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荒木氏
●三つ柏/牡丹/山吹
●藤原北家秀郷流?
系図によれば氏綱は今出川氏より「三つ柏」紋を賜ったとあり、園部藩分限帳にみえる荒木氏は 「本国丹波 山吹」と記されている。一方、伊丹城主荒木氏は牡丹紋であった。
 


 丹波の戦国時代、口丹波に内藤氏、奥丹波に赤井氏、そして中丹波にあたる多紀郡に波多野氏がそれぞれ割拠していた。そして、波多野氏が拠った高城山八上城を中心として、多くの城塞が多紀郡一帯に築かれていた。その一つとして、篠山市東本荘にある雲部車塚古墳の東方の山に築かれた細工所城が知られる。細工所城は、八上城主波多野秀治に属して「波多野氏旗頭七人衆」の一人と称された荒木山城守氏綱(氏香とも)の居城で、荒木城とも井串城とも呼ばれる。山城守氏綱は「荒木鬼」の異名をとる猛将で、天文年間末期(1532〜55)には、篠山の北方に位置する園部城も支配下におく丹波の有力者であった。
 細工所城は、摂津池田を発して篠山を抜けて綾部に通じる幹道である国道173号線の細工所交差点の東南目前の山上にあった。城址に登ると西方に波多野氏の居城八上城が遠望でき、京から丹波に侵攻する敵軍を迎え撃つには格好の地であったことが実感できる。本丸は意外に広く、帯郭がめぐらされ、内堀・外堀、堀切の跡が遺っている。伝えられるところによれば、大手門は縦六メートル、横十六メートルという堂々たる構えで、七つ谷、馬の背などと呼ばれる多くの谷や峰が続く要害堅固な城であったという。
■ 丹波七頭
赤井景遠・荒木氏綱・江田行範・大館氏忠・久下重氏・小林重範・長沢義遠の七人をいうが、その実態は不明。おそらく軍記物語など創出されたものであろう。

荒木氏の発祥

 丹波荒木氏の出自に関しては不明点が多いが、一説に伊勢・志摩国の荒木郷富屋から出たと伝えられている。『多紀郡郷土史話』では澤山氏系図を拠り所として、丹波荒木氏を藤原秀郷の後裔としている。すなわち秀郷の子千晴の子千元は齋田を名乗って源満仲に仕えた。孫の長氏は源頼義に従って奥州に下り阿倍貞任を誅し、宗任を捉えて京都に凱旋した。いわゆる前九年の役における戦功によって、志摩国を賜り、富屋城に拠った。富屋城は荒木郷にあったことから、以後、荒木を名字とするようになったのだという。
 やがて、室町時代中期の寛正年間(1460〜66)にいたったとき、伊勢新九郎長氏が志摩国に乱入、富屋城は落ち、荒木一族は離散の運命となった。生き残った荒木隼人正治尊は遠い一族にあたるという八上城の波多野氏を頼って丹波へ来住した。そして、その子荒木山城守氏香が京街道の要衝で多紀郡の東部を押さえる細工所に城を築いて拠ったのだという。
 一方、園部に伝わる丹波荒木氏の系図によれば、荒木氏は鎮守府将軍藤原利仁を祖とし、基定の代に荒木を称したという。系図の所伝は一種の家系伝説と思われ、おそらくは丹波国天田郡荒木邑から起った土豪であろう。南北朝時代、荒木氏は丹波守護仁木氏に属し、四条畷の合戦において戦死した。その後、丹波守護に山名氏、ついで細川氏が補任されると、山名氏、細川氏と帰属を変えていった。やがて応仁の乱を経て細川二流の乱が起ると、又太郎基氏は細川澄元に従った。基氏の子彦八郎氏定は細川高国に仕え、高国が滅亡したあとは丹波の雄に飛躍した波多野稙通の麾下となった。
 氏定は八上城の北方の守りに任じて園部城を築き、桐の庄を押領しようとしたことが当時の記録から知られる。氏定のあとを氏綱が継承し、ついで久左衛門氏兼と続いた。園部の生身天満宮に残る天正三年(1575)の禁制札には久左衛門の署名が残されている。これらのことから、荒木氏は丹波国から発祥して、戦国時代末期においては園部を中心に活動していたことがうかがわれる。
 他方、江戸時代に編纂された武家系図集『寛政重修諸家譜』には、波多野兵部少輔氏義が京都府天田郡荒木村に住んで荒木氏を称したと記されている。また、織田信長に叛乱を起して没落した摂津伊丹城主荒木村重の一族ともいわれる。文字通り、諸説紛々といった状態で、丹波荒木氏の出自は不明というしかないようだ。

さらに、荒木氏を考察

 ちなみに、伊勢・志摩発祥説によれば荒木氏は細工所城を本拠として支城・出城を構え、南方の栃梨砦には治尊の弟荒木安芸が拠ったという。安芸は大永年中(1521-28)桂川の戦いに戦死したといい、氏綱も大永七年(1527)の桂川の合戦*で戦死したと伝えている。これを信じるならば、園部城に拠っていたと思われる氏綱の息氏香が、天文年間末期に南方の篠山に進出、細工所城に拠ったのであろうか。
 丹波荒木氏において、山城守氏綱がもっとも有名な人物であろう。しかし、その実像を探ろうとしても、経歴や事歴は諸書によって一定しない。先の澤山系図においては、氏綱を隼人正治尊の弟している。一方、治尊の子という兵部少輔氏好の父を氏綱とする説、さらに治尊のあとを継いだという氏香(氏好と同一人物か)と氏綱を同一人物とする説などがあり、まことにその存在は茫洋としたものである。
 荒木氏が拠った細工所城址は、そこに荒木氏が存在したことをいまに伝えている。そして、明智光秀との戦いの跡もたどることができる。間違いなく、荒木氏は戦国乱世の丹波を生きた武人一族であった。しかし、中世の荒木氏の軌跡をたどることは、いまとなっては困難というしかない。
 歴史は勝者として生き残ったのが伝えたものが主体であり、没落した家の歴史は正確に伝わらないことが多い。 また、敗者は勝者に遠慮をして、自家の歴史を曲げて伝えた例も多い。丹波荒木氏も戦史に名を残したとはいえ、 乱世の荒波を受けて伝来の文書などを散逸、家の歴史を正しく伝えられなかったものであろう。
■ 桂川合戦
細川高国と細川澄元の抗争は澄元の死によって高国政権が安泰を見せたが、大永六年(1526)、高国は身内の讒言を信じて、自派の有力者香西元盛を生害させた。これに怒った波多野氏、柳本氏らが、澄元の子晴元に通じて高国から離反した。翌年、上洛した晴元の重臣三好氏と波多野・柳本連合軍と高国との間で桂川合戦が行われ、敗れた高国は将軍義晴を奉じて近江に奔った。『多紀郡郷土史話』によれば、荒木氏綱は波多野氏と敵対していた関係から、細川高国方として出陣、討死したという。

 
細工所城に登る



細工所交差点を右折して左手の山を見れば、そこが細工所城跡の山である。落ち葉に埋もれた山道を、喘ぎながらひたすら登ると細工所城址へ。 本丸跡は思いのほか広く、曲輪や土塁、堀切が散在している。本丸跡からは遠くに波多野氏の居城八上城址が望め、細工所城が波多野氏の前衛の任を担っていたことが実感できる。山麓には荒木一族の古い五輪塔があり、いまも子孫の方が参られるという。城跡から少し歩くと菩提寺であった瑞祥寺にたどりつく。無住というがきれいに片付けられた境内に、那須与一大権現が祀られ、 墓地には荒木氏、澤氏などの墓石が佇んでいた。

→篠山の山城探索


戦国乱世の終焉

 戦国末期の丹波には、黒井城に拠る赤鬼赤井悪右衛門直正、籾井城に拠った青鬼籾井越中守が有名だが、細工所城主山城守氏綱(氏香)もまた荒木鬼と恐れられた武将であった。
 天正三年(1575)、丹波攻略を決意した織田信長は明智光秀に命じて丹波に進攻させた。荒木氏は波多野氏に属して明智勢と戦い、丹波勢は一度は明智勢を追い落とす勝利を得た。しかし、天正五年、明智軍の丹波再攻が始まると、籾井氏の拠る安口城・籾井城(安田城)が落城、明智軍は山沿いと西側の両方から細工所城へ攻め寄せた。荒木勢は果敢に抵抗をしたものの、明智軍の猛攻の前についに降伏、氏綱(氏香)は東本荘の館に引き籠もったと伝えられる。壮絶な戦闘の様子は「井串極楽、細工所地獄、塩岡(しょうか)岩ヶ鼻立ち地獄」の俗謡によって、いまに伝えられている。
 織田信長は荒木氏綱の勇を惜しみ、氏綱に明智光秀の家来になるよう薦めたという。しかし、明智方に一族や家来を殺された氏綱は、明智への仕官をことわり東本荘の館に隠退、代わりに自分の息子荒木氏清を明智光秀に従わせた。天正七年、明智光秀の八上城総攻めに際して、氏綱は神尾山(本目)城主の野々口西蔵坊とともに八上城に赴いて旧主波多野秀治に降伏を説いたと伝えられる。
 六月、八上城は落城し、波多野氏は滅亡した。以後、丹波は明智氏の支配するところとなった。ところが、天正十年(1582)、謀叛を企てた光秀は京都本能寺に織田信長を攻めて討ち取った。本能寺の変と呼ばれる事件で、荒木氏清はじめ一族は光秀に属して行動した。そして、明智光秀と羽柴(豊臣)秀吉が雌雄を決した山崎の合戦に出陣、戦死したとも、瀬田や大津で戦死したともいわれる。いずれにしろ、光秀が滅亡するとともに荒木氏も没落の運命となったのである。・2007年10月30日
・掲載家紋:瑞祥寺の境内にある荒木氏の墓石に刻された「牡丹」紋。

【参考資料:広報/あやべ・多紀郷土史考・多紀郡郷土史話 ほか】

・伊丹有岡城主─荒木氏にリンク


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■参考略系図
東京大学史料編纂所データベースの「荒木姓系図(上巻),沢山姓家系(下巻)」から作成。いわゆる丹波荒木氏直系の子孫という澤山氏に伝来した系図であるが、戦国時代以前の記述はそのままには受け取れないものである。すなわち、細工所の荒木城は治尊の子氏香が築いたものとい、氏香のあとは氏綱が拠ったという。氏綱は治尊の弟で氏香の叔父にあたり、継承順序としては納得できない。また、澤山系図では荒木氏綱の子氏好〜氏芸までの世代が多く、氏好・氏照・氏政・経氏・氏芸は兄弟との説からもうなづけない。一方、園部にある生身天満宮には氏綱の子、久左衛門氏兼が出した「天満宮制札」が残り、府指定文化財に指定されている。さらに、氏綱の子山城守氏清は光秀に仕え、山崎の合戦に天王山で討死したと伝えられている。これら荒木氏のさまざまな歴史、伝承を整合することは、いまとなっては不可能というしかなさそうだ。

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