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白河結城氏
巴/竹雀三端頭
(藤原氏秀郷流)


 結城氏は藤原秀郷の後裔頼行を祖とし、朝光のときに至って結城を領して以降結城氏を名乗ることになった。朝光は、治承四年の源頼朝の挙兵に従い、また翌年の志田義広の討伐に功を挙げ、頼朝から重く用いられた。
 文治五年(1189)、源頼朝の奥州征伐ののち、小山政光の子朝光は白河・岩瀬・名取の三郡を与えられたという。そして、その後の正応二年(1289)、結城朝光の孫広綱の弟祐広が初めて白河に移住したと伝えられる。しかし、祐広の父朝広は康元元年(1256)、執権北条時頼の出家に際し、剃髪して信仏と号しているが、朝広出家の地は白河であったと伝えられており、すでに、康元元年前後には白河結城氏が、その本拠を白河に移していたとも推定される。

結城氏の惣領となる

 元弘三年(1333)の元弘の乱に際して、宗広は幕府西征軍に参加し、大塔宮護良親王の令旨を受け取りながら挙兵することがなかったのは、北条氏との深い関係が背後にあったことと、たまたま鎌倉に在って動きが取れなかったためと考えられる。のちに南朝の忠臣として活躍する宗広としては、その初めの動きは遅かったと感じざるをえない。他方、嫡子親朝の弟親光は、さきに幕府軍として西上したが、のち足利尊氏に先だって後醍醐天皇方に移り、男山八幡および山崎の合戦に六波羅軍を破る功をたてている。建武新政がなると、北畠顕家が陸奥守に任じられた。かれは下向に先だって、結城宗広に陸奥国諸奉行のことを委任し、親朝に糠部郡九戸を宛行った。
 建武元年(1334)正月、陸奥国府の新体制が成立し、宗広・親朝父子は式評定衆に任命された。建武奥州府の要職についた宗広らに、立て続けに恩賞が下された。なかでも注目されるのが結城惣領として一族を支配すべきこと、というものであろう。その他、石河庄中畑、依上保、白河荘金山郷新田村などの領地・知行を受けた。宗広・親朝らがうけた恩賞は、奥州武士のなかで比類をみないものであった。これは、宗広一族の軍忠もさることながら、奥州の関門である白河を押さえ、鎌倉時代以来の奥州の重鎮であり、かつ源平に対する藤原姓の名門であるなど、宗広のそなえた諸条件が新政府にとって最大の頼りになる存在として映った結果でもあったろう。
 こうして宗広父子は、下総結城氏に代わって、結城本宗=惣領となり、白河など八郡を検断する職務を獲得した。八郡の武士団に対する軍事・警察権を公認されたことで、八郡の武士団との主従制を形成する素地をも手中に収めることになったのである。
 建武三年(1336)正月、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し天皇を坂本に走らせた。このとき、親光は足利軍との戦いで戦死した。前年の十二月下旬、北畠顕家は奥州を出陣し結城宗広・親朝父子ら一族もそれに従った。北朝方の斯波家長は、相馬行胤・朝胤父子、信夫佐藤性妙、伊賀盛光らを従えて、その上洛を阻止しようとした。石川氏も佐竹氏と呼応して、広橋経泰が率いる岩城・岩崎勢を迎撃し、白河城に攻め寄せ猛攻を加えた。

動乱期の白河氏

 顕家以下宗広・親朝らの奥州軍は北朝勢を撃退して、正月十二日に近江に到着した。そして十六日、新田義貞の軍と合流して、北朝方の籠る三井寺を攻め、足利軍を都から追い落し南朝軍は京都を回復した。天皇は宗広の軍功を賞し、所領を与え、鬼丸の太刀を与えられた。親朝は下野守護職に補任された。
 九州に落ちた尊氏はその地で軍容を立て直し、ふたたび東上の軍を起こし、京都を回復した。後醍醐天皇は北畠顕家に上洛を促し、顕家はふたたび兵を率いて上洛の途についた。宗広もまたこれに従軍した。このとき、宗広は白河の留守をする親朝に書を送って後事を託した。顕家・宗広以下の軍は鎌倉を攻略し、北方の将斯波家長を討ち取り、そのまま兵を西に進めた。しかし、美濃国の合戦で北朝方高師泰・師冬らの軍に敗れ、伊勢路をたどり、奈良を経由して天王寺に至った。そして、五月、阿倍野の合戦において北畠顕家は戦死し、奥州軍は壊滅的な敗戦を被った。
 それから三月余を経た九月、義良親王は、北畠親房・同顕信、結城宗広、伊達行朝以下を従えて伊勢国大津を関東に向けて出帆したが、台風のために親王と宗広らは伊勢に吹き戻された。その後まもなく、宗広は重病にかかって伊勢安濃津で死去した。宗広死後、南朝にとって最大の頼みとなるのは親朝となり、常陸に上陸した北畠親房が奥州に出す指令はすべて親朝に充てられるようになる。
 このころ、親朝は検断職を利用して、その所領と勢力の拡大につとめていた。また、南朝から一連の恩賞も与えられていた。親房は親朝を媒介として南奥の諸氏の誘降と軍勢催促につとめ、親朝はその条件としてかれらの恩賞および官途昇進のことを親房に申し入れ、あるいは南朝に直奏している。このように親朝は北畠親房から綿々切々たる軍勢催促を受けていたが、南朝を見限って北朝方に服属するのである。親朝が北朝方に転じたことは、北朝方にとって南奥州・北関東の南党を服属させることにもつながっていたのである。

白河結城氏の全盛

 関東に大乱が続いた十五世紀、足利将軍家が南奥の国人諸氏に下した御内書には、白川氏と談合して事を行うよう命じたものが多かった。このことは、当時、白川氏を南奥の覇者であることを幕府が認めていたことを示している。そして、白川氏の勢力が頂点を迎えたときの当主は直朝であった。直朝は、宇都宮等綱を保護し、那須家の内訌を調停し、内訌に悩む佐竹氏を援助するなど、関東諸氏に勢力をおよぼした。
 文安年間(1444〜09)岩城一族の岩崎氏の紛争に介入し、いわき地方に勢力を張り、おなじころ石川氏に対しては石川一族の蒲田城を破却させ、蒲田氏の所領とその文書を没収した。また、会津地方に対しては、当主盛詮の危機を弟小峰直親とともに再三にわたって救援した。このような直朝の威勢は、満朝のときまで結城白川氏の手にあった諸郡検断職の伝統に基づくものであったことはいうまでもないだろう。
 直朝の子政朝は、文明十三年(1481)三月、白河城下の鹿島神社の神前で、一日一万句の連歌会を催した。伝存する「発句の次第」によれば、政朝、一族の直常を初めとした二十人の士が一座五人からなる連座の座頭となり、合計百人の連座の衆が、各一句を詠んでいる。政朝は「世を照らす 花や御心 神の春」と発句し、入道して道朝と号していた直朝は「時しるや 鼓にひらく春の花」と吟じた。まさに白川氏のわが世の春をたたえる句といえるものであろう。
 このころ、関東には乱が続いていたが、南奥の天地は平穏であった。直朝・政朝らは、この平穏が白川氏の威勢のもとに維持された平和であると意識していたものと思われる。まさに絶頂のときであった。  これより先の文明二年(1470)六月、政朝は相馬高胤の願いをいれて一揆契約を結び、同六年には岩城親隆と兄弟の契約を結んだ。さらに、同十六年のころ、石川一族の赤坂・大寺・小高の三氏が石川宗家を離れ、白川一家として氏をかえ家紋をかえて政朝に従った。延徳元年(1489)には、伊達.葦名・小山・下総結城と連合して常陸国小里まで出兵し、佐竹義治の捨て身の反攻に敗れはしたものの、晩年に至るまでの政朝の治世は、栄光に彩られていた。
 しかし、その威望の大きさの反面、白川氏の領主権の及ぶ領地と家臣団は以外に小規模なものであった。しかも、一族小峰氏の勢力は、白川宗家に拮抗するほどの大きさをもっていた。やがて来るべき大名領国制の時代に至れば、白川氏のこのような権力構造は不利となることは明白であった。そして、政朝の晩年に至って、白川氏の命運は破綻をきたすことになるのであった。

内訌と白川氏の衰退

 白川氏の最有力一族である小峰氏は、南北朝のとき、親朝が分家として創立したものである。親朝は長子顕朝を父宗広の跡を相続させて結城白川氏の惣領とし、自らは新たに小峰氏を創始したのである。そして、次男朝常を小峰惣領としてその所領を継がせたた。当初から小峰氏の所領は宗家のそれと匹敵するものであった。以後、宗家に嗣が絶えると小峰氏から養子が入った。直朝もまた小峰氏から入って宗家を継いだ人物であった。
 永正七年(1510)政朝は小峰氏の当主朝脩を自殺させた。政朝ははじめ小峰直親の娘を室とし、顕頼をもうけたが、のち葦名氏から後妻をめとり、その間に生まれた五郎を愛して嫡子顕頼に家督を譲ろうとしなかった。朝脩の自殺は、顕頼をめぐる白川・小峰両氏の緊張と、朝脩のやりすぎが政朝に忌まれた結果であったという。
 朝脩の自殺後、父直常は岩城常隆の援助を受け、永正七年九月、政朝を急襲した。政朝は次男の養家先の那須に走って以後消息を断った。五郎は、葦名を頼って会津に逃れた。顕頼は、父の跡を継いで白川氏を継いだ。これまで、相互に婚姻を通じ、あるいは嗣子を送って対立することのなかった白川宗家と小峰氏との関係はここに破綻し、それは、結城白川の家運をかたむねる要因となったのである。
 永正七年、依上保が佐竹義舜に奪われた。同じころいわき地方の所領もまた、岩城氏の手に帰し、下野国武茂庄、常陸国小里・久慈郡各地、石川庄の所領など遠隔地の所領はいずれもこのころに失われたようで、以後、白川氏関係の史料からその名を消すにいたる。白川氏の所領はここに、白河郡・高野郡および石川庄の一部に縮小されることになった。内訌の代償はあまりに大きかったといざるをえない。
 このころ、関東では古河公方足利政氏とその子高基とが不和になり、十一年ころには抗争が頂点に達した。関東の諸士の多くは高基に与したため、政氏は南奥の諸士に荷担を働きかけた。なかでも政氏が最も大きな期待を寄せたのは岩城氏であったが、常隆はこれを容れず、逆にその和解をすすめた。しかし、政氏父子の関係は修復できず、佐竹義舜とともに、宇都宮忠綱を那須口および宇都宮に攻めた。白河顕頼は岩城氏に応じてこの攻撃に参加した。また、永正十七年の那須氏の内訌に際しては、実弟那須資永の弔合戦として、岩城氏の援助を受けて那須を攻めている。
 かつて、足利成氏の乱には、幕府と成氏の双方からもっとも頼みとされたのが白河直朝であった。政氏・高基の父子不和に際して双方から頼りとされたのは岩城氏であり、白河顕頼は岩城氏に属して行動するに過ぎない存在であった。白河氏の衰退は、ここにも明らかなものであった。

打ち続く戦乱

 その後、白河氏の衰退はさらに進み、天文二年(1533)顕頼の孫晴綱は、田村隆顕と和睦し血盟を行ったことが『仙台白河系図』に注記されている。天文初年から田村隆顕は白河氏を攻めていて、隆顕は白河領四十二郷の半分を攻めとり、白河氏をその麾下に属せしめたといわれる。ついで、天文三年には、岩城重隆の息女の結婚をめぐって、伊達・葦名・二階堂・石川の連合軍が白川領の新城を攻めている。
 天文十一年から同十七年に至る伊達稙宗・晴宗父子の抗争にもとづく「天文の乱」は、南奥の諸士を巻き込んだが、白河晴綱がこの乱に積極的に参加した形跡はない。ただ、天文十四年に二階堂氏の岩瀬郡を侵したこと、同十五年、晴宗から田村隆顕を背後から牽制するように要請を受けたことなどが知られる。
 天文の乱の過程で、葦名氏は勢力を大きく伸ばした。乱以前から岩瀬郡長沼地方に伸びていた葦名氏の手は、白川領にまで及ぼうとしてきた。他方、常陸の佐竹義篤は、白川領の高野郡南部に侵入し、白河氏は岩城重隆の調停によって佐竹氏と講和したが東館は破却された。その結果、白川領の南境は佐竹氏の手に落ちることになった。その後、白河氏は葦名氏と結んで、佐竹氏と当たる政略を選んだ。弘治元年(1555)白河一門の小峰義親と葦名盛氏の息女との結婚は、その一つの結果でもあった。
 弘治二年、二階堂輝行が新城に侵入したが白河軍はこれを撃退し、永禄二年(1559)逆に須賀川に迫った。永禄元年には那須資胤が白川領の皮籠原に肉迫し、晴綱はようやくこれを撃退し、永禄三年三月、盛氏の援助を得て小田倉に那須軍と戦った。しかし、白河氏にとって最大の敵は、佐竹氏であった。同じ永禄三年、佐竹義昭は那須氏に応じて南郷に出馬し、寺山城を落し、南郷はことごとく佐竹氏の手におちた。以後、佐竹氏は寺山を拠点として仙道進出の軍事行動を進めることになる。
 晴綱は葦名氏を頼って佐竹氏と対抗したが、その後も佐竹氏の北上は止むことはなかった。元亀二年(1571)葦名.田村連合軍が、佐竹義重と激戦を交え、義重を敗北させた。この戦には白川氏も参加したと思われるが、晴綱の名はみえない。おそらく、これは晴綱が重病の床についていたためであろう。元亀三年七月、葦名盛氏と佐竹義重は上杉謙信らの調停によって講和した。

佐竹氏の攻勢

 当時、晴綱は重病の身で、嫡子義顕は六歳の幼児であったため、小峰義親がかわて軍事指揮に当たることになった。天正二年(1574)赤館まで進出した佐竹義重に対して、葦名盛氏は田村清顕とともに、小峰義親を援助して出撃した。これに対し義重は赤館を抜き、近隣の諸城をすべて落し、ついに白川本城を攻め落とした。わずかに義親のいる関和久城だけが残され、白河義顕は那須に一時移るという危機におちいった。
 天正三年正月、白川義顕は初野の行事のため白河城を出た。後見の義親は、かねての計画どおり、たやすく白河城を乗っ取り、義顕の帰城を待ち受けてこれを殺害しようとした。家老の郷石見守・同土佐守らは義顕を助けて田島城に移し、さらに会津の柳津虚空蔵別当のもとに逃れさせた。こうして白川小峰義親による宗家乗っ取りが実現した。しかし、白川家中には、義親に反対し、晴綱の妾腹の子晴常を名代にしようと計画する者もあり、家中は騒然たる情勢となった。
 佐竹氏がこれを見逃すはずもなく、白川城をふたたび攻め、これを陥落させて白川領全土を征服し、義親以下を捕虜とし、常陸に凱旋した。天正七年(1579)佐竹義重の二男義広が白川城に入り、義親の養子として白川氏の主に据えたのである。ここに至って、佐竹氏の主導により白河領は平静を取り戻した。
 一方、会津に逃れていた義顕は葦名盛隆の尽力で白河領に帰った。義広は養父義親の勢力を牽制するためにも義顕の帰国は望ましかった。とはいえ、義顕の帰国は白河城復帰でなかったことは当然で、かれは、白河城北部の小田川の岩窪切岸城を与えられ、小田川・太田川・大和久以下の七郷を領するにとどまった。
 天正十五年(1587)、義広は葦名盛隆の後嗣となって会津に移った。しかし、義広の跡は、義顕ではなく、義親によっって継承された。結城白川氏の嫡流はふたたび白川の主となることはなく、小峰系が佐竹支配の傀儡として白川家督を継承したのである。
 その後、南奥は伊達政宗の行動を軸として大きく動いていくことになる。天正十七年、政宗は葦名義広と会津の猪苗代湖の西、摺上原で戦い、伊達勢は葦名勢に大勝した。敗れた義広は黒川城に戻ったものの城中は不穏な気配でもあり、白河を経て実家の常陸佐竹氏に去っていった。ここに葦名氏は滅亡した。

白川氏の没落

 葦名氏滅亡以後、白川義親は政宗に服した。やがて、伊達氏の関心は豊臣政権への対応に向けられるようになった。天正十八年三月、秀吉は小田原北条氏討伐の軍を進めてきた。政宗は小田原に参陣した。この小田原参陣のことは、政宗にとどまらず、白川義親ら、伊達に服属しながらも、独自の領内支配権を有する小大名たちにとっても存亡を決する重大問題であった。
 北条氏を滅亡させた秀吉は、八月黒川城に入って「奥州仕置」を行った。白川義親らは小田原不参によって改易となり、所領は没収され、白川氏は鎌倉以来の地である白河を離れていかざるをえなかった。  その後、義親は伊達政宗に召し抱えられ、義親より三代あと、宗広の時に伊達一門に列せられている。

■参考略系図

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