安保氏
丹文字*
(武蔵七党の内丹党)
・『室町武鑑』に拠る。『関東幕注文』には、足利衆に安保じろうがみえ幕紋は「つき」と記されている。
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武蔵七党の内、現在の児玉郡神川町付近に居住していたのは丹党・児玉党・猪俣党で、丹党は、宣化天皇の後裔と言われ、その皇子殖栗王の後裔と称している。天皇の曾孫彦武王の産湯にたじひ(虎杖=イタドリ)の花が浮いていたので多治彦と称し、その子孫は多治比・多治・丹遅・丹治等を名乗ったという。
殖栗王十二代の孫という武信が、陽成天皇の元慶年中(877〜84)、武蔵国に配流され賀美郡、秩父郡に住した。その子桑名峯信は丹二を称して京都と秩父の間を往来し、その子峰時は初めて石田牧の別当となり土着して丹貫首(丹党首)と称した。その後、武峯の子に至って郡の内外に拡散して一大勢力を持つようになった。
武峯の嫡男経房は秩父中村郷に住んで、その孫の時重が丹党嫡流中村氏を、武峯の二男長房は秩父郡両郡に分かれて薄氏を名乗り、三男基房は秩父五郎と称し、四男行房は秩父皆野へ分かれて白鳥氏を名乗った。基房の嫡男直時は、上里町に住んで勅使河原氏を名乗り、綱房(恒房)は、初め新里三郎太夫と称したが、後に安保に移って安保三郎太夫とも称した。そして、綱房の二男実光は安保に住んで安保二郎と称し、以後この地に安保氏が繁栄することになった。
承久三年(1221)五月、鎌倉幕府執権である北条義時を追討すべき後鳥羽上皇の宣旨が下され、官軍は兵を集めて合戦の準備に入り、先鋒は東海道を鎌倉に向かった。世にいう「承久の乱」である。幕府は急いでその対策を練り、出撃との結論に達し京都へ攻め上がった。六月、安保実光の属した幕府軍は、美濃の摩免土(大豆渡)で官軍と戦い、これを破って京都に上り宇治川に押し寄せた。しかし、おりからの大雨のために川は氾濫して渡るに容易ではなかった。このとき、実光は河に乗り入れたが激流にのまれて溺死してしまった。享年八十歳、当時にあっても相当な老武者であった。
承久の変後、実光の子実員は恩賞として本領とは別に播磨国の守護職を得るなど、安保氏は各地に所領を得て、安保一族はそれぞれの地に広がっていった。鎌倉幕府滅亡のとき、安保道堪は幕府方に属し分倍河原の決戦で討死し、賊軍の汚名の下に安保氏宗家は惣領職と所領を没収されてしまった。
安保氏の復活
建武元年(1334)、後醍醐天皇による建武新政権が発足した。翌建武二年七月、諏訪頼重にかくまわれていた北条高時の二男相模二郎時行が信濃国で兵を挙げ、上野を経て鎌倉に進撃した。のちに「中先代の乱」とよばれるもので、この時、足利尊氏に従っていた安保氏の庶家光泰は足利軍の先陣となり、入海を渡って奮戦し足利軍大勝利の要因をつくった。翌三年、尊氏は光泰の功を賞して、前に没収されていた安保道堪の旧領と安保氏の惣領職を光泰に与えた。一方、北条時行に属して安保氏惣領職を回復しようとした道堪の子息の某は、時行の一方の将であった諏訪氏と共に合戦に敗れて鎌倉で自害、道堪家は断絶した。
乱の終熄後も足利尊氏は鎌倉に居坐り、ついには後醍醐天皇に叛旗を翻した。以後、南北朝の内乱が繰り広げられることにあんる。光泰は足利氏に属して本領安保荘をはじめ、出羽・播磨・信濃の所領を足利直義によって安堵され、嫡子泰規の経済的基盤を確保した。そして、建武三年(1336)泰規は鎌倉への参勤を武蔵守護高重茂から命じられている。
光泰には泰規のほかに多くの子があった。二男の直実は尊氏の執事高師直と結び、自己の将来を師直にゆだねたようだ。観応元年(1350)、武蔵守護となった師直は直実に所領を宛行い、直実は早速に師直から所領給付を受けたのであった。その後に起こった「観応の掾乱」では尊氏=師直方に属し、京都賀茂川において足利直義方の秋山光政と一騎打ちをしたことが知られている。こうして、直実は惣領家から独立し、さらに播磨国作土郷志方に所領を与えられ、同地に赴いたがその子孫に関しては詳らかではない。
観応二年、足利尊氏は直義を討つため東下し、駿河国薩タ峠で直義軍と遭遇、合戦し直義勢を打ち破った。そして、鎌倉に入った尊氏は直義の勢力を駆逐し、直義派は尊氏の前に降伏した。このとき、泰規は尊氏から「勲功の賞」として武蔵国秩父郡に地頭職を宛行われ、尊氏袖判状も得て尊氏との主従関係を強めることに成功した。ここに、安保氏は室町幕府体制のなかに位置付けられたのである。
その後、関東の地には鎌倉府がおかれ関東十ケ国の行政を統括した。その主である公方には尊氏の子基氏が就き、その補佐を畠山国清が行った。ところが、康安元年(1361)畠山国清は鎌倉府に謀叛を起こした。基氏はこの乱に際して、安保五郎左衛門に国清討伐を命じている。翌年、基氏は自ら箱根に国清討伐の軍を進め、その留守居として武蔵入間川に子氏満を留めた。
このとき、安保泰規は氏満の警固を命じられている。しかし、安保氏は基氏の命にすぐ従わなかったようで、乱後、安保氏の所領は一時没収されていたようである。そして、還補状を与えられたが、泰規の子安保憲光にも還補は行われなかった。康暦二年(1380)小山義政の乱が起こり、公方氏満による討伐が進められ、安保氏もそれに従ったようで、乱後、その恩賞としてさきに没収された所領の還補を受けている。
関東の争乱
室町幕府は、氏満以来の鎌倉府の勢力伸張と独自な行動を警戒するようになり、幕府内部では鎌倉府のことが問題となり始めていた。そのような応永六年(1399)の「大内義弘の乱」が起こり、関東公方足利満兼はこれに加担しようとしたが、関東管領上杉憲定がそれを抑制した。さきに満兼の父氏満は「土岐氏の乱」に加担しようとし、これをとどめるため管領憲春が諌死したように、憲定は将軍義満と連絡をとって満兼を制したのである。これは、鎌倉府の勢力拡大を幕府が押さえるため、管領山内上杉家を支援していたことが背景にあり、上杉氏はよく幕府の期待に応えたといえよう。そして、満兼のあとを継いだ持氏のとき「上杉禅秀の乱」が起こった。
鎌倉府の反抗的態度を警戒する幕府は、関東の諸将に対して直接的接触が行うようになり、応永十六年(1409)安保宗繁は将軍義持から信濃守任官の吹挙をなされている。その結果、鎌倉公方から将軍との結び付きをとがめられ、一時鎌倉府より所領を没収されたようだ。宗繁は所領を回復するため、禅秀の乱に際して持氏に属して参加し、乱後、所領を返還されたのである。
持氏は禅秀の乱において禅秀に加担した関東の諸将を呵責なく討伐しはじめた。そのため、禅秀に与した諸将は持氏に反抗し、関東各地に合戦が繰り広げられた。安保氏も持氏に属して合戦に参加したようで、宗繁と満春兄弟は児玉郡蛭河郷など五ケ所を勲功賞として持氏から宛行われている。しかし、それらの土地は禅秀方に参加した武士たちによって押領されており、安保氏はたびたびその旨を鎌倉府に訴えている。このように武士の新たな所領の獲得は在地の激しい抵抗を受けざるを得ず、国人領主として生き残るためには在地支配のための軍事力と利害を調整する権威が必要とされたのである。それが鎌倉府の存在意義であり、のちに「永享の乱」で鎌倉府が滅亡後、関東の武士が公方家再興へと行動した背景であった。
応永三十年(1423)「小栗氏の乱」が起こり、安保宗繁は一族とともに持氏に属して参戦した。このような持氏の行動は反幕府的態度とみられ、持氏と親幕的立場の管領上杉氏とが対立し、やがて「永享の乱」へと発展した。安保氏はいちはやく上杉=幕府方へと転向し、乱は持氏の敗死によって終息した。
以後、関東は上杉氏の勢力が強まり、それに反発する佐竹・宇都宮・結城氏らは持氏の遺児兄弟を擁して反上杉の兵を挙げた。「結城合戦」とよばれる戦いで、安保宗繁は幕府管領細川持之から奉書を受けている。安保郷一帯は、武蔵・上野・下野・信濃四国の国境地帯に位置し、結城合戦における要地であった。「安保文書」のなかに上杉長棟・同清方・長尾景仲らの書状が伝わっているのは、当時、安保郷=安保氏の存在がいかに重視されていたかを如実に示している。
結城合戦に安保氏は、上杉勢に与し結城攻城軍に加わった。結城籠城城は幕府軍の攻撃をよく防戦し、戦いは翌年に至った。永享十三年(嘉吉元年)正月、上杉氏は宗繁に一揆の招集と「無沙汰人体」の名字注進を命じた。このことから、安保氏の地域的・軍事的な立場と国人領主としての政治的地位、すなわち地域的統率者としての姿がうかがわれる。やがて、結城城は落城し持氏の遺児らは捕らえられ、京都に送られる途中で斬られた。この乱における安保氏の活動は、安保氏が強力な武力によって地域支配を着実に築きつつあたことを示している。また、この結城合戦のとき宗繁は病に伏せていたようで、子の憲祐が出陣していたようである。
戦国大名への途
結城合戦後、上杉氏の勢力が拡大したため、それを嫌う関東の諸将は鎌倉府の再興を幕府に望み、幕府はこれをいれて持氏の末子千寿王丸を成氏と名乗らせて、鎌倉に下し鎌倉府を再興した。持氏に従った武士たちは上杉氏の圧力を除くために成氏のもとに結集し、それが関東の新たな紛争の火種となった。成氏は没落した結城氏らを再興させ、それに反対する管領上杉氏と対立するようになり、ついに「享徳の乱」が起こり関東は成氏方と上杉=幕府方に分かれて合戦が繰り返される事態となったのである。
このころの安保氏の当主は氏泰で、成氏に属して安保氏の本貫地周辺の支配権を安堵されている。そして、文明十年(1478)十二月、下総境根原の合戦に出陣し千葉孝胤と戦った。氏泰はこのような軍事的な面だけでなく、精神的な面でも成氏と結び付いていたようである。
文明十四年、足利学校において、中務丞氏泰は『職原鈔』諸本の筆写と校合を行い、さらに京都の宗祇を介して京都二条派とも接してそれを極めたという。職原鈔は、北畠親房の筆になる有職故実の基本文献であった。足利成氏は、当時、惣領制的支配体制の崩壊にもかかわらず、身分制的なイデオロギーを押し進め、「職」の根源の思想を関東武士層に広めようとしていた。そして、国人領主層も観念的な「権威」を求めており、かれらは、身分職制的イデオロギーを受け入れざるをえない弱さをもっていた。安保氏泰の職原鈔注釈と、そこから生まれた安保流の成立とその広がりは、公方成氏の権威確立と密接な関係があったとみて間違いないだろう。そして、氏泰の「氏」は成氏からの偏諱を受けたものと思われ、その点からも成氏と氏泰とは密接な関係にあったと思われるのである。
天文十二年(1543)安保泰広(全隆)は置文を残している。それには、全隆は曾祖父宗繁の例にならい、伯父氏繁の代官として上戸の陣に出仕していたという。上戸の陣とは、永正元年(1504)頃の山内上杉氏と扇谷上杉氏との対立・和睦が錯綜する時期のものであったと考えられる。当時、上州一揆の長野氏なども山内上杉氏方として出陣しており、安保文書中にも上杉憲房の感状が残されている。そして、安保泰広は氏泰の代官として上戸に出陣していたのであろう。また、置文には「惣領断絶故」とあり、泰広は安保氏の本知行と新恩地を受け継いだようである。しかし、その後泰広は名代を弟の長泰に譲り、古河公方足利高基より長泰は名代相続祝言の剣を賜っている。このことは、安保氏が名字の地を受け継ぐ嫡流としての地位を、正当なものとするには古河公方家の承認が必要であったことを示している。そして、そのことこそが、安保氏と古河公方家が結び付く要因でもあった。
やがて、天文年間(1532〜55)になると、小田原北条氏の勢力が関東を覆うようになり、安保氏も後北条氏との関係が重要な課題となった。そして、安保全隆の置文は、安保氏が国人領主から戦国大名へと性格を転換させる契機となったことを示しているようだ。そして、旧権威である古河公方家の力を不必要なものとし、安保氏は独自な領域支配を目指した。すなわち、永禄六年(1563)までに武蔵・上野の国境地帯に所領を獲得していった安保氏は、小林・富田・高山・小幡・浄法寺氏などの室町以来の有力土豪層を従え、かれらに給地を与えて家臣団に編成しつつあったのである。
後北条氏の進出
後北条氏の上野進出は、永禄四年(1561)前後より積極的に行われるようになった。氏康は子氏邦を藤田氏の女婿とし、鉢形・秩父などの武蔵・上野国境の領域経営を行うようになる。後北条氏の上野支配において重要な位置を占める利根川・鳥川・神流川の合流地点に、安保氏が領主支配を行っていた。
北条氏康は、天文二十一年(1552)関東管領上杉憲政を越後に遂い、着々と関東支配の輪を広げていった。そして同年の御獄城合戦で、御獄城を北条氏康が攻略し、以後、後北条氏に支配に入ったと思われる。そして、弘治元年には、検地を行い、領国整備を推進している。
永禄初年(1558)のころになると、後北条氏は安保郷近辺にまで進出してきており、国境地帯の安保氏も小田原の氏康と直接結びついていた。永禄六年(1563)の段階で、安保中務大輔晴泰が武蔵・上野両国に知行を持っていたことが「安保文書」から知られる。永禄十一年(1568)末から翌年正月にかけて、武田信玄が駿河に侵攻し、今川氏真を攻撃した。これに対して氏政は駿河薩垂峠で武田軍を対陣したが、このとき安保氏は、小幡三河守、同族の長根雅楽助をひきつれ、北条氏方として薩垂峠に出陣している。
この安保氏の行動に氏康はなみなみならぬ感謝を表わした書状を送っている。つまり、上杉勢、武田勢の上野侵攻に伴って、利根川周辺に所領を有する武士たちは、その去従もななかなに定まらなかった。それだけに、安保氏が遠く駿河まで出陣してくれたことに氏康は感謝したのである。また、安保泰倫は、老母を鉢形城へ人質として出していた。そして、安保氏は次第に鉢形城主の北条氏邦のもとに組織されていったと考えられる。おそらく安保氏は一支城主、すなわち後北条氏の武将として、配下の土豪層を支配するようになった。そのことは、安保氏の城に本城と中城が存在、氏邦の手勢が駐留していたことから知られる。
安保氏は後北条氏の麾下として、上野・武蔵国境の支城主としてかなり大きな勢力を有していたことは疑いない。そして、氏康・氏政と直接結びついていたことから、直轄軍の側面ももっていたようだ。さらに安保氏は、『小田原衆所領役帳』や北条氏邦の発給文書にも、後北条家臣として着到を受けたり、旗本として編成された形跡もみられない。安保氏は後北条氏の進出によって、所領の縮小を余儀なくされたが、のちに、後北条氏に属しことで、上野国内の要所を付与されたものであろう。
安保氏の終焉
安保氏はいわゆる土豪的存在ではなく、少なくとも鉢形城の北条氏邦と結びつきながら、支城主として独自の武力編成をめざした小大名的存在であったと考えられる。
永禄十二年(1569)五月、甲斐国の武田信玄は後北条方に占拠されていた御嶽城を攻撃してこれを占領したが、御嶽城はその後ふたたび後北条方の奪回するところとなった。この戦いで、泰倫が戦功をたてている。九月に入ると武田軍は、ふたたび御嶽城の攻撃を再開し、同月九日の大激戦の末ふたたび御嶽城を占領した。
この永禄十二年を契機として、安保氏に関する史料は存在しなくなるのである。そして、永禄十三年、安保氏の居城である御嶽城には長井政実が入っており、安保郷内の一部が金鑽神社に寄進されている。このことは安保氏の支配に変化が起きたことを示している。
さらに長井政実の知行宛行状から、安保氏の所領であった浄法寺・矢場、さらに安保馬場と呼ばれる地域が倉林越後守の知行地となっている。安保馬場とは、安保氏の居館の一部の地であり、安保氏は館の一角まで他氏に奪われている。これらのことから、安保氏は永禄十二から十三年の間に没落してしまったとものと思われる。
安保氏が土豪層であれば、帰農すべき土地もあったのかも知れないが、小さいながら大名といえる存在であった安保氏は何かの事件があれば、その地に留まることはできなかったのかも知れない。こうして、北関東の名族丹党安保氏の名は、史上からその姿を消し去った。
【参考資料:武蔵武士の一様態/古河公方足利氏の研究/関東戦国史の研究 ほか】
■参考略系図
・諸本系図を併せて作成。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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