塩川氏
二つ引両
(清和源氏か)
後裔にあたる匿名希望の方から
 ご教示いただきました。

 戦国時代の摂津の国人領主の一で、山下城(別名一蔵城)に拠った塩川氏が知られている。山下城は『細川両家記』には一蔵城と記され、『摂陽軍談』には「塩川氏が甘露寺を破壊して山下城を築いた」と記されている。いずれにしろ山下城は戦国武将塩川氏が割拠した城であり、典型的な戦国山城の特徴を持つ城である。
 さて、塩川氏のことであるが、『多田雪霜談』『高代寺日記』などが伝わり、『明智軍記』にも登場するが、その出自、系譜などは明確ではない。流布されている説として、多田源氏の祖源満仲の女婿塩川刑部丞仲義がおり、刑部丞仲義が多田の新田城の控えの城として山下城を築いたとされる。そして、塩川氏は代々伯耆守を称し、嫡流は太郎左衛門尉と名乗ったようでもある。鎌倉時代以降、塩川氏は多田院御家人筆頭として多田庄及び能勢郡一帯に勢力を持っていたことは疑いない。
 塩川氏の名は諸資料に散見されるものの、その存在が歴史上に現れてくるのは、天文十年(1541)九月のことである。ときの一蔵城主塩川伯耆守政年が、幕府管領家である細川氏の権力闘争に巻き込まれたのである。

●打ち続く戦乱と塩川氏

 十五世紀の「応仁の乱」に始まった戦国時代は、これまでの社会体制を一変させた。十六世紀になると、日本各地に群雄が割拠して互いに抗争を繰り返し、それは下剋上の風潮を生み、幕府将軍から守護大名などの伝統勢力の存在を大きく揺るがせた。その結果、幕府内では将軍の権力が失墜し管領家も分裂して、それぞれ抗争に明け暮れるようになった。
 政年は細川高国の女婿であり、細川氏に反旗を翻した三好長慶、同政長、丹波の波多野秀忠らが塩川氏を攻めたのである。この事態に対して政年は、伊丹親興、三宅国村らに助勢を頼み、さらに河内の有力者木沢長政に援軍を依頼した。木沢軍の来援し、後詰軍が伊丹城に集結すると、三好連合軍は包囲を解除して兵を引き揚げている。
 その後の天文十八年、三好長慶と三好政長が袂を分かち、細川晴元を後援する政長が晴元とともに一蔵城を頼ってきた。在城は一月ほどの事だったようで、一蔵城を出た晴元と政長は、同年中の合戦で政長が戦死し長慶が畿内における有力者に台頭した。
 やがて、塩川氏の最盛期を現出する国満が登場してくる。天文二十二年、三好長慶は丹波八上城に波多野氏を攻めていたが、その包囲陣から芥川孫十郎が離脱して芥川城に籠って反旗を翻したのである。長慶はただちに芥川城を包囲攻撃、反長慶派の塩川国満は芥川孫十郎を救援するために池田まで進出した。しかし、塩川氏の救援も空しく芥川城は落ち、以後、長慶は芥川城を居城として摂津国人衆を勢力下に置くようになったのである。
 かくして、摂津を含む畿内は三好長慶の支配下となり、長慶は全盛期を現出した。やがて、長慶の権勢にも翳りがみえはじめ、永禄六年(1563)には嫡子の義興が松永久秀に殺害され、翌七年には実弟安宅冬康をみずから殺害、そして、長慶自身も同年七月に河内飯盛城で病死してしまった。

 
●一蔵城址
塩川氏の居城という一蔵城(別名山下城)は、草木に覆われて往時の面影を辿ることは難しい。また、山下山の向かいにある城山が居城祉とする説もあり、塩川氏の事蹟には謎が多い。

・右:一蔵城山麓にある善源寺境内に佇む伝塩川氏供養塔
・左:一蔵城址遠望

●織田信長の上洛

 長慶死後、松永久秀と三好三人衆が畿内を制圧していたが、かれらは将軍義輝を暗殺し、さらに内部分裂を起して時代は混迷の度合いを深めていった。そのような永禄十一年、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛、松永久秀は降服し三好三人衆は京から逃れ去った。さらに、三好一党が奉じていた将軍義栄が病死したことで、義昭が将軍に就いたため、諸勢力は義昭を奉じる信長に靡いていった。
 摂津の国人らも信長に通じ、伊丹城主伊丹親興は摂津の三好方諸城を攻略して、信長から兵庫頭を与えられ、さらに三万石を給されている。塩川国満も信長上京時に帰順し、二万石の旧領を安堵された。
 畿内を制圧した信長は、伊丹親興、池田勝正、和田惟政を摂津守護に任じ、摂津は三守護時代となる。そして、元亀元年(1570)国満は三好方の野田、福島砦の攻撃に参加している。その後も時代は急変を続け、摂津三守護の伊丹、池田、和田氏らは没落し、荒木村重が有岡を居城として摂津一国を領するようになった。国満は村重の娘婿となり、荒木体制に組み込まれたのであった。
 このころになると、信長は石山本願寺との抗争を激化させ、国満は村重に属して毛利の本願寺救援を阻止するため一蔵城の守備に任じた。ところが、国満に従う多田御家人衆のなかから本願寺に通じる者があらわれ、天正五年(1577)、国満は津田信澄の応援を得てそれら多田御家人衆との戦いを繰り返した。
 天正六年、荒木村重は羽柴秀吉と共に播磨に出陣した。しかし、村重の麾下である塩川国満(一説に長満)は、明智光秀に従って丹波攻略に参加している。同年、荒木村重が信長に反旗を翻したとき国満もそれに従ったが、村重与力の高山右近・中川清秀らが信長に降服すると国満も信長に帰順した。
 以後、国満は有岡城攻め、丹波攻め、三木の別所攻めに参加し、村重が有岡を脱出した天正七年十月、信長から能勢郡の石清水八幡宮の善法寺領の代官に命じられている。また、国満(長満とも)の娘は信長の嫡子信忠の側室に上り、秀信を生んだといわれている。塩川氏は、信長政権下で一定の地位を築いていたのであった。

●戦国時代の終焉

 信長は、天正八年(1580)石山本願寺と和睦、天正十年には甲斐武田氏を滅ぼし、天下統一も目前という、まさに得意絶頂期を迎えていた。ところが、同年六月明智光秀の謀叛によって京都本能寺で殺害されてしまったのである。そして、羽柴秀吉と明智光秀とが戦った「山崎の合戦」が起り、塩川氏も秀吉軍に参加した。その後は秀吉に従って、翌年の紀州霧坂遠征にも出陣している。
 ところで、塩川氏は領を接する地黄城主能勢氏とは代々折り合いが悪く、能勢頼道は荒木村重の謀叛に同調したこともあって勢力を失墜していた。そのような天正八年九月、塩川長満は能勢頼道を謀略をもって殺害したのである。能勢家は次弟頼次が家督を継いで塩川氏と対立し、両者は合戦を繰り返し、その関係は決定的に険悪化していった。
 天正十二年、塩川、能勢氏領の農民同士が争い、双方に死傷者が多数でた。農民たちは双方の領主に訴えでたため、塩川、能勢両氏は一触即発の状態となった。このとき、塩川氏は豊臣秀吉に調停を訴え、秀吉が両者の仲介をして事態を収拾した。
 天正十四年四月、秀吉は九州征伐の軍役の触れを回し、それは国満(長満であろう)の元にももたらされた。国満は麾下である多田院御家人衆にも軍役の督促を行ったが、それに従わないものいた。従わないものたちの背後に能勢氏がいるとみた塩川氏は、能勢氏の攻略を図ったのである。そして、両者の間に大規模な戦闘が起こったが秀吉の命で停戦に至った。
 
多田御家人、縁りの地を訪ねる

・源氏の氏神であり、多田御家人の拠り所であった多田神社
・塩川氏の故地、猪名川町で見た多田御家人の後裔というN家屋敷

●塩川氏の没落

 停戦の結果、能勢頼次は大坂城で秀吉に謁見し本領を安堵され、九州征伐の先鋒を命じられ出陣していった。一方の塩川氏は主君不在で手薄となった能勢領に侵攻して能勢氏の城を落し、不服従だった多田院御家人衆を屈服させた。この塩川氏の行動に対して秀吉は、行為不届きとし片桐且元、池田輝政、堀尾吉晴をして一蔵城の攻略を命じたのである。
 征伐軍は一蔵城を包囲し長満に上意による討伐である事を告げると、長満は上意であれば仕方なしとして開城、自刃し果てた。ここにおいて、長く多田院御家人筆頭として続いた塩川氏は没落の運命となった。この合戦のことは『多田雪霜談』に記述されたもので、信憑性という点で疑わしいところがある。すなわち、秀吉政権の膝下である摂津において、合戦を起こすなふぉ、まず信じ難いのである。
 塩川氏の没落について『高代寺日記』によれば、国満は天正四年に死亡、長満が天正十四年に死亡、その後御家騒動がありそれによって塩川家は取り潰しになったという話になっている。こちらのほうが、話しとしては信憑性が高いのではないかと思われる。
 その後、元和元年(1615)の夏の陣で長満の子塩川頼面が挙兵し、能勢氏領内に攻め込んだといい、能勢氏は松平康親・岡部宣勝ら幕府軍の協力を得てこれを撃破し、代々の宿敵である塩川一族を討滅したと伝えられれている。これが真実であるならば、ここにおいて塩川氏はまったく滅亡したことになる。

【主な参考文献】・川西市史 など
●摂津一蔵城主塩川氏

■参考略系図
・塩川氏系図はいまだ調べきれていません。御存知の方、御教示ください。

源満仲┬頼光   細川高国┬植国
   └女子       └女子
     ・         ・
     塩川刑部丞  伯耆前司             伯耆守
  … 仲義 … 仲章 … 政年─国満┬長満─頼面
                   └国良