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石見高橋氏
●大の字
●紀氏の後裔/大宅氏族ともいう
大の字の図柄は「見聞諸家紋」に記された高橋氏のものから作成。
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高橋氏は現在の島根県邑智郡阿須那に藤掛・鷲影の両城を築いて、戦国時代には安芸・石見にまたがる地域を支配する国人領主であった。『本城系図』などによれば、大納言紀舟守の後裔で、紀党の祖となった清主の子孫という。清主の子光任以下三代は、源頼義・義家に従って「前九年・後三年の乱」に活躍し、光延のとき橘浄野との縁によって駿河国高橋・油比、西山の領主となり、その子光盛が高橋氏を称したという。
一方、『古代氏族系譜集成』に収録された「高橋氏系図」は、大宅氏の流れとなっている。高橋氏の惣領は「大九郎」を名乗り、その家紋は『見聞諸家紋』に「大の字」と見え、「大宅氏 」と注されている。これらのことから、高橋氏は大宅氏の後裔とする説の方がうなづける。
さて、高橋氏は光盛、盛貞を経て光国のとき、橘氏ゆかりの地備中高梁に移封された。光国は元弘の動乱に遭遇し、足利尊氏らによって六波羅探題が陥落したとき、光国と時任・仲光の父子三人は、探題北条仲時に従って敗走、近江の番場において自害した。ひとり光義だけが備中にあり、南北朝時代、足利尊氏に属して戦功を挙げ、感状を拝領するなどして勢力の回復に努めた。
高橋氏の勢力伸長
正平五年(1350)、尊氏は石見の宮方を討つため高師泰を派遣し、中国の諸将にこれを援けさせた。師泰は備後の山内氏、安芸の毛利・長井氏らを味方に引きいれ、佐波顕連が拠る佐波郷に攻め込んだ。この陣に光義の子師光が参加し、困難な撤退作戦を成功させて播磨に帰り、のちに邑智郡阿須那三千貫を与えられた。
ところが、ほどなく「観応の擾乱」が勃発し、直義と対立して敗れた高一族が失脚、殺害されてしまった。高氏に近かった師光は備中高梁松山城を逐われ、山陰の僻地邑智郡の阿須那に転封されてしまった。これにより、高橋氏は幕府と対立する直冬の勧誘に応じ宮方に転向した。
高橋氏は出羽の田園地帯への進出を企図し、康安元年(1361)、高橋師光・貞光父子は直冬の命に応じて出羽に進撃した。この高橋氏の侵攻に対して、出羽実祐はこれを迎え撃ち、以後、半年余にわたって出羽攻防戦が続けられた。武家方の石見守護荒川詮頼、小笠原長義らが出羽方に助勢しようとしたが、高橋氏はこれを抑えて、ついに出羽実祐を討ち取り出羽の地を掌握した。
その後、出羽氏の失地回復運動が続き、それは、荒川詮頼が守護の時代、大内義弘が石見守護になった時代を通じて執拗に繰り返された。明徳三年(1392)、南北両朝の合一がなり、高橋・出羽氏の領地紛争も義弘の調停によって解決をみせた。すなわち、出羽領七百貫のうち、高橋氏から出羽氏へ二百五十貫を返還させ、出羽氏を出羽の宇山に居城させるというものであった。
しかし、出羽氏にとって出羽郷一円の奪還は悲願となり、それは毛利氏が台頭し高橋氏が没落するまで続けられた。
芸石にまたがる国人領主に成長
室町時代はじめの応永二十六年(1419)、毛利氏で惣庶間の紛争が起り、高橋氏は宍戸氏、平賀氏とともに紛争の調停に立っている。ついで、宝徳二年(1450)、吉川経信と綿貫左京亮が合戦したとき、高橋光世が小早川熈平とともに使者に立つなど安芸国における高橋氏の活動が知られる。また、備後国においても、永享十二年(1440)の海裏(うっと)荘地頭八幡神社の棟札に「高橋式部大輔泰光」と見え、これは、高橋氏が山名氏守護代犬橋氏の代官職であった関係で署名したものである。高橋氏が安芸・備後の守護であった山名氏と結んで、勢力を拡大していった様子がうかがわれる。
一方、文明十八年(1476)、高橋命千代は益田氏との間で契約を取り結んでいる。また、それ以前の文明三年、周布・小早川・三隅・吉川・吉見氏ら芸石の国人領主らから、武田元綱が西軍の大内方に転じた際に、高橋氏が幕命に応じなかったことを将軍に報告されている。このことから、高橋氏が西軍に転じたことが知られる。
さて、益田氏との契約において、命千代が幼いため「同名被官者共」ら高橋一族十六名が加判して盟約を確認している。加判した高橋一族の名字を見ると、与次郎清光、山城守光直のほか、口羽・雪田・長田・上出羽・下出羽・生田・北・横田らが確認できる。これらの名字は。石見から安芸にかけて点在する地名であり、高橋氏の惣領が領内の各地に割拠して、宗家高橋氏を中心とした惣領制を構成していたことが分かる。すなわち、高橋氏は芸石両国にまたがって一円的領域を形成し、惣領・庶子による連合的形態をとっていたのである。
他方、雪田・長田・北などは、江戸時代において鑪(たたら)・鍛冶屋が分布していて、それは中世においても同様であったと思われる。高橋氏は、砂鉄の生産地を領内に有して、おそらく高い生産性を誇っていたものと思われる。そして、その所領規模と鉄の生産性などは、毛利氏などをはるかに上回るものであったと推測される。
永正七年(1510)にも高橋氏と益田氏は五カ条の契約を行っている。これは、高橋元光と益田宗兼とが結んだもので、大内義興に従って在京しているときに行われたようだ。ついで、永正九年、安芸の国人領主九人が一揆契状を結んだが、毛利興元、小早川弘平、吉川元経らとともに高橋大九郎久光も署名している。このころ、さかんに国人領主たちの間で一揆契状が結ばれたが、高橋氏は所領・立場ともに、安芸・石見の国人領主のかなめに位置していたのである。
波乱の予兆
戦国時代における高橋氏の所領は、石見国邑智郡の阿須那・出羽、安芸国の北半分、山県郡の東部にまで及び、「三歳子牛の毛数ほど人数持ちたり」と称されるほど強大なものになっていた。さらに高橋氏は近隣の諸勢力との間に婚姻政策を展開し、久光の女は毛利興元に嫁いで幸松丸を生んでいた。
永正十年、高橋元光は領境を接し永年紛争を繰り返している三次畠敷の比叡尾城主三吉氏を攻めた。ついで、永正十二年にも三吉方の支城加井妻城攻めを行い、その攻撃中にまさかの戦死をしてしまった。この元光の戦死は、強大を誇っていた高橋氏にとって最初にして最大の躓きとなり、高橋氏が戦国大名に飛躍出来なかった要因となった。
この元光の戦死には不可解なところが多く、背景には高橋氏の打倒を企図する毛利元就の謀略があり、高橋氏の家臣のなかには毛利氏の調略を受け入れていた者もあったようだ。いずれにしても、元光の討死は「黒い霧」に被われている。嫡男元光の戦死により、久光は次男重光(弘厚)の子で孫にあたる興光を後嗣とした。これには家中の反対もあったようだが、大内義興の安堵も得て、久光は興光を本拠藤掛城に入れ、重光を後見役として松尾城に拠らせた。さらに興光の弟忠光を高田郡生田城主とし、毛利氏に対抗させていた。
永正十三年、毛利興元が病死すると、久光は興元のあとを継いだ幸松丸の外祖父としてその後見役に乗りだし、毛利家中に睨みをきかせた。興元の弟元就も幸松丸の叔父として後見の役にあったが、久光を前にして発言権はなかったようだ。
永正十四年十月、武田元繁が有田城を攻め「有田合戦(有田中井出の合戦)」が起こった。元就は吉川氏の助勢を得て勇将元繁を討ち取る勝利を得て、その存在と武名を近隣に轟かせた。その後、元就は吉川興経の女を娶り女子をもうけた。元就と吉川氏の接近を警戒した久光は、元就の娘を養女にむかえたが、それは体のいい人質であった。
大永元年(1521)の夏、隠居の身であった高橋久光は備後比叡尾山城主三吉隆亮の支城加井妻城攻めを行い、その攻撃中に戦死をしてしまった。(「陰徳太平記」によるが、さきの元光の一件と混乱しているようだ)高橋氏はにわかに危機に直面し、一方の毛利元就にとっては厄介な存在が消滅したことになった。以後、高橋氏は元就の攻勢にさらされることになる。
■久光と元光の事歴は史料によって混乱を見せており、ここでは発信者がそれぞれの情報より取捨選択したものを文章化した。
■文中系図::『邑智町誌』にみえる高橋氏系図の部分(一部加筆)
毛利元就の攻勢
大永三年七月、毛利幸松丸が病死し、毛利宗家の家督を元就が相続した。元就の相続後、尼子経久が元就の弟元綱をたてようとする謀略が進めたが、元就は元綱とその与党を誅殺して事を未然に防いだ。この一件に高橋氏も一枚噛んでいたようで、元就は家中の統制に成功すると、高橋一族の抹殺を考えるようになった。
元就は元綱の事件があったのち尼子氏から離れ、大内氏に属するようになった。一方、高橋興光は佐波氏、出雲の赤穴氏らと連携しつつ尼子方に親近していた。その姿勢は、元就が大内氏に転じたあと、さらに接近する様子をみせた。
元就は高橋氏の姿勢を大内氏を裏切るものとして、享禄元年(1528)、大内氏の命を受けることなく高橋重光の居城松尾城を攻撃した。元就の松尾城攻撃は高橋氏に深刻な打撃を与え、一層、尼子方への傾斜を深めた。その後も元就の攻勢は続き、享禄三年、生田に侵出した元就は松尾城を攻めるとともに、高橋領の山県郡北方にも侵入した。そして、大内氏の部将弘中隆兼、備後和智城主の和智豊郷らの助勢を得て、松尾城を落し城主重光を討ち取った。ついで元就は、高橋氏の惣領である興光を調略によって葬り、生田城も攻略して高橋氏を滅亡に追い込んだのである。
この一連の出来事は、『芸侯三家誌』『陰徳太平記』『吉田物語』などの軍記物、『高田郡誌』『邑智町誌』などの自治体史に記載されているが、それぞれ記述に異同があり、いずれが真実なのかは分からない。共通しているのは、元就が得意の調略によって高橋一族に内紛を起こさせ、自滅に追い込んだことである。
毛利元就は戦国武将として、領地の拡大を企図し、高橋氏の隙あらば所領乗っ取りを目論んでいた。ところが、興光は武将として優れたものをもっていたようで、高橋氏の領地と弱体化をねらう毛利元就としては、毛利氏発展のためにも謀略をもって興光を除く決心をしたようだ。そして、興光の一族で鷲影城主の高橋弾正左衛門盛光に調略の手を伸ばした。
高橋氏の没落
元就が謀略の手を伸ばしつつあるとき、興光は祖父の仇でもある備後三吉氏を攻略するため出陣、三吉方の入君城を落して凱旋した。元就に唆された盛光はその途中を待ち伏せ、興光の軍が軍原(いくさばら)にさしかかったところを不意討ちし、興光を討ち取った。興光を討ち取った盛光は、その首をもって生田に陣していた元就のところに出頭した。これに対して、元就は盛光を不義者とののしり、その首をはねて討ち取ってしまった。元就の謀略に乗った盛光は、元就に使い捨てられたのであった。
ちなみに、盛光の父清光は久光の弟で盛光が幼いころ亡くなったため、久光が引き取って興光と兄弟同様に育てた。そして、盛光の妻は興光の妹であったとも、興光の妻が盛光の妹であったともいわれ、一族のなかでも近い関係であった。しかし、戦国時代にはそのような関係もはかないものであり、結局、高橋氏は毛利氏の謀略に踊らされて滅亡の運命となった。
こうして高橋氏を滅ぼしたあと、元就は安芸・石見にまたがる広大な領地を手に入れて、石見・出雲進出への足掛りとし、戦国大名への途を開くことができた。高橋氏嫡流滅亡後は、庶流家が毛利氏の部将・出羽氏に属し、関ヶ原合戦後の毛利氏国替えにあたって、大林郷に郷士として土着、江戸時代は大林の庄屋として続いたという。 ・2005年6月8日
【参考資料:羽須美村誌/毛利元就の生涯 など】
■参考略系図
・『古代氏族系譜集成』に掲載された「大宅姓高橋氏系図」を底本に、『羽須美村誌』の記述・系図、『姓氏家系大辞典』の「石見高橋氏」の記述などを併せて作成した。「応永の乱(1399)」に出陣したという大九郎貞光と戦国時代の備中守久光との間が、朝貞一代というのは代数に欠があることを感じさせる。少なくとも三世代ほど欠けているのではないか?本文中にも略系図を挿入したが、久光、元光、盛光あたりの関係も明確ではない。
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