山内氏
丸に三つ柏/白黒一文字
(藤原北家秀郷流) |
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戦国期、秀吉に取り立てられて大名になった山内一豊の山内氏は、その祖を藤原氏秀郷流としている。これは山内首藤氏であるので、発祥地は相模国鎌倉郡内の山内ということになる。それが事実であったかどうかは別として、近世大名になった山内氏では、自家の先祖をそのよに考えていたことは間違いない。
『尊卑分脈』によれば、首藤義通の子俊通がはじめて鎌倉郡の山内に住み、その土地の名をとって山内を名乗るようになったという。『寛政重修諸家譜』では、俊通の子経俊から山内氏を名乗るようになったとし、その後系譜の上では中断があり、貞通という人物からはじめているのである。
貞通は足利義政・義尚の時代にあたり、その三代の孫久豊のとき、一時、将軍義晴に従って阿波国に行き、のち尾張に住むようになったという。が、歴代の将軍のうちで阿波国に至ったのは十代義稙のみでこの所伝はにわかには信じ難い。
その子が盛豊で、かれは尾張守護代岩倉城の織田敏信・信安父子に仕え、弘治三年(1557)の織田信長との戦いに敗れて戦死している。
豊臣秀吉に仕えて出頭する
盛豊の子が一豊で、かれは岩倉城の織田氏が没落したあと織田信長に仕え、秀吉の下につけられることになった。
天正元年(1573)には秀吉から近江長浜で四百石を与えられているので、はやくから秀吉の家臣になっていたことが
わかる。のち、若狭高浜城、近江長浜城を経て、天正十八年(1590)には遠州掛川城主となり五万石を与えられている。
掛川城址点描
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掛川城址の大手門 ・再建天守(2002-07/02)
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秀吉没後は家康に心を寄せ、慶長五年の会津征伐に発向する。下野国小山に至って石田三成の挙兵が聞こえ、家康が江戸城に還そうとしたときのこと。「大坂五奉行」が密かに妻の文を廻文に添えて送ったのであるが、一豊は封を披かず、家康の台覧に備え、言上した。
「速やかに御出馬ありて賊徒を退治じたまわんにおいては、まず掛川の居城を御譜代の士に渡し、また人質をも奉るべし」と。
関ヶ原の戦いに際しては、大垣の城兵を拒ぐ功をたてた。戦後の論功行賞では、先の言上もきいて、一躍土佐高知二十万石に封ぜられた。一豊には子がなく、弟康豊の子忠義にあとを継がせている。なお、土佐山内氏は宗家が「やまうち」、支封は「やまのうち」を称した。
余談ながら、戦国時代に備後国の戦国武将山内氏があった。こちらは毛利氏に仕えたが、流れからいえばこちらの方が嫡流になる。山内氏関係の古文書も多く伝えている。江戸時代、この山内氏が土佐山内氏に使者となったとき、その紋どころが土佐の殿様と同じということで一悶着があったという話が伝えられている。嫡流とはいってもかたや二十万石の大名家、こなたは陪臣。歴史の流れの非情と巡り会いの妙を感じさせる挿話ではある。
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