荒木氏
牡 丹
(藤原北家秀郷流) |
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荒木氏の家系は藤原秀郷流で伊勢荒木田氏の一族との説もあるが、『荒木略記』には、丹波波多野氏の一門で村重の祖父高村が摂津川辺郡小部庄に移り住み、池田城の池田勝正に仕えるようになったという。丹波と摂津とは関係が深く、荒木氏の丹波出身は有り得ることである。
村重もはじめ池田勝正に属した。勝正は上洛した織田信長に降伏し、その翌永禄十二年(1569)、足利義昭が京都で三好三人衆に攻められた時は、村重は勝正とともに義昭を救援した。しかし、これを契機に池田氏の内紛が表面化し、それに乗じて村重は次第に台頭した。
天正元年(1573)、足利義昭が信長に対して挙兵すると、村重は信長方の立場を鮮明にして高槻城を奪い、ついで茨木城の守将となり、さらに信長に従って義昭攻撃に参加した。この功によって信長から摂津一国を与えられた。
勢いにのった村重は、翌年、旧主勝正を高野山に追放してその家臣を吸収し、さらに義昭方についた伊丹城城主伊丹親興を追放、信長の命で伊丹城を有岡城と改名して、城主となった。池田氏の一家臣から、数年の間に摂津一国の支配者になりあがった。
その村重が、天正六年信長に反逆する。その背景には、畿内方面の複雑な軍事・政治情勢があった。村重は籠城十ケ月ののち有岡城を脱走、残された妻子や城兵の多数は信長に虐殺された。村重は毛利氏のもとに亡命、ついで出家し、晩年は堺に住んで茶の湯で名をなし、豊臣秀吉にもお伽衆として仕えた。その後、村重は機会を得て旗本となったが罪を得て、絶家となった。
村重の一族で村重のために花隈城を守った荒木元清の後裔が旗本として残った。元清、その子元満はともに馬術の達人で、孫の元政も馬に関して徳川将軍家に用いられた。元政のとき、上総に知行千五百石を得、のち下総に采地替えとなった。浅野長矩の刃傷事件で赤穂藩が改易となった時、城受取使として赤穂に赴いている。
・写真:有岡城址
→ 有岡城址を歩く
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丹波細工所─城主荒木氏 にリンク
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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