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平子氏
●丸に三つ引両
●桓武平氏三浦氏族
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鎌倉幕府の事蹟を記した『吾妻鏡』を見ると、武蔵国の武士平子氏の名が散見している。元暦二年(1185)の条には、平子有長が頼朝の推薦をまたずに任官したので勘気を被ったとみえ、建久元年(1190)の頼朝の上洛に際しては随兵のなかに平子太郎が参加したことが記されている。ついで建久四年、富士の巻狩において起った「曾我兄弟仇討」に際して、平子右馬允有長が曾我祐成らのために傷を負ったが、敵と最初に太刀を合わせた勇者として名を残した。
平子氏の登場
平子氏は相模国の豪族三浦氏の一族で、平安後期に武蔵国久良岐郡に進出した三浦為長の子次長(通継?)が久良気(久良岐)三郎を称し、叔父の景通は平子民部大夫を号している。次長が久良気を称したことは、久良岐郡の大部分を治めていたことを想像させるものである。
平子氏の名字の地となったのは久良岐郡内の平子郷で、久良岐郡衙の管轄地のひとであったようだ。
平子氏と関係の深い堀ノ内宝生寺に伝えられた文書によれば、郡内の地名には石川・禅馬(磯子)・
戸部・永田・根岸・本牧・蒔田・横浜などの名があり、横浜の文字の初見は宝生寺文書の記述が最初である。
治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げのとき、久良気三郎次長の曾孫にあたる平子弥平右馬允有長は宗家の三浦氏に加わって頼朝のもとに馳せ参じ、三浦氏の推挙を受けて御家人となった。以後、源平合戦に出陣し、平家追討に功があった。有長は出陣にあたって磯子の真照寺を再興して平子一族の菩提寺とし、毘沙門堂を建立した。毘沙門堂に祀られた毘沙門像は、有長の影像といわれ今も真照寺に安置されている。
鎌倉御家人となった平子有長は、弟の経長に平子郷のうち本牧・石川を分割譲与し、経長は石川二郎を称して平子氏は二系に分流した。承久三年(1221)、承久の乱が起ると、平子一族は幕府軍に参加して戦功をあげ、経長の子経季は越後国山田郷の新補地頭職に任じられた。一方の有長の系も越後に地頭職を得たようで、のちに越後に移住する拠り所となった。
他方、経長の孫平子杢助重経(通継の子とする系図もある)は、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げに参加して活躍、のちの論功行賞において周防国吉敷郡内仁保・深野・長野・吉田・恒富の地を賜り、平子氏は周防にも広まっていった。
・写真:横浜磯子の真照寺2003/04
平子氏の出自、考察
平子氏の出自は先述のように桓武平氏三浦氏流というのが定説となっているが、以前は北武蔵に勢力を有していた武蔵七党の横山氏から出たとする説がなされていた。
『武蔵七党系図』によれば、横山時広の嫡子広長が平子野内を称し、その子に有長と経長がいる。横山氏は武蔵国横山に居館を構え横山氏を称したもので、その近くには「石川」「太楽寺」などの地名があることから、太楽が平子氏の発祥の地とも考えられる。平子氏は「大楽」とも呼ばれていることから、武蔵の太楽を発祥とする説も信憑性を帯びてくる。しかし、平子というのは先述のように、相模国久良岐郡平子郷のこととみるのが自然なようだ。
『続群書類従・系図部集』の「桓武平氏系図」には、村岡五郎忠通の子に平子民部大夫景通がみえ、その子は鎌倉権五郎景政となっている。鎌倉権五郎は梶原・大庭・長尾氏らの祖にあたる人物であり、平子を称した理由についても明確ではない。このようなことから、横山氏説が有力であったようだが、山形県長井市に在住される平子家に伝えられた「越後平子系図(平子系図)」の発見で、平子氏の桓武平氏三浦氏流説が決定的となった。とはいえ、同系図は初期世系を「貞盛─良将─将門─良文」と記しているなど矛盾が多いもので、おそらく後世に桓武平氏系図をもとに作成されたものと考えられる。
ところで、『武蔵七党系図』と『平子系図』には、多くの共通点が見い出される。平子系図で三浦弥太郎弘長とある人物は、横山系図の野内広長にあたる人物とみられ、広長以降の有長─有員─有宗─有之は両系図とも共通している。
『武蔵七党系図』と『平子系図』が結びつくきっかけとなったのは、建暦三年(1213)の「和田合戦」にあるようだ。和田合戦は和田義盛とその縁戚である横山党が首謀者となって北条一族と戦ったものである。このとき横山氏の当主は時広であり、系図上における嫡子が広長である。そして、広長の弟にあたる時兼は合戦に参加し、広長は合戦に参加した形跡はない。乱後、横山一族は潰滅的打撃を受けたが、広長は何の影響も受けていないのである。また、横山氏と桓武平氏和田・三浦両氏、梶原氏とは縁戚関係があったことが系図から知られ、広長の妻は横山時重の姪であった。おそらく、横山時広の嫡男は時兼であり、和田合戦で没落した横山氏の家系を、血縁関係にある広長の系が受け継いだと見るのが真相に近いと思われる。
ちなみに、経季から所領を譲られた経久は「平左衛門太郎」を称し、また、戦国時代の平子朝政は「平左衛門尉」と称していた。一方、西遷した平子氏も平姓を称しており、平子氏の出自が自他ともに平氏と認識されていたことは疑いないところである。
平子氏の越後入部
さて、平子氏が越後へ進出したのは有氏のときといい、十三世紀のことであったという。おそらく、執権北条氏の勢力が拡大してくるとともに、その圧迫を受けるようになり越後の所領に下ったものと思われる。とはいえ、武蔵に残った一族もおり、戦国時代まで石河の宝生寺や磯子の真照寺との関係を維持していた。
南北朝時代には、越後守護上杉憲顕に属して活躍したようだ。一族の石川氏は、千坂氏や飯沼氏と並んで上杉氏の四家老の一人となり、石川孫三郎入道、石川遠江入道、石川刑部少輔らの活躍が知られる。
関東御家人として越後に入部した平子氏は、南北朝期以後、上杉氏に仕えて薮神・西古志・東古志などに領主的支配を樹立していったようだ。『平子文書』によれば、平子氏の所領は「山之俣、宇賀神、かきの地」ほか、西古志・東古志など中越各地に広がっていた。また、『温故の栞』には、平子右馬允が稗生城に、弟の若狭守が村松地方にいたと伝えられ、有長以来の惣領の官名である右馬允をもつ稗生の平子氏が本宗であったとみなされる。
平子氏は上杉氏の被官として奉行人をつとめ、越後府内の守護館の近くに居館を構えていた。現在「大楽館」という地名で呼ばれるところで、のちに長尾景虎に庇護された山内上杉憲政の居館として築かれ、のちには上杉謙信の政庁となった「御館」の北隣の地である。大楽館の位置は、平子氏の上杉政権下における地位のほどをうかがわせるものといえよう。
また、平子氏は武蔵平子郷以来の家臣である比留間・市河氏に加えて、朝政時代には河内・今泉・針生氏らを被官として所領を給付していたことが文明十五年(1483)の『越後検地帳』から知られる。平子氏は守護上杉氏に仕えながら、みずからも自立した国人領主としての道を歩んでいたのである。
守護上杉氏の重臣に列す
『平子系図』によれば、応永二十九年(1422)に平子太郎左衛門尉から斎藤小三郎にあてた書状があって、子のない太郎左衛門尉が斎藤氏から牛法師丸を養子に迎えて所領を譲り、のちに実子ができても変更しないことを申し送ったものである。斎藤氏は上杉氏の奉行人・加判衆として活躍した譜代的な国衆で、同じ上杉氏の被官的立場にあった平子氏とは親しい関係にあったことがわかる。
養子の牛法師丸はのちに政重を名乗り、戦国時代初期に本庄氏反乱のことで府中から中条氏のもとへ使者がたてられたとき、斎藤氏とともに下向している。文明四年(1472)には平子政重・朝政父子の名が見い出される。平子氏は守護上杉氏の重臣に列なって越後の要所に所領をもち、また諸所に発給した守護所の文書に加判者として登場している。
平子政重は上杉房定の奉行を務め、政重の子朝政は平左衛門尉を称し、朝政の名乗りは上杉房朝からの一字拝領したものとみられる。朝政は父とともに房定に仕えて奏者番をつとめ、長享元年(1487)には中条氏と黒川氏の二十年来の所領紛争を取り扱っている。
上杉房定は越後国内を統一して守護権力の確立をはたし、関東の争乱にも主導的立場で臨んだ人物で、享徳の乱には武蔵の五十子で古河公方と戦い、二男の顕定は山内上杉氏を継いで関東管領となった。このような房定に仕えて活躍したことは、越後における平子氏の地位を強化したことは疑いない。
明応二年(1493)夏、揚北の本庄房長が上杉房定に対して兵をあげ、これに黒川頼実が加担したとき、朝政は斎藤頼信とともに蒲原郡に下り、中条定資や薮神の発智六郎右衛門らとともに本庄勢と戦った。しかし、苦戦に陥り中条定資が戦死、朝政は守護代長尾能景に宛てて定資戦死のありさまを報告している。また、朝政は上杉房定の命を奉じて関東の戦線へも文書を発給している。
このように、平子氏は越後守護上杉氏に仕えて忠実にその職責をはたした。しかし、そのことは必然的に上杉氏にくっつきすぎることにもつながった。
長尾為景の下剋上
室町時代の守護は在京が原則であり、国元の政治は守護代、小守護代などが行った。越後は関東に近いことから鎌倉府の主である関東公方、公方を補佐する関東管領山内上杉氏との関係が強かった。越後守護代長尾氏は、在京の守護に代わって関東の戦乱に出陣するなどしてその権勢を強めていった。さらに、幕府と鎌倉府とはとかくとして対立関係にあり、在京の守護上杉氏は幕府方、材国の守護代長尾氏は関東方という構図にあった。
そのようなおり、守護上杉房方が京都で死去し、あとを継いだ朝方も翌年に京都で死去してしまった。房朝が守護を継承したもののまだ幼かったため、叔父の上杉頼方が名代をつとめた。この守護上杉氏の動揺が原因となって、守護上杉氏と守護代長尾氏が対立して応永の大乱(1423)とよばれる内乱が勃発した。この乱に際して平子氏は、守護方として活動したことが知られる。
以後、越後国内は守護方=幕府と守護代方=鎌倉府の二派に分かれて合戦が繰り広げられるようになった。やがて、幕府と鎌倉府の間で和議が成立し乱は終熄していったが、守護方と守護代方との対立関係は続いていた。その後、幕府と鎌倉府がふたたび対立すると、守護代長尾邦景は幕府に通じて鎌倉府と袂を分かった。
永享十年(1438)、鎌倉公方持氏が管領上杉憲実を攻めたことから、永享の乱が勃発、幕府軍の攻撃によって鎌倉府は滅亡した。乱に際して長尾実景は越後勢を率いて関東に出陣、続く結城合戦では持氏の遺児春王・安王兄弟を捕らえるという抜群の戦功を立てた。かくして、守護代長尾氏は将軍義教に接近、将軍直臣の待遇を与えらるなどまさに得意絶頂となった。ほどなく、義教が嘉吉の乱で殺害されると、にわかに長尾氏の株は急落した。さらに、越後新守護となった房定が鎌倉府を再興したことで進退は窮まった。
宝徳二年(1550)、越後に帰国した房定は守護代長尾邦景を切腹させ、実景を信濃へ追放して守護権力を確立させた。明応三年(1494)、越後の名君と称された房定がに死去し房能が新守護となった。房能は守護権力の強化を図るため、守護不入の特権を見直すなどの政策を押し進めたため、国人らは守護に不満を抱くようになった。とくに、守護代の長尾氏は七郡にわたって守護不入地をもっていたことから、もっとも影響を受ける立場にあったが、房能を補佐する長尾能景一代の間は大きな波乱には至らなかった。しかし、永正三年(1506)に能景が越中の陣で戦死し、為景が守護代になると一気に事態は動いた。
守護代を相続した為景は五十嵐・大須賀氏らのの反乱を鎮定、守護に不満を抱く国人らを掌握した。さらに、父能景ほど守護に従順な人物ではなく、永正四年、房能の養子定実を擁して房能排斥のクーデタを起こしたのである。為景の攻撃に敗れた房能は関東に逃れようとしたが、ついに天水峠において討ち取られてしまった。このとき、房能に従っていた平子朝政も戦死をとげた。
その後、房能の実兄で関東管領の地位にあった顕定が越後に進攻したとき、平子氏はこれに従った。しかし、為景の反撃によって顕定が長森原で敗死したことで、ついに平子氏も長尾氏に従うようになった。
越後の動乱
長尾為景は上杉定実を守護として実権を握ったが、定実は飾り物であることに満足する人物ではなかった。定実は実家の上条上杉定憲、琵琶島城主宇佐見房忠らを恃んで、為景打倒の兵を上げた。しかし、為景によってたちまち平定され、守護の座を逐われた定実は幽閉の身となってしまった。
敗れたとはいえ上条氏を盟主とする守護方は抵抗をやめず、享禄三年(1530)上条定憲はふたたび兵をあげた。「上条の乱」とよばれるこの内乱は、翌年、将軍が定憲を戒めるという形で一応終熄した。ところが、為景が後楯としていた幕府管領細川高国が政治抗争に敗れて自害したこことで、にわかに為景の権勢にも翳りがさした。これを好機とした上条定憲は、天文二年(1533)、三たび為景打倒の兵をあげた。これまで為景に属していた揚北衆、長尾氏の一族らも一転して上条方に加担した。以後、越後は守護方と為景方とに分かれて合戦が繰り広げられた。
上条定憲は揚北衆と連携しながら、庄内の砂越氏らの支援を恃み、上田の長尾房長も為景方に対して攻勢に転じた。この情勢のなかで小千谷は戦略的に重要な地となったが、小千谷地方をおさえる平子氏は中立を維持していた。そのため、平子党に対して双方から強い働きかけが行われ、平子党は上条方上田長尾氏と為景方との接触点にあって複雑な立場に置かれた。
やがて、会津の大名蘆名氏も上条方を支援し、為景方は追い詰められていった。天文五年四月、上条方の宇佐美定満・柿崎景家らが府中をめがけて進攻してきた。為景は高梨氏の支援を得てこれを三分一原で迎え撃ち、数千人を討ち取る大勝利を得た。しかし、この為景の勝利も府中を防戦したものに過ぎず、ついに四面楚歌のうちに家督を晴景に譲り隠退、その年の暮れにさびしく死去した。
越後の再乱
家督を継いだ晴景は国人衆らを懐柔するために定実を守護に迎え、さらに上田長尾房長の嫡子政景に妹を嫁がせるなどしたことで永正の乱は一応の終熄をみせた。
思いもかけず守護に返り咲いた定実には男子が無かったため、みずからの外曾孫にあたる伊達稙宗の子時宗丸を養子に迎えようとした。ところが、時宗丸の母は揚北衆の有力者中条藤資の妹であったため、本庄・黒川・色部ら他の揚北衆は養子の一件に反対の姿勢を示した。守護代の晴景も養子の一件が成ると、みずからの立場を不利なものとすると考え、反対派の揚北衆に気脈を通じた。定実養子の一件が、越後に新たな波乱をもたらしたのであった。
定実は養子の件を熱心に推進し、天文十一年(1542)、平子豊後守、直江大和守らを使者として時宗丸を迎えに行かせようとした。しかし、揚北の諸将が両派に分かれて争っていたため、その出発は思うにまかせなかった。やがて、伊達家中でも時宗丸養子の件をめぐって、稙宗と嫡子晴宗との争いが起った。それは南奥州の諸大名を巻き込む「伊達氏天文の乱」となり、ついに時宗丸養子の一件は沙汰止みとなってしまった。国内外の争乱によって、越後国内は泥沼の内乱状態に陥ってしまったのである。
この事態に対して守護代晴景は僧籍にあった弟の景虎を還俗させ、栃尾城主として長尾氏の軍事力の一端を担わせた。景虎はたちまち中越地方の反対勢力を平定し、その武名をおおいに上げた。この景虎に着目したのが晴景と対立する中条藤資で、それに高梨・直江氏らが加担して景虎を国主にしようと動いた。その動きを察した晴景が景虎を討とうとしたため、事態は晴景派と景虎派に分かれての抗争へと展開していった。
晴景方には上田の長尾政景、揚北衆の黒川清実らが加担したが、戦いは次第に景虎の優勢となり、そこへ定実が調停に動いたため晴景は景虎に家督を譲り内乱は終熄した。
長尾政景の反乱
景虎が春日山城に入城して新しく守護代となったことで、追い込まれたのが長尾政景であった。政景は晴景を助けて景虎を討とうとした急先鋒であり、おそらく、病弱の晴景に代わって守護代の地位を望んでいたと思われ、景虎に激しい対抗心をもっていた。さらに、上田衆とよばれる強兵を配下にもち、妻の弟にあたる景虎を若輩と侮っていた。そのため、政景は府中の景虎に対して自立的立場に固執し、府中への参勤も行わなかった。
上田長尾氏は越後の有力領主として永正の乱においては為景に対抗し、晴景と景虎との戦いでは晴景に加担して景虎と戦った。加えて政景の室は景虎の姉であり、配下の上田衆は精兵揃いであった。おそらく、景虎にまだまだ対抗できると判断したのであろう。しかし、景虎は守護を奉じた越後国内の最高権力者であり、かつて守護方を標榜したころの盟友たちも、中条藤資は景虎擁立の立役者であり、父房長以来の盟友である宇佐美定満と平子房政らも景虎派に気脈を通じていた。この時点における政景は、すでに越後の一地方領主に過ぎない存在となっていたのである。
天文十八年、関東管領上杉憲政が小田原北条氏に圧迫されて、平子房長を通じて越後に救援を依頼してきた。景虎はこの救援をいれたが、関東に出るには上田庄の存在が問題となった。上杉憲政はさらに北条氏康の攻勢にさらされ、平子房政のところへ助けを求めてきた。房政はこれを府中の長尾景虎、上杉定実に報告した。この報に接した景虎は関東出陣を決し、諸将に出陣の用意を命じた。政景にすれば、景虎の命令を承知すれば景虎に臣従することになり、ついに景虎に対する抵抗姿勢を明確にしたのである。
天文十九年春、上杉定実が死去したことで景虎は名実ともに越後の国主となった。翌天文二十年、景虎方は上田長尾氏への攻勢を強め、古志長尾氏も行動を起こした。戦いは景虎方の優勢に進み、八月にはみずからが出陣することを平子房政に通報している。ここに至って政景は、父房長とともに景虎に誓紙を出してその軍門に降ったのである。
上杉謙信麾下の平子氏
政景は室が景虎の姉であったことで一命を助けられたが、その所領はかなり削減され、宇佐美氏や平子氏らに与えられた。
永禄二年(1559)、上洛から帰った長尾景虎を越後の諸将が太刀を献じて祝賀した。その時の記録から当時の府中における越後諸将の序列が知られる。まず「直太刀ノ衆」と呼ばれる上杉・長尾氏の一門が金覆輪の太刀を献じ、ついで「披露太刀ノ衆」とされる外様・譜代の国人、最後に「御馬廻年寄分ノ衆」とされる旗本の幹部という順であった。一門の筆頭には古志の長尾景信があげられ、外様・譜代の国人の筆頭は中条藤資で、その七位に長尾政景が位置付けられ、平子氏は「おぢや殿」として三十三位に位置していた。
平子房政のあとを継いだ房長は若狭守を称し、謙信麾下の将の一人として上杉軍の一翼を担った。永禄十一年、武田軍が信濃長沼に在陣していることを知った謙信がただちに関山城へ長尾景信らの援軍を送った。このとき、平子若狭守も宇佐美・須田氏らとともに在城した。平子氏はもう小千谷の一領主ではなく、上杉軍の一部将として軍団を率いつつ各地の番城の城将をつとめる存在となっていた。
天正五年(1577)、謙信が能登七尾城を攻めたとき平子和泉守が従軍している。そして、七尾城を降した謙信が鯵坂長実を七尾城将としたとき、和泉守は甲山城将となり能登の抵抗勢力の掃討にあたった。天正六年、織田方の長連龍が旧城穴水城を占拠したときも、和泉守はその奪回作戦に出陣した。しかし、同年三月に謙信が急死すると、ともに養子である景勝と景虎が家督を争い「御館の乱」が起った。七尾城主の鯵坂長実は景勝派に加担して、甲山城の平子和泉守を討つことに決し、和泉守は鯵坂軍の攻撃によって壮烈な戦死を遂げた。
御館の乱において、平子氏は景虎を擁した古志長尾氏についたのか、上田衆を率いる景勝についたのか、あるいは中立を保ったのか、その行動は明確ではないが景虎派に気脈を通じていたようだ。
その後の平子氏
その後、豊臣秀吉に属した長尾景勝は五大老に列し、慶長三年(1598)に越後から会津への転封を命じられ、会津へ移っていった。このとき、越後の国人領主たちは会津に移住する者が多かったが、本貫の地から完全に切り離されたものでもなかったようだ。すなわち、当主は会津に移っても、一族のなかには旧領に残って農民支配を続ける者が少なくなかった。御館の乱後の平子氏の動向は明確ではないが、旧領に残った一族がいたのではないだろうか。
慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起ると上杉景勝は西軍に属し、執政の直江景続は越後に残存する上杉勢力を使嗾して、徳川方となった春日山城主堀秀治や与力の大名たちに反抗させた。これが「上杉遺民一揆」とよばれるものである。
山形県長井市に居住される平子氏の家伝に、関ヶ原の戦いに敗れて米沢領に落ち延びたということがあるのは、平子氏が遺民一揆に参加して上杉方に加担したことを示すものであろう。かくして、関ヶ原の役を契機として越後における平子氏の歴史は幕を閉じたのである。・2006年2月16日
【参考資料:磯子の史話/武州久良岐郷地名考/小千谷市史/平子氏の西遷・北遷 ほか】
・関連リンク-●周防三浦(仁保)氏
■参考略系図
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二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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