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佐治氏
●九本骨扇に日の丸
●桓武平氏  
大野佐治氏の後裔の方より情報をいただきました。大野佐治氏は丸がなく、本家に近い筋が九本骨の日の丸扇、その次が七本骨の日の丸扇(掲載家紋)、最後の末流の佐治家が五本骨の日の丸扇と、嫡流に近いほど扇の骨の数が多くなっているそうです。家紋の嫡庶の区別のあり方が分かり、興味深い。  


 佐治氏は甲賀郡佐治郷から発祥し、佐治城を本拠として中世の近江を生きた豪族である。甲賀郡は近江国南部に位置し、伊賀と並んで忍者の里として有名なところである。戦国時代の甲賀には、甲賀五十三家と称される大小の武士団が割拠していた。そのなかでも佐治氏は、山中氏、伴一族と並んで古い歴史をもつ武士であった。
 佐治氏の出自を探ると、平安時代末期の康平五年(1062)、平維時の子業国が佐治郷に住して小佐治を名乗ったことに始まるという。その伝を信じれば、平氏の分かれということになる。そして、業国は小佐治、神保、隠岐、伊佐野、平野の佐治郷五ケ村を領して佐治城を築いたと伝えられる。

乱世を生きる

 佐治氏の歴史に関しては不明なところが多いが、南北朝の動乱期、佐治河内守基氏と一族が近江守護佐々木道誉に属し、北朝方として活動していた。建武四年(1337)の正月、後醍醐方の勢力が信楽に蜂起した。これに対して道誉は、山中・岩室・美濃部・小佐治ら甲賀武士たちをもって迎撃させた。その後の一連の戦いにおいて、山中道俊が本隊を率い、小佐治基氏は別働隊に属して奮戦したことが『小佐治基氏軍忠状』によって知られる。
 その後、近江国南半分の守護職に佐々木六角氏が補任されると、甲賀郡の武士たちは六角氏の被官に組み込まれていった。佐治氏も六角氏の被官として勢力を維持、応仁の乱に際しては、美作守為氏が六角軍の一翼を担って各地に転戦している。また、為氏は乱の最中の文明二年(1470)、小佐治、伊佐野、平野三ヶ村の氏神である佐治神社の再建を行ったことが棟札に残されている。
 応仁の乱を生き抜いた六角高頼は、寺社領を押領するなどして勢力を拡大していった。幕府からは再三にわたって返還命令が発せられたが、逆に高頼は幕府奉公衆の所領までも押領するようになった。長享元年(1487)、将軍足利義尚は幕府の命令を無視し続ける高頼を討伐するため、近江に出陣した。いわゆる長享の乱であり、佐治河内守は三雲氏らとともに高頼を支援して活躍。義尚の拠る鈎の陣を夜襲、大いに武名をあげた。この戦いに活躍した甲賀武士五十三家が甲賀五十三家と呼ばれ、そのなかで高頼から感状をもらった二十一家がとくに甲賀二十一家に数えられ武名を讃えられたのである。

■甲賀二十一家
●柏木三家
山中十郎伴佐京介美濃部源吾
●北山九家
黒川久内頓宮四方介大野宮内小輔岩室大学介芥川左京亮隠岐右近太夫
佐治河内守神保兵内大河原源太
●南山六家
大原源三郎和田伊賀守上野主膳正高峰蔵人池田庄右衛門多喜勘八郎
●荘内三家
鵜飼源八郎内貴伊賀守服部藤太夫


 その後も六角氏は、戦いに敗れると甲賀に奔り、甲賀武士たちの支援を得て勢力を盛り返すということを繰り返した。時代は下剋上が横行する戦国乱世であったが、甲賀諸将の中から甲賀を統一して六角氏を倒して戦国大名に飛躍する者は出なかった。戦国時代、甲賀の武士たちは同名中を組織し、さらにそれが集合して「甲賀郡中惣」という地縁的連合体を結成しており、突出した大名が出にくい環境にあった。いいかえれば、甲賀郡の平和と秩序を維持した強固な自治組織をみずからで運営し、その庇護者として六角氏を立て、その軍事力の一翼を担ったとも考えられる。  
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佐治界隈を歩く


佐治城址を常楽院方面から見る。城址には虎口とおぼしき土塁の跡、城主と奥方が入水したという桝形池が往時を偲ばせ、出丸と思われる高所には小さな祠が佇み周囲には堀切の跡が残っている。城址はのどかな丘陵にあり、その素朴な風景は何かしら懐かしさを感じさせ、落城の修羅場があったことは微塵も感じられない。


佐治氏が佐治城の鎮護社として建立した佐治神社、文明二年の棟札には「佐治美作守平為氏」の名が残されている。・境内の神馬像には、佐治神社の神紋「巴」が刻まれている。佐治神社の北方にある佐治氏の菩提寺常楽院を訪ねると、境内に建立された墓石に佐治氏の「九本骨扇に日の丸」紋が刻まれていた。


佐治氏の没落

 やがて、江北の守護職であった佐々木京極氏が勢力を失うと、その被官であった浅井氏が勢力を拡大してきた。そして、長政が浅井氏の当主になると、六角氏と対立するようになった。両者は小競合いを続けたが、次第に六角氏は劣勢へと追い込まれていった。
 一方、永禄年間(1560ごろ)になると、尾張の織田信長が台頭、天下布武を目指す信長は浅井氏と同盟を結び上洛を企てた。永碌十一年(1568)、足利義昭を奉じて上洛の軍を起した信長は六角承禎に協力を求めたが、浅井氏と対立関係にある承禎はきっぱりと拒絶すると観音寺城に立て籠った。信長の攻勢に敗れた承禎は、観音寺城を脱出すると甲賀に奔りゲリラ戦を展開した。しかし、すでに六角氏には往年の求心力はなく、元亀元年(1570)、鯰江城落城をもって六角氏は没落した。
 当時、佐治氏の当主は美作守為次(為祐とも)であったが、為次は六角氏を離れて織田信長に通じたようだ。永禄十一年、信長の上洛軍に従って六角氏攻めに加わり、それらの功により佐治、平野、伊佐野、稗谷、今宿を安堵され、さらに蒲生郡にも給地を受けた。所領併せて一万四千石、佐治氏は小さいながらも大名に出世した。
 天正十年(1582)六月、信長が本能寺の変で横死すると、為次は豊臣秀吉に属して勢力を保った。しかし、天正十三年、為次ら甲賀諸将は秀吉の怒りにふれ領地没収の処分を受けた。すなわち、秀吉の紀州攻めに従軍した甲賀武士たちは、紀ノ川の堤防工事を担当したが、工事が遅れて秀吉から責任を問われたのであった。その背景には、秀吉が織田信雄・徳川家康連合軍と尾張で戦ったとき、甲賀武士たちが家康方に通じた気配があったこと。さらに秀吉は、甲賀武士たちが郡中惣をもって自立意識が強かったことを嫌い、甲賀武士たちを排除する機会を待っていたようだ。
 かくして、秀吉の理不尽ともいえる甲賀破議によって、甲賀武士たちはにわかに没落の憂き目となった。この秀吉の命に対して、為次ら佐治一族は佐治城に籠って抵抗した。しかし、多勢に無勢、堀秀政、中村一氏らに率いられた攻撃軍にさらされ、佐治城は敗れて落城、佐治氏は没落した。・2007年01月08日

参考資料:甲賀郡誌/甲賀町史/甲賀武士と甲賀・知多大野の佐治一族  ほか】

→大野佐治氏の情報にリンク



■参考略系図
・『佐治平氏由緒書』『甲賀郡誌』などの記述から推論して作成、親子・兄弟関係は必ずしも明確ではありません。詳細(正確な)系図をご存知の方、ご教示ください。


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