が身の不安、秀吉の吏僚である石田三成らの策謀があったといわれる。文禄四年(1595)七月、秀吉は秀次を高野山に追放、さらに切腹を命じ、秀次の首を三条大橋西南の加茂河原にさらしたのである。さらに、翌八月には秀次の妻・子供、側室らをことごとく処刑した。そのなかには多羅尾光太の娘お万の方も含まれていた。
 この秀次粛正事件により、秀次と関係があったという理由で光俊をはじめ多羅尾一族はことごとく改易の憂き目となった。光俊は光太とともに信楽に蟄居、雌伏のときを強いられたのである。


多羅尾氏の歴史を訪ねる

鎌倉時代の末期、近衛家基と子の経平が隠棲したと伝える信楽町小川にある大光寺、寺紋は近衛家に縁の牡丹紋であった。境内後方の裏山には家基・経平と経平の子で多羅尾氏の祖という高山太郎師俊の墓碑が並んでたっている。小川の地には戦国時代に多羅尾氏が拠った小川城址、西の城、中の城などの城砦の跡が存在している。

→ 小川城址に登る

江戸時代のはじめより明治維新まで多羅尾氏が世襲代官をつとめた多羅尾陣屋跡、いまもご子孫の方がお住まいで、石垣の撮影までを許していただいた。多羅尾代官所の近くには高山太郎師俊ゆかりの里宮神社、多羅尾氏の菩提寺の浄顕寺などが散在、浄顕寺の寺紋は多羅尾氏にちなむ「抱き牡丹」である。信楽の郷の南部を訪ね歩くと、そこかしこに多羅尾氏の名残を感じることができる。



近世に生き残る

 慶長三年(1598)、秀吉が死去した。豊臣家の今後のことを議するため大坂城に入った家康は、伊賀越のときに世話になった多羅尾光俊の近況を調べさせ、苦しい生活を送っていることを知った。家康は光俊・光太らを召し出すと、当座の手当てとして二百人扶持を与え旗本に取り立てた。同五年、光太は上杉景勝征伐に随行、つづく九月に起った関ヶ原の合戦にも参加、戦後、代々の領地であった信楽七千石余を与えられた。その後、光太は大坂両度の陣にも一族とともに出陣し、徳川幕府体制下における地位を確立したのである。
 光太のあとを継いだ光好は、寛永十五年(1638)、江戸に呼び出されて代官に任命された。そして、屋敷内に「代官信楽御陣屋」を設けるよう命じられた。御陣屋は近畿地方の天領を治める役所であり、一般に多羅尾代官所とか、天領信楽御役所と呼ばれた。 以来、多羅尾氏は江戸時代を通じて信楽のほか近江甲賀、神崎、蒲生三郡と美濃、山城、河内の国々の天領代官に任じられ、最盛期には十万石余を治める、全国代官所中の首席となった。
 多羅尾家の家紋は、近衛家ゆかりの「牡丹」紋であった。そのほか、「藤巴」「牡丹菱」なども用いていたことが知られている。・2008年04月18日

参考資料:信楽町史/多羅尾の歴史物語/甲賀郡誌 ほか】



■参考略系図
・「姓氏家系大辞典」の多羅尾氏系図、「寛政重修諸家譜」の多羅尾氏系図などより作成。


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