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関 氏
揚羽蝶
(桓武平氏維盛流)


 「吾妻鏡」には、伊勢の鈴鹿地方に所在した関谷と呼ばれた鈴鹿庄が、伊勢平氏活躍の地で、平維衝が居を構えて以来、やがて関出羽守信兼と名乗る伊勢平氏が出現したと記している。信兼の弟信忠の子盛忠が関太郎大夫を名乗っていることが、『古代氏族系譜集成』所収の系図の註に見えている。
 また、一般的に関氏の祖と伝えられる平実忠は、盛国の子といわれているが、伊勢の「瑞光寺」や「加太氏系図」などによれば、実忠は盛国の子国房の長子となっている。ちなみに、盛国は平清盛の孫資盛の子とされるが確証はない。そして、元久元年(1204)の三日平氏の乱に功を挙げ、関谷の地頭に補され、関氏の初代を名乗ったとされている。
 実忠は『吾妻鏡』の各所に関左近大夫将監実忠の名で、平盛綱ら北条氏重臣とともに記述されており、当時、鎌倉にあって、北条氏の重臣として活躍してたものと推察される。
 ところで、関氏の出自については、以上のほかにも諸説があって一定ではない。そして実忠は宝治元年(1247)老齢のため本領に帰り、文永二年(1265)亀山城内で没している。実忠の没後、その子左近大夫国定(盛泰)、その子安芸守実頼(盛勝)、その子左近将監忠興(盛治)と、あいついで関谷二十四郷の地頭となったが、ともに鎌倉に在住し、幕政に参与したので、知行所の関谷には目代を置いて、これを治めさせたといわれる。しかし、この時代の目代が誰であったのか、また、実忠没後、五代忠興に至るまでの約七、八十年間にわたる関氏の治績や行動は、ほとんど明かではない。
 盛治のあとを継いで関谷の地頭となったのは、その子四郎左馬助盛政で、別名実治とも称した。関谷に拠った盛政は、元弘三年(1333)北条氏の滅亡に伴って関東から上り、地頭職として関谷に住して勢力を伸ばした。

中世の争乱を生きる

 延元二年(1337)、陸奥にあった北畠顕家が義良親王を奉じて西上したとき、これに従い、伊勢では北朝方の有力豪族長野氏や雲出川に構えた高師泰の軍と戦った。また『勢州軍記』によれば、正平十五年(1360)、伊勢守護仁木義長の討伐に功を立て、鈴鹿・河曲の二郡を給されている。そして、その子五人を、それぞれ亀山・神戸・峯・鹿伏兎・国府の各城に配して、北伊勢随一の豪族に成長した。またこれを総じて関の五家といい、いわゆる関の一党であった。
 その後、盛澄−隆盛−盛雅と引き継がれ、盛雅は応永六年(1399)に起こった「応永の乱」で、幕府方について伊勢国司の陣に馳せ参じて活躍した。さらに、同二十年以降、南北朝の対立が激しくなり、後亀山天皇の弟泰成親王が伊勢国司北畠満雅に助けを求めた際、その挙兵にあたって幕府軍と戦った。しかし、戦況利あらず、北畠氏は力尽き、盛雅も幕府軍に降伏した。
 十代の地頭を引き継いだ豊前守盛元は、応仁の乱のなかで最も激しかったといわれる相国寺の戦いで、備前の松田氏とわずかの兵騎で三条殿を守っていたが、山名方の大軍に敗れ、松田氏は敗死、盛元は退いている。
 戦国の動乱期には、中・北伊勢地方にまで勢力を伸ばしていたが、やがて織田信長の西上によって関一党はつぎつぎと信長に降り、離散した。天正二年(1574)、長島の一向一揆に対する信長の征伐は激しくなり、関盛忠も信長の属将蒲生賢秀に従って戦ったが討ち死している。盛忠の父盛信の幽閉とあいまって、関一党および家臣団は、信長のために離散に追い込まれていった。
 その後、盛氏の子一政は蒲生氏郷の麾下となり、秀吉の九州征伐や小田原征伐に出陣している。やがて、氏郷の会津転封によって、盛信もそれに従って白河城に赴き、白河城五万石を領した。関ヶ原の戦いのときには、はじめ西軍で、のち東軍に属し、戦後、旧領亀山城に移ったが元和四年(1618)改易され、子氏政が近江国蒲生郡において五千石を与えられて寄合に列し、家名を伝えた。


■参考略系図
本文にも記したように、関氏の出自は諸説あり、伝わる系図も諸本ある。いずれが真で、いずれが偽なのかは、判断が難しい。ここでは、『古代氏族系譜集成』所収の系図を中心に諸本を校合して作成。一部、本文の名前と一致しないところもある。



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