宗 氏
隅立て四つ目結*
(桓武平氏知盛流/惟宗氏裔か)
*丸に平四つ目結とするものもある。 |
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宗氏は惟宗姓。惟宗の「宗」をもって名字にしたという。所伝では、宗氏の祖知宗は平知盛の子で、壇の浦の戦い後、惟宗氏に養われたとし、本姓平氏であると称している。あるいは重尚を安徳天皇の落胤としたり、俗説はきわめて多いが、いずれも信ずるに足りない。結局のところは、大宰府の官人で大宰少弐、少弐氏の被官であった惟宗氏の後裔が、対馬の国造家であった対馬県直などを追って領主化しやものとみなされる。
『宗氏家譜』では、巌原にあった国府は、平安時代後期になると、阿比留を名乗る在庁官人が国司にかわり実権を有していた。この阿比留氏は美津島町鶏知に居館を営んでいて、この鶏知の阿比留氏を「阿比留在庁」と呼んだという。「家譜」によると、阿比留氏にかえ、太宰府は寛元四年(1246)惟宗重尚を遣わし、重尚は阿比留国時を鶏知で滅ぼしたといい、阿比留氏は平氏を名乗っていたことが知られている。しかし、史料上には阿比留氏は確認されない。
つまり、対馬は少弐氏の守護領国であったが、鎌倉時代、在庁官人阿比留氏が従わなかったため、宗氏に討たせた。これが重尚で、以来、宗氏を守護代となったということであろう。
・対馬の山並み
対馬守護代-宗氏
史料上では宗氏は南北朝争乱期に宗盛国が初出するが、盛国以前の津島守護代は不明である。盛国は妙意と号して守護武藤少弐貞経より地頭代という立場におかれていた。いわゆる守護代である。宗氏は系図上では重尚−助国−盛明、そして盛国となる。助国の代、文永十一年(1274)に蒙古が来襲、世にいう文永の役になった。助国は対馬小茂田で元・高麗の軍勢を迎かえ撃っタが討死。つぎの盛明の代には弘安の役となり、ふたたび高麗の金方慶が率いる元軍が対馬に上陸し、盛明はこれと戦った。
その後も少弐氏が対馬守護であったが、在島した証はない。そして、宗盛明・経茂・頼茂が守護代を務めた。観応の掾乱で守護頼尚は足利直冬に与し室町幕府の追討を受けた。当然、少弐氏相伝の対馬守護職は剥奪されたが、乱後、守護に再任されている。少弐冬資の時代には、南朝方が補任した守護として少弐頼澄の存在がみられる。やがて、鎮西探題として今川了俊が九州に下向してくると、少弐氏にかわり今川氏が対馬守護になったようだ。了俊の探題解任後、宗澄茂が守護代から守護に昇格した。以後、宗氏が少弐氏に代って対馬守護職に就任した。
応永五年(1398)宗頼茂は志多賀に館を移し、さらに同十五年次の貞茂は佐賀に移住して居所としたが、貞国のとき、文明十八年(1486)館を巌原の中村に移し、以降、宗氏代々の居所となった。対馬は山地が多く耕地が少ない地であったため食糧の自給ができなかったが、朝鮮との貿易による利得が多く、朝鮮の好意で有利な貿易権をもち、宗氏は外交面での権威を高めていったのである。
戦国争乱と宗氏
永亨年代(1429〜40)から永禄初期(1558〜)頃にかけての百年間は、宗氏がもっとも充実し、野望をたくましくした時代であった。貞盛は内政・外交に力を注ぎ、島内支配権の確立を目指し、朝鮮との間に通交体制を整えた。また、没落した少弐氏を助けて九州本土にもたびたび兵を出した。大内氏によって太宰府を追われた少弐嘉頼が貞盛を頼って対馬にいたことも、宗氏の野望をかきたてた因であろう。貞盛の弟盛国も、九州に出陣し大内盛見の首級を取り、敵を退けること十数度におよび、博多商人との関係を深めた。しかし、大内勢を九州から撃退するまでにはいたらなかった。
嘉吉元年(1441)少弐嘉頼が対馬で没すると、貞盛は嘉頼の弟教頼を擁して太宰府の回復を図った。教頼とともに筑前博多に渡った貞盛は、大内持世の軍と戦って敗れた。このころ、貞盛には九州進出に集中できない悩みがあった。朝鮮との紛争が対馬を脅かしていたのである。応永二十七年(1420)一月、朝鮮の太祖から貞盛は威嚇の書を突きつけられ、朝鮮側は対馬から宗氏の追いだしを図っていた。
嘉吉三年(1443)貞盛は、朝鮮の圧力に屈して条約を結んだ。「嘉吉条約」と称されるもので、宗氏にとっては屈辱的なものであったが、反面望ましい内容のものでもあった。つまり、対馬は朝鮮の属州となり宗氏は日本の御家人でありながら朝鮮の代官という立場になった。そして、朝鮮は宗氏に通好証を与え、日朝貿易に関しては、宗氏が窓口と決められた。これによって、体面はともかくとして、日朝貿易を望む日本の諸豪族に対して、宗氏は隠然たる力を発揮することになった。すなわち、宗氏は名より実をとったのであった。
宗氏十一代の家督を継いだ貞国は、祖父貞盛の遺志を継ぎ、文安二年(1445)教頼を擁して大内氏と戦い、少弐氏の筑前復帰を果たしたが、応仁元年(1467)少弐・宗の連合軍は大内氏と博多・太宰府で戦って敗れ、教頼は討死を遂げた。そこで貞国は教頼の子頼忠を援け、文明元年(1469)ふたたび太宰府の奪回を目指し、それを果たした。この頃が宗氏の頂点であった。貞国は博多にとどまり、少弐頼忠を補佐して勢力の拡張を図ったが、肥前に龍造寺隆信が勢力を拡大して博多を狙った。さらに、毛利・大友氏も博多を狙っていた。世はまさに戦国時代の真只中であった。
永禄二年(1559)正月、少弐頼忠の孫冬尚が龍造寺隆信に攻められて討死を遂げ少弐氏は滅亡し、宗氏の九州進出の野望も潰えた。宗氏は少弐氏を擁して筑前進出を果たしたものの、海外交易の拠点博多の制覇を目論む毛利・大友・龍造寺氏らの力に抗しようはなかった。
秀吉の九州征伐に当たっては秀吉に属し、本領を安堵された。文禄・慶長の役では小西行長の軍に従って釜山城の攻撃などを行っている。関ヶ原の合戦では西軍に属したが、朝鮮との国交回復に尽力し、十万石の格式を得た。
・宗氏の軍旗 /
・宗氏の城下-巌原の町並み
■参考略系図
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