ヘッダイメージ



里見氏
二つ引両
(清和源氏新田氏流)


 里見氏は清和源氏新田氏流であるが、新田義重の三男義俊の後裔であることから、大新田氏流といわれている。義俊が上野国碓氷郡里見郷に住み、はじめて里見氏を称した。とはいえ、戦国大名としての里見氏といえば、ふつう安房の里見氏のことをさすので、安房にはじめて住むようになった義実が安房里見氏の祖とされている。

安房里見氏の誕生

 安房移住のきっかけは、江戸時代中期以後に書かれた『里見代々記』等の軍記物によれば、里見竹林二郎義秀から数代のちの里見家基は鎌倉公方足利持氏に仕えた。持氏が「永享の乱(1438)」で敗死したあと、持氏の遺児安王丸・春王丸を擁して幕府に敵対した結城氏に加担して結城城に籠城した。いわゆる「結城合戦」で、家基は結城城い籠城したが嘉吉元年(1441)の落城のときに戦死した。
 結城城落城に際して嫡子義実は、城を逃れて相模の三浦から海上を安房の白浜に渡った。これが、房総里見氏の始まりだという。義実が安房国に上陸した当時、安房国内には戦乱がうずまいていた。すなわち、鎌倉時代以来の豪族である安西・神余・丸・東条の各氏が、互いに隙をうかがって睨み合っていたのである。
 安房郡を領していた神余氏は家臣山下定兼の叛乱にあって滅亡し、これをみた安西・丸の両氏が山下定兼を攻め滅ぼした。そのあと、安西・丸の両氏が所領分配のことから争いとなり、安西氏は丸氏を滅ぼした。その結果、丸・神余の残党は白浜にいた義実を大将に頼んで結集した。義実は喜んで、軍兵を率いて安西氏討伐に向かい、安西氏は義実に降伏した。この余勢をかって義実は東条氏も攻め降して、白浜城を本拠に安房一国の支配者に成長したのだという。いくらかの真実はあるのだろうが、相当に伝説的な話といえよう。他方、『北条五代記』等では、安房に逃れた義実は安西氏に寄食して小禄を受けていたが、その孫義通のとき安西氏の部将として神余・丸・東条氏らを滅ぼし、ついには主家安西氏をも押領して安房一国を統一したとしている。  五代記の説の方が真実に近いように思われるが、いずれにしても根拠がない話なのでにわかには信じることはできない。結局のところ、安房里見氏の誕生は謎に包まれているとしか言えないようだ。
 ところで、里見氏と並んで安房・上総の戦国時代に活躍した、上総武田氏・正木氏・酒井氏・土岐氏などの諸将は、いずれも他国から入ってきて安房に勢力を築き上げた者ばかりである。かれらが勢力を伸張した背景は、室町中期の惣領制の崩壊によって安房は旧来の豪族による支配が崩れ下剋上の最中にあったことに求められよう。このような情勢におかれた安房に入ってきた里見氏の祖は、情勢をたくみに捉えて安房一国を統一したものであろう。

関東の争乱

 関東の政治の中心であった鎌倉府が滅亡した永享の乱、反上杉派の関東諸将が結集して叛旗を翻した結城合戦が終熄したあとの関東は管領上杉氏の力が強大化した。上杉氏の専制を嫌う関東の諸将は鎌倉府の再興を幕府に願い、それに上杉氏も同調したことで幕府もそれを許した。そして、持氏の唯一の遺児永寿王丸が許されて、将軍義成の一字を賜って成氏と名乗って新公方となった。ところが新公方成氏は父持氏や兄たちに加担して没落した結城氏らを再興したため、それに反対する管領上杉憲忠と対立、ついには憲忠を謀殺したことで「享徳の乱」が起った。そして、この享徳の乱が、「応仁の乱」に先がけて関東を戦国時代にたたき込んだのである。以後、関東は公方派と管領派に分かれて合戦が繰り返された。
 緒戦は公方方が優勢であったが、幕府は管領上杉氏を支援する立場で乱に介入し、駿河守護今川氏らに命じて成氏追討の軍を発した。敗れた成氏は鎌倉を失い古河に逃れ「古河公方」と呼ばれ関東戦乱の一方の拠り所となった。乱は二十年余にわたって続き、里見氏は武田氏らとともに公方方に属して行動した。文明十四年(1482)、越後守護上杉房定男らの尽力が実って、「都鄙の合体」と呼ばれる古河公方と幕府との和睦が成立した。
 ところが、間もなく関東管領山内上杉氏と一族の扇谷上杉氏とが対立するようになった。一方、古河公方家でも成氏のあとを継いだ公方政氏と嫡男高基の父子間で対立が起こり、関東は慢性的な戦乱状態が続いた。房総では、永正三年(1506)に扇谷上杉氏の重臣・三浦道寸が相模から渡海し砦を構え、足利政氏の勢力と上総の赤興や下総千葉荘の井花で合戦が行われた。やがて、足利政氏の勢力が弱体化し、政氏は下野小山氏のもとに逃れ、高基が古河に入城し事実上古河公方となった。
 これら旧勢力同士が抗争する間隙をぬって、伊豆の掘越公方を滅ぼし韮山を根拠とした新興の北条早雲が台頭し、関東進出を企図する早雲は大森氏を逐って小田原城を奪取して相模に進出すると、三浦氏と戦って鎌倉を占拠、永正十三年(1516)には三浦道寸を新井城に滅ぼし、対岸の房総へ侵攻するまでに成長した。早雲はまず上総の茂原に侵攻、翌年には上総真里谷武田氏の求めに応じ、三上佐々木氏の真名城を攻略した。これに力を得た真里谷武田氏は、かねてより対立していた小弓城の原氏を攻略せんとして、古河公方政氏の子義明を大将に小弓城を攻め落とすことに成功した。
 その後、小弓城には義明が入って「小弓公方」となり、武田氏の力を背景として上総に勢力を築き、武蔵・下総にまで勢力を拡大していった。この状況に危機感を抱いた古河公方高基は、永正十六年(1519)、下総弥富城を拠点に義明方の拠点である上総の椎津城を攻撃。同時に早雲の子氏綱が茂原へ侵攻、上総の佐貫大乱が起こった。義明方はこれらに対抗して和良比城に里見義通を配備し、関宿城攻撃を命じている。

里見氏の勢力伸張と内訌

 義通は、安房里見氏として史料のうえから実在が確認できる人物である。すなわち、永正五年(1508)安房鶴谷八幡宮を造営したことが残された棟札から知られ、棟札には公方政氏の武運長久を祈願しており、義通が古河公方に属していたことが分かる。また、八幡宮の造営を義通が行ったことは、安房国衙を掌握していたことを示している。ついで、永正十一年、鶴谷八幡宮の別当寺である那古寺の鐘を再鋳したことが知られる。 これらのことから、里見氏は義通の代にり、安房一国支配を実現していたとみて間違いないだろう。永正十二年(1515)には、小弓義明を奉じて下総に侵入し高城氏と合戦に及んでいる。義通は永正十五年(1518)に没したが、嫡子義豊は五歳の幼児であり、代わって弟の実堯が惣領となった。しかし、これは義豊が成人するまでのいわばリリーフ的なものであった。
 大永四年(1524)、北条氏綱が江戸城を奪取、江戸城を奪われた扇谷上杉氏は房総勢と結び後北条氏に抵抗、また、真里谷武田氏は後北条氏と手を切り、里見実堯らとともに義明の命を受け江戸城下の港湾都市・品川や今津などを海上から攻撃した。実堯は六浦から鎌倉に攻め入り、後北条方の玉縄城下の戸部川畔で一戦を交えている。その二年後の、大永六年(1526)にも小弓義明の命で実堯は鎌倉に侵攻し、鶴岡八幡宮を焼き宝物を奪ったという。大永四年と大永六年の三浦半島侵攻は一つの事件であった可能性もある。
 実堯は里見氏の当主として小弓御所を擁して活躍を示したが、義豊が成人しても家督を譲らなかったため、天文二年(1533)、それを恨んだ義豊が実堯の拠る稲村城を急襲した。しかし、実堯は吉日を選んで義豊に家督を譲ろうと思っていたところを襲われたため防戦する間もなく自害して果てた。こうして、義豊は里見氏の惣領職を奪い返したが、この乱は、鎌倉にまで侵攻しながら成果を維持できなかった実堯に配下の領主たちが不満をもち義豊を唆したのだとする説もある。実堯の死に際して城を脱出した実堯の嫡子義堯は義豊の追及を逃れて身を潜めた。
 その後義堯は、父の仇義豊を討つために宿敵であった後北条氏と結び、翌三年、その援助を得て犬懸の合戦で義豊軍を破り、稲村城に逃れた義豊を自害させた。この里見氏の内訌は一族・家臣も巻き込んだ内乱となり、里見氏の嫡流は断絶し義堯が里見氏の家督を継ぐことに成功した。翌天文四年十月、北条氏綱が河越城の扇谷上杉朝興を攻めると、義堯は後北条氏から前年借り受けた援助に対しての返礼として加勢軍を派遣した。
・里見氏が拠った館林城祉に復興された天守閣

小弓御所と後北条氏の対立

 話は前後するが、天文元年(1532)、北条氏綱は鶴岡八幡宮の造営を計画した。氏綱はこの造営を契機として、関東において政治的優位に立とうとした。氏綱は造営に当たって関東の将士に協力を求めた。これに従うことは後北条氏に服従することになり、反対すれば八幡宮に弓を引いたといわれる。そこが氏綱の付け目であり、後北条氏に対抗する関東諸大名は苦しい立場となった。
 氏綱は協力の使者を下総小弓にも派遣した。小弓は真里谷武田恕鑑の力を後楯に下総・上総をおさめる小弓御所足利義明の居館であった。このころ恕鑑は氏綱に江戸城を追われた扇谷上杉朝興に味方して氏綱と対立中であり、小弓義明も、義明の勢力拡大をおそれる兄の古河公方高基が氏綱に近づいていることから、後北条氏とは険悪な関係になりつつあった。
 このような、小弓御所義明、武田恕鑑に、氏綱は協力を呼び掛けたのである。小弓義明、武田恕鑑、房州の里見義豊らは協力を拒否したため、房総勢と後北条氏との対立は明確となった。このような天文二年に、義豊は叔父実堯を殺害したのである。義堯は北条氏綱に援けを求め、氏綱もまた房総攻略の好機到来として義堯を援助したのである。義堯は氏綱の支援を徳として後北条氏に従うようになった。
 このころ、上総真里谷武田氏では、武田恕鑑が亡くなり、そのあとをめぐって子の信隆・信応の兄弟が家督争いを起こした。信隆には後北条氏が、信応には小弓公方義明が味方した。そして天文六年、、義明は信隆攻撃を決し、義堯にも参戦を命じてきた。これを断ると小弓公方の大軍を迎え撃つことになり、窮した義堯は小弓義明方に転じて信隆を攻撃した。氏綱は信隆を援助しようとしたが、力及ばず、信隆は落居し、里見義堯は後北条氏と袂を分かつことになったのである。
 やがて、小弓公方義明は、古河公方攻撃を目論み、関宿城攻撃のために国府台の要塞へ陣を進めた。一方、古河公方足利晴氏は後北条氏に義明追討を命じ、天文七年(1538)、第一次国府台合戦が勃発した。結果は、北条氏綱の大勝利で、義明は戦死、子の頼純らは安房に逃れた。この戦いによって馬加千葉氏、原氏、武田氏ら、房総諸豪のほとんどが北条氏に従属するにいたった。里見氏は国府台合戦で敗れたものの里見軍は致命的な損傷をまぬがれており、義堯にとっては目の上のたんこぶであった小弓御所が滅んだことで、版図拡大がしやすくなったことも事実であった。

里見氏の勢力拡大

 このことから、里見氏は負け肥りをしたとするものもあり、国府台の合戦に小弓御所義明を敗退させて滅亡に追い込んだのは後北条氏ばかりではなく、義明に味方した里見氏ら上総諸将も一役かったとしている。たしかに、第一次国府台合戦後、西上総に深く侵攻した後北条氏は上総武田氏の旧領をほぼ掌握、上総に強い影響力を発揮するようになり、上総の諸将もは後北条氏になびくようになった。しかし、里見氏は決定的敗北を蒙ったわけではなく、その実力も温存されていた。そして、着々と失地回復に努め、勢力を拡大していったのである。
 天文八年二月、義堯は後北条方の上総有吉城を攻撃したが、翌年には後北条方の水軍が里見氏の本拠安房を攻撃してきた。十年から十一年にかけて義堯は本拠を安房の稲村城から上総の久留里城に移すとともに、麾下の正木時茂・時忠兄弟に命じて勝浦城を攻略している。こうして、義堯は着々と下総侵攻の布石を打っていった。このような里見氏の活動に対して、天文十二年、氏綱のあとを継いだ北条氏康は上総大多喜城主の武田朝信に働きかけて上総の笹子城を攻略させた。義堯もただちに笹子城の近くにある中尾城を正木時茂に攻め落とさせ、さらに時茂は大多喜城を攻撃して武田朝信を討ち取り、大多喜城を後北条方から奪い取っている。
 房総を舞台に里見氏と後北条氏の抗争は続き、里見義堯は手強く戦い後北条氏の上総侵攻に立ちはだかった。そして、天文十四年両上杉・古河公方の連合軍八万騎が河越城を攻撃たが、氏康は寡勢をもって連合軍に勝利し、扇谷上杉氏を滅ぼし管領上杉氏を居城に追い払い、古河公方を屈服させるに至った。平井城に逃れた管領上杉憲政はその後も余喘を保ったが、ついに天文二十一年、越後の長尾景虎を頼って関東から逃れ去った。
 後北条氏が着々と勢力を拡大していくのに対して、里見氏の勢力も天文二十三年(1553)から弘治元年(1555)ころに絶頂に達したといわれる。とはいえ、管領山内上杉氏を追放した後北条氏は関東に君臨するようになり、伊豆・相模に加えて武蔵を制圧し、上野・下野・房総にまで睨みをきかす存在になっていたのである。いくら里見氏が全盛にあるとはいえ、里見氏単独で戦える相手ではなくなっていた。そこで里見氏は、関東管領上杉憲政を庇護し関東管領職と上杉名字を譲られた長尾景虎と結んで後北条氏に対抗しようとした。

上杉謙信の関東出陣

 天文二十三年(1554)里見氏は長尾氏と「房越同盟」を結び、これが長尾景虎の関東出陣をうながす要因ともなった。一方、房越同盟に対して北条氏康は甲斐の武田信玄、駿河の今川義元に呼びかけて甲駿相の「三国同盟」を締結した。
 北条氏康は三国同盟を後楯として、この年の十一月、北条綱成とともに二万の軍を率いて里見氏の本拠久留里城を包囲した。対して、里見義堯・義弘父子はこれを撃退し勇名を近隣にあげた。攻略に失敗した後北条軍は翌弘治元年にも久留里城に押し寄せたが、成果をおさめることができなかった。翌二年になると、義弘を大将とする里見勢は兵船八十余を仕立てて三浦半島を襲撃し後北条水軍を撃破し鎌倉を制圧した。
 長尾景虎が本格的に関東の諸将に陣ぶれをしたのは永禄三年(1560)のことで、これに対して北条氏康は八月、大軍を率いて里美義堯・義弘父子の立て籠る久留里城を包囲・攻撃してきたが、景虎の越山を知った氏康は久留里城の包囲を解いて武蔵松山城に引き上げた。関東に入った景虎は、沼田城・厩橋城を落し北関東を席巻すると厩橋城を本拠とした。厩橋で越年した景虎は翌四年三月、十一万の大軍を率いて小田原城に立て籠る北条氏康を攻めた。
 このとき、義堯の子里見義弘が軍を率いて参加し謙信に謁見した。小田原城の堅守に長陣を嫌った景虎は囲みを解くと鎌倉に入り、鶴岡八幡宮において上杉憲政から譲られた関東管領職の就任式を執り行った。そして、同時に譲られた上杉名字を名乗って上杉政虎と改めた(以下、謙信で表記統一)。以後、上杉謙信と謙信に味方する里見氏は、古河公方の継承問題も含め各地で後北条氏と対立することになる。謙信は連年のように関東に兵を出し、後北条氏と合戦を繰り返した。永禄五年、北条氏康が武田信玄と連合して武蔵松山城を攻撃した。謙信は里見氏に救援を要請し、義堯もそれに応えて出陣したが救援もむなしく松山城は落城してしまった。

第二次国府台の合戦

 謙信の要請をいれ安房・上総の軍を率いて下総に出陣した義堯父子は、岩槻城主の太田三楽資正と連絡をとり後北条軍との決戦を企図した。この情勢を、江戸城代の遠山氏からの急報で知った氏康は早速行動を起こした。このとき、謙信は常陸土浦城の小田氏治を攻撃中であり、氏康は電撃作戦による短期決戦を行うことで謙信に背後を突かれることを回避しようとしたのである。
 一方、合戦を前にして里見・太田連合軍は、江戸城にあった太田資康に調略の手を伸ばした。資康は道灌の曾孫にあたる自分が城主にもなれないことに不満を抱いていた。氏康は太田三楽と密議をこらし、北条氏康・氏政らを国府台におびき出してその背後から江戸城を攻めるという計画を練ったのである。しかし、資康の密議は露見し、資康は江戸城を脱出して岩付城の太田三楽のもとに逃れた。ここに至って資正は里見義弘に出陣を要請しみずからも国府台に出陣して、後北条氏を迎え撃とうとした。翌七年(1564)正月、北条氏康・氏政父子らと太田・里見連合軍は、江戸川を挟んで対峙した。
 後北条勢は、北条綱成を先陣として松田憲秀、そして本隊の氏康・氏政父子、後陣に北条氏照・氏邦、大道寺直家ら総勢二万余騎を動員した。対する連合軍は国府台上に陣取り、一部を国府台の下に展開していたが後北条勢の到着を確認すると、台上に引き揚げていった。これを見た遠山・富永勢は一気に川を押し渡り台地の下まで攻め寄った。この様子を見た里見方の正木大膳亮・同弾正左衛門らが、坂上から攻め下ってきた。たちまち、後北条勢は大混乱となり、遠山綱景・景久父子、富永政家をはじめ山角四郎左衛門・中条出羽守ら名だたる武将が次々と戦死した。里見方は敗走する後北条勢を追撃し、それを阻止しようとする北条綱成勢も一蹴、日暮れとともに両軍は兵をひいた。
 緒戦は連合軍の大勝利となり、連合軍は勝利に奢って酒盛りをはじめた。これを察知した後北条方は、奇襲をもって連合軍の背後から襲撃しようと策を練った。そして、密かに兵を手配りした後北条軍は折から降り出した小雨のなかを一気に連合軍をめがけて突撃した。不意を討たれた里見・太田らは、防戦につとめ後北条勢を押し返すまでに奮戦した。しかし、後北条氏本隊の氏政・松田・笠原らが突進してきたことで、ついに連合軍は押し切られ負け戦となった。義弘は戦線から脱出し、資康も傷を負いながら岩付方面へ落去、正木大膳亮・同弾正左衛門らは討死した。結局、里見・太田連合軍は五千三百余人、後北条方は三千七百余の戦死者を出す大激戦となった。
 かくして戦いは後北条氏の勝利に帰し、勝ちに乗じた後北条氏は敗走する里見氏を追撃して椎津城を落し、ついで多賀氏の守る池和田城を落とし、さらに小糸城を落し上総高根郷まで進撃した。そして、里見氏の本拠である久留里城、佐貫城の近くまで迫ったのである。このとき、里見氏の重臣で勝浦城主の正木時忠は後北条氏に通じた。しかし、後北条氏の背後には関東在陣中の上杉謙信の軍もあったため、氏康は占領した城に守兵をおいて軍を引き上げていった。

後北条氏の勢力拡大

 国府台の合戦に上杉謙信が参加できなかったことが、里見・太田連合軍が敗北した大きな要因であった。しかし、謙信は小田氏を攻撃中であり、兵を国府台に向けることができなかった。また、太田資康の密議が露見して連合軍は予定よりも早く行動せざるを得なかった。そして、何よりも謙信が動けないうちに決戦にもちこんだ氏康の決断こそが後北条氏に勝利をもたらしたといえよう。こうして、着々と勢力を培ってきた里見氏は一大蹉跌に見舞われたのである。
 永禄九年、上杉謙信が後北条方の原胤貞が拠る臼井城を攻めたが、攻略することはできなかった。こうしたなか、北条氏康は里見氏の息の根を止めるべく、佐貫城の北にある三船山に砦を築き里見氏の攻略を狙った。対する里見氏は三船山砦の奇襲を画策し、それを察した後北条方の守兵は小田原に援軍を頼み、北条氏政は三万の大軍を率いて三船山に着陣した。対する里見義弘は虚空蔵山に着陣し、三船山の北方の八幡山に正木大膳を配置、正木憲時が八千の軍勢を率いて佐貫城を進発、正面から仕掛けて敵を障子谷の深田に誘い込み身動きが取れなくなったところを正木大膳らが襲撃し、岩槻城主太田氏資らを討ち取るなど里見氏は後北条氏を一方的に撃ち破った。この三船山合戦の結果、後北条氏の影響力は大きく後退し里見氏がふたたび上総に進出、さらに下総へ侵攻して失地回復につとめた。
 しかし、関東の情勢は謙信率いる越後勢が関東にいる間は後北条氏が頽勢となり、謙信が越後に帰ると後北条氏が勢力を盛り返すというイタチごっこが続いたが、上野の由良氏や厩橋城将の北条氏らが後北条方に転ずるなどして、次第に後北条氏の優勢に展開するようになっていった。一方、武田信玄が駿河に侵攻を開始したことで甲駿相同盟が崩れ、永禄十二年、ついに上杉謙信と北条氏康との間で越相同盟が成立した。この同盟では里見氏の扱いが焦点となったが、里見氏は上総の主導権を確保することができた。
 天正二年(1574)、反後北条氏の旗頭であった簗田氏の関宿城が後北条氏に落とされ、あらためて後北条氏による本格的な房総侵攻が始まる。茂原・一宮周辺や上総万喜城を巡る攻防が繰り広げられ、東金、土気の酒井氏が後北条氏に属し、また後北条氏の山本水軍が里見水軍を破り江戸湾の制海権を掌握、天正五年、ついに里見氏は講和に応じざるをえなくなり、里見氏は上総から大幅な後退を余儀なくされた。

万喜城主土岐氏との死闘

 房総の戦国時代の強豪に、万喜城に拠った土岐氏がいた。美濃守護土岐氏の一族で、美濃の戦乱を逃れて房総に流れてきたのだという。土岐弾正少弼頼房は、里見義実の上総侵攻戦に際し義実から篤い信頼を得て、安房勢の尖兵として上総夷隅郡に進出し、万喜城を築き四周に武威を轟かせた。
 以後、土岐氏は里見氏に属して数々の武功を挙げたが、為頼の代に至って里見氏と袂を分かった。その原因は、里見義堯の室となっていた為頼の娘が没したことから次第に亀裂が深まり、それに乗じた小田原後北条氏が懐柔の手を伸ばした。永禄七年(1564)第二次国府台合戦に際して、為頼は義弘に従って出陣はしたものの力が入らず、ついには後北条氏に走ったのである。
 為頼の死後、家督を継いだ頼春は近隣を侵略して武名を高め、領地は十万石に充つといわれる万喜土岐氏の最盛期を現出した。しかし、里見氏を離れて後北条氏に属してからの土岐氏はは、里見氏の配下にある近隣の諸将と絶えず対立し四面楚歌の状態となった。頼春はこの険しい状況にあって、よく家臣団を統率し、万喜城の要害を活かして、常に沈着、時に機略をもって里見氏の攻勢を撃退した。
 天正十年二月、里見義康は、配下の兵を率いて三浦をこえ、網代の城を攻撃した。頼春は兵を派遣してこれを防がせた。これをみた勝浦城の正木左近は、その虚をうかがい土岐氏方の小浜城を攻めとった。頼春の部将で小浜城主の鑓田美濃守は大いに怒って引き返し、これを攻めて小浜城を奪還した。
 天正十六年(1588)九月、大多喜城主正木頼忠と安房国丸城主山川豊前守を将とする里見氏家臣団が万喜城に押し寄せた。正木頼忠は自ら三千の兵を率いて大手から、山川は二千六百の兵で海路搦手から攻めた。頼忠は万喜城の西の八幡山に砦を築いて対陣し、万喜城を固く守った。戦いは激戦であったが、頼春はよく防ぎ、各所に奮戦し里見勢には討死するものが続出し、正木頼忠はついに敗れて大多喜に退却、山川も居城に還った。翌年六月にも里見義康は万喜城を攻めさせた。しかし、この合戦も結局、里見軍の敗北であった。
 翌天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めが諸国に伝達され、開戦も間近であったが、里見氏はなおも万喜城に固執していた。同年正月、正木時堯が土岐攻めに出陣した。戦いは苅谷原で展開されたが、この合戦も頼春が勝利し正木軍は大多喜へ逃れた。結局、里見氏は土岐氏に勝利することができず、土岐氏が滅亡したのは、天正十八年七月に小田原城が開城したのちの豊臣・徳川連合軍による房総掃討戦によってであった。
・里見義康の木像

戦国時代の終焉

 ところで、天正年間は、戦国時代の総決算とでもいえる時期であった。天正元年(1573)武田信玄が死去し、同三年には武田騎馬軍団が三河国長篠で織田・徳川連合軍と戦って潰滅的敗北を喫した。同六年三月には、上杉謙信が病死し、天正十年になるろ、織田信長は甲斐に侵攻し、敗れた武田勝頼は自刃し武田氏は滅亡した。そして、六月には織田信長が明智光秀の謀叛で本能寺で死去した。ここに、時代は大きく転回することになる。信長死後の権力闘争を制した羽柴秀吉が信長の覇業を受け継いで天下統一の道を歩み出した。
 秀吉は関白に出世し豊臣と改め大坂し城を築いて、天正十三年(1585)、天下静謐令を発布、関東・奥羽惣無事令などを出した。すなわち、全国的に私戦禁止と境界裁定への服従を命じ、戦乱を収拾しようとしたのである。これに接した里見義頼は秀吉のもとへ使者を派遣し、太刀、黄金を進上、秀吉に恭順の意を示した。これを受け、秀吉は里見領と北条領の境界裁定を実施、その結果里見分国は上総北東部は東金・土気領、中央部は庁南武田領、中南部は万喜土岐領を除いた地域、そして安房一国と確定されたのである。一方、後北条氏は東北で秀吉に激しく反発する伊達政宗と結んで、秀吉軍を迎え撃つため領国内の諸将に命じて軍勢を小田原に集結させた。
 このような後北条氏の姿勢に対して秀吉は全国の大小名に小田原参陣を命じ、天正十八年(1590)春、小田原城攻撃を開始した。この情勢の急変に際し、馬加千葉重胤をはじめ原氏・高城氏・上総の両酒井氏・庁南武田氏・万喜土岐氏等、房総諸大名のほとんどは後北条氏に従って小田原城に籠城、豊臣秀吉の攻撃に対抗したが敗れそれぞれ滅亡していった。このとき、里見義頼の子義康は秀吉の要請に応じ出兵したが、小弓公方の再興のために独自の軍事行動をとり、またその過程で里見氏の龍の朱印を捺した禁制を発給していたことが発覚し、秀吉の怒りをかった。しかし、徳川家康の仲介で秀吉の怒りは解けたものの、里見氏は領国を安房一国に削られてしまった。その後、里見氏は豊臣大名の一員として朝鮮出兵にも参加し、義康軍は肥前国名護屋まで行ったが朝鮮渡海はしなかった。
 慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に際して、里見氏は徳川秀忠に応じて宇都宮に参陣した。戦後、恩賞として常陸国鹿島郡に三万石の加増を受け十二万石の大名となった。義康が里見家を相続した時は十五歳の若さであったが、以後、十七年の間に里見家を取り巻く激変した。独自の領国支配を展開する戦国大名の時代は去り、里見家も存続のため、新しい政治体制の中におしこまれざるをえなかった。それは、徳川氏を頂点とする幕府体制下の大名、すなわち近世大名という枠組みに把握されることであった。
 義康はこの大変動期に里見家の舵をにぎり、よく領国をまとめ、検地を実施し、家臣団を整備しながら、必死になって近世大名への道を歩んだといえよう。しかし、その途中に病を得た義康は、慶長八年十一月、病没した。享年三十一歳という若さであった。

里見氏の断絶

 義康が死亡すると子の梅鶴丸が十歳で里見氏の家督を継いだ。幼主を正木時茂・堀江頼忠などの一族重臣が補佐した。そして、慶長十一年、将軍徳川秀忠の前で元服した梅鶴丸は秀忠の一字を賜って忠義と名乗り、安房守に叙任された。さらに幕府の重臣大久保忠隣の長男忠常の娘を迎えて室とするなど、その前途は洋々たるものと思われた。
 ところが、忠義は思いもかけぬ事件にまきこまれる。岳父である大久保忠隣が幕府内の権力闘争に敗れて大久保一族が失脚した。すなわち、慶長十八年(1613)、大久保長安の事件で大久保忠隣が改易処分を受けたのである。忠義もこの事件に連座して改易処分となった。しかし、表向きは国替えであり、安房国を没収され鹿島郡三万石の替地として伯耆倉吉三万石に転封となった。忠義は江戸からふたたび国許へ帰ることもなく、伯耆倉吉へ旅立った。ここに、安房における里見氏の歴史は幕を閉じたのである。伯耆に移った忠義には嗣子がなく、結局、忠義の死によって里見氏は断絶、改易となってしまった。
 おそらく、里見氏の改易は江戸に近い場所に、外様でしかも十万石以上の領国を支配する大名を徳川幕府が排除したとする見方もある。おそらく、そういう側面もあったことは疑いなく、里見氏は安房にいる限りいずれ改易か転封に遭う運命だったのであろう。
 子がなかったといわれる忠義には、実は三人の男子があった。しかし、みな側室の子で、忠義改易後に生まれたことになっている。そのうちの一人は成長して利輝と名乗り、家臣印東氏に託されて一生を終わった。その孫義旭は間部越前守詮房に仕え、その子の代に間部氏の家老となり、間部家の鯖江転封に従い子孫は代々鯖江に住して明治維新に至ったという。いずれにしろ、安房の戦国大名であった里見氏は忠義の代で終焉を迎えたといえよう。

●さとみのふるさとを参考にさせていただきました。


■参考略系図
・『系図綜覧』本系里見系図、『尊卑分脈』里見系図をもとに作成。  

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