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白鳥氏
●丸に二つ引両
●安倍氏後裔?/大江流説もあり
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戦国時代における出羽最上地方の雄は最上氏であった。そして、最上氏を中心として、最上氏一族の天童氏、寒河江大江氏、そして白鳥氏らがそれぞれ領地を有して割拠していた。それに、米沢の伊達氏、庄内の武藤氏らの大勢力が周辺に勢力を拡大しつつ、最上地方を虎視眈々と狙っていたのである。
白鳥氏の出自に関して、従来、俘囚の長として奥州六郡を支配し「前九年の役」に敗れた安倍頼時の八男行任の子則任(一説に則任は頼時の男子、また行任の兄貞任の子ともいう)の後裔とする説が流布されていた。他方、白鳥氏の家臣であった茂木弾正が書き残した系図によれば、白鳥氏は大江氏の流れであり、寒河江氏とは一族の関係になる。しかし、同系図の記述は錯綜していて、そのままには受け取れないものである。さらに、白鳥氏は中条氏の同族とする説もある。すなわち、白鳥十郎長久は中条長政(あるいは長隆)のあとを継いだというものだが、この説は白鳥氏の谷地入部を合理化しようとしたものであるようだ。
いずれにしれ、白鳥氏の出自、系譜に関しては不明点が多く、いまでは地元出身の豪族とする見方が有力となっている。
白鳥氏の登場
白鳥氏の名が史上にあらわれてくるのは南北朝のころからで、『後太平記』に出羽国の南朝方の将として白鳥冠者義久がみえており、併せて寒河江小四郎の名もみえている。白鳥氏は寒河江氏とともに南朝方に属して活動、大江氏とは緊密な関係にあったようだ。
その後、十五世紀中頃の康正元年(1455)、「享徳の乱」に際して幕府が古河公方足利成氏を討伐しようとした。そのときのことを記した戸沢家の私記『家林合集記』に白鳥十郎義郷がみえる。ついで、戦国時代になった永正九年(1512)、山形城主の最上義定が北進の挙に出たが、そのとき白鳥氏が義定に属して出陣したことが『羽陽北仙伝記』に記されている。白鳥氏が南北朝の争乱を生き抜き、戦国時代には最上氏に味方して出陣するなどしながら、一定の勢力を保持していたことがうかがわれよう。
さて、白鳥氏の名を上げたのは白鳥十郎長久である。長久は諸系図などから十郎義久の子に生まれ、『出羽風土略記』には城取十郎武任とあり、他書には義国などとも記されているが、いずれも同一人物である。武任と名乗りに「任」の一字を用いているのは、安倍氏の通字を用いた可能性を思わせる。
戦国時代の白鳥氏は、寒河江大江氏と関係が強かった。長久の叔父長国の一女は寒河江兼広の妻に、二女は寒河江一族の溝延氏の妻になっている。白鳥氏は南北朝以来の寒河江氏との盟友関係を維持していたのである。おそらく、寒河江氏とは代々姻戚を結んでいたものと思われ、それが白鳥氏の出自を大江氏に結び付ける一因になったのであろう。長久のもう一人の叔父義広の娘は天童氏の妻になっており、白鳥氏は寒河江氏、天童氏と結んで最上氏に対抗しようとしていたようだ。
谷地城主、白鳥十郎
天文十一年(一五四二)、伊達稙宗と嫡男の晴宗の父子が争った「天文伊達氏の乱」に際して、白鳥某が最上家援軍の仲介の労をとったことが知られる。この白鳥某とは、十郎長久であろうと思われる。白鳥十郎は先祖伝来の白鳥城から谷地に居城を移し、最上地方の戦乱を巧みに泳いで、最上・伊達両氏の仲裁をつとめるまでの存在に成長したのである。
十郎が新たな居城とした谷地城は、もともと中条氏の居城であった。戦国時代のなかごろに中条氏は断絶し、白鳥十郎長久が後継者に迎えられたのだというが、中条氏が亡びたのちに十郎長久が進出を果たしたものであろう。
谷地城は村山平野を望む要地にあり、谷地城を継承した十郎長久は、城を大改修すると同時に城下町の整備に取りかかった。さらに十郎長久は、農業はもとより諸工業生産の保護奨励にも力を入れ、城下に鋳物師や刀鍛冶、大工などの職人を住まわせた。また、家臣を城下に住まわせたことで、かれらの食料や生活必需品をまかなうため、毎月二と六の日、月に六回市場を開設し、商業の隆盛にも注力した。このような十郎長久の城下町づくり、経済新興策は、同時代に生きた織田信長に相通じるものを感じさせる。
こうして、十郎長久は河北地方を掌握していった。そして、長久が勢力を拡大するほどに、一方で戦国大名化していく最上氏との対立を避けられないものとしていった。
最上氏との対立
最上地方の大勢力である最上氏は長く内訌に揺れたが、義光が家督を継承したことでにわかに勢力を拡大し、戦国大名として大きく台頭した。これに対して、天童氏、白鳥氏らも戦国大名を目指して独自の領国支配を展開し、天正五年(1577)、十郎長久は織田信長に使を出し名馬白雲雀を献上している。十郎長久の贈り物に接した信長はいたく喜び、返礼として書状とともに虎皮や豹皮、紅花などを贈っている。十郎長久は奥羽という辺境の地にありながら、よく中央の政治動向に通じ、天下の情勢を的確に判断していたのである。そして、織田信長に従属することで、最上義光に対抗しようとしたのであろう。
このような十郎長久の行動は、当然ながら最上義光を刺激し、義光は十郎長久の排斥を考えるようになるのである。義光は白鳥氏と同様に自立した戦国大名を目指した天童氏は武力によって没落させたが、十郎長久に対しては婚姻策をもって対したのであった。おそらく、義光は十郎長久の武略を警戒して、婚姻策によって十郎長久を懐柔し、機会をみて謀殺しようと図ったのである。
いずれにしろ、最上氏と白鳥氏とは姻戚関係に結ばれ、義光は十郎長久を山形城に招いた。しかし、十郎長久は義光の謀略を警戒してそれを受けなかった。それではと、義光は重病と触れだし「今後のことを十郎長久に相談したい」と再三にわたって十郎長久を誘い出したのであった。
さすがの十郎長久も義光は本当に重病なのかも知れないと思うようになり、ついに、山形城に赴くことに決した。これに対して家臣たちは義光の謀略であると反対したが、十郎長久は「恐れる必要はない」と山形城に出かけた。義光の枕許に案内された十郎長久は、義光から一巻の書を差し出され、それを受取ろうとしたところを斬り付けられた。剛勇で鳴らした十郎長久もこれにはたまらず、あっけなく斬殺されてしまったのである。天正十二年(1584)のことであった。
戦国時代の終焉
白鳥十郎長久が殺害されたとき、織田信長はすでに亡く、豊臣秀吉が信長の天下統一事業を継承していた。十郎長久の死の翌天正十三年には、秀吉は関白となり、「応仁の乱」以来およそ一世紀にわたって続いた戦国時代も終焉を迎えた。白鳥十郎長久が殺害されたのちの白鳥氏の動向については、いまに伝わるものはない。
白鳥十郎長久を謀殺した最上氏は「関ヶ原の合戦」を経て五十七万石の大大名になったが、義光の孫義俊の代に家中内紛によって大名の座から転落した。白鳥十郎長久が丹精を込めて修築した谷地城も最上氏の改易によって廃城となり、その後完全に取り壊されて跡形もなくなった。かくして、白鳥氏の名残りはまったく失われてしまったのである。・2005年3月17日
【参考資料:河北町の歴史 など】
→白鳥氏のページ
■参考略系図
・『河北町の歴史』に掲載された系図を低本として作成。
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