佐野氏
左三つ巴
(藤原氏秀郷流)
巴紋の回転方向に関しては諸説があり、佐野氏の巴紋も右に回転しているものを「左巴」と称する場合もあるようです。ここでは、時計の回転方向に準じた意匠を採用しています。
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■ 左巴と右巴について
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佐野氏は、藤原秀郷の後裔足利七郎有綱の子基綱が、下野国安蘇郡佐野庄に住んで、佐野太郎を称したのに始まるという。寿永三年(1183)、志田義広の乱で、嫡流足利氏が義広に与して没落したのに対し、基綱は小山氏らとともに源頼朝方につき御家人となった。基綱の名は『吾妻鏡』にも佐野太郎基綱とみえている。
承久三年(1222)の「承久の乱」で功をあげ、その功により淡路国で地頭職に任じられた。しかし、宝治元年(1247)の「宝治合戦」で三浦氏に味方したため没落。わずかに本拠地佐野荘の地頭として存続するに至ったようである。その結果として、鎌倉時代における佐野氏の動向は不詳な部分が多い。
鎌倉幕府の滅亡
鎌倉幕府末期になると、北条執権体制にも緩みがみられるようなり、畿内には悪党が蜂起し、奥羽では安東氏の乱などが起ったが、それらに対する幕府の応対はなまぬるいもので、そのことが後醍醐天皇を中心とする討幕計画を進行させたのである。元弘元年(1331)討幕の計がもれた後醍醐天皇は笠置山に逃れて挙兵し、近隣の武士に参陣を呼び掛けた。これに対して幕府は大仏・金沢両氏を大将に命じて二十万の討伐軍を送り笠置山を攻略し、後醍醐天皇を隠岐に流した。このときの幕府軍のなかに「佐野安房弥太郎」の名がみえ、弥太郎は増綱であろうと考えられている。
その後、護良親王が吉野で、楠木正成が河内千早城で挙兵し、反幕の動きは全国的に広まり、天皇は隠岐を脱出して伯耆の船上山に拠ると諸国に討幕の綸旨を発した。幕府は名越高家と足利高氏を大将とする大軍を派遣し局面の打開に努めたが、高氏は丹波篠村で六波羅攻撃を決意し、京都に攻め入り六波羅を潰滅させた。一方、関東では上野の新田義貞が新田庄生品神社で挙兵し、鎌倉に進攻した。新田軍は迎え撃つ幕府軍を退け稲村ケ崎から鎌倉に突入し、激戦の末に北条一族は自刃して果て鎌倉幕府は滅亡した。このとき、佐野氏は新田氏に加わっていたものと考えられている。
かくして後醍醐天皇による「建武の新政」が発足したが、新政の時代錯誤な政策は武士たちから失望を受け、さらに尊氏と後醍醐天皇の対立が起るなどして崩壊し、時代は南北朝の内乱へと移行していった。この激動の時代における佐野氏の動向は必ずしも明確ではないが、佐野義綱の軍忠状案と佐野安房一王丸の軍忠状が伝えられている。これは安房一王丸が父義綱の戦功を挙げて忠節に対する恩賞を願ったもので、この軍忠状から佐野氏は尊氏方の斯波氏に属していたことが知られる。
南北朝内乱期の佐野氏
建武の新政の初め関東は、成良親王を相模守足利直義が補佐し関東十カ国を管轄する鎌倉将軍府が置かれた。しかし、「中先代の乱」により崩壊、その後、尊氏が下ってきて乱を鎮圧したのちは改めて義詮が鎌倉に置かれて関東の政治にあたった。以後、義詮の京都召還、観応の擾乱などの紆余曲折を経て、室町幕府は関東を支配するため義詮の弟基氏が関東公方となり、公方の執事(関東管領)に上杉氏を配して関東の政治にあたらせた。
佐野義綱は本拠佐野庄から上野国から下野国などの各地を転戦して南朝方と戦い、建武三年の十一月に討死した。義綱以後の佐野氏も北朝方=足利氏の一員として常陸や佐野周辺で合戦に参加したようで、佐野氏一族の氏綱は遠く河内まで出陣したことが氏綱の軍忠状から知られる。それによれば氏綱は高師直の麾下にあって四条畷の合戦から、大和・吉野へ従軍している。
観応の擾乱に際しては尊氏方に属したようで、尊氏方の宇都宮氏綱が出陣したとき、その陣中に佐貫氏とともに加わった。ついで観応三年には佐野新右衛門尉が尊氏から感状を与えられ、佐野秀綱は足利義詮に従って戦功があり、貞治五年(1366)越中国に所領を与えられている。一方で、文和四年(1355)の足利義詮御内書案から、佐野越前守師綱は佐野庄内の釜谷村・荒居村を押領し、佐々木道誉から訴えられていることが知られる。
しかし、南北朝期から室町時代初期にかけて、様々な記録に散見する佐野氏を系譜上に探ることは困難な状態である。このことは、鎌倉時代末期から綻びを見せ始めた惣領制の崩壊と関連していることは疑いない。すなわち、南北朝の内乱は武家方=北朝、宮方=南朝の対立という単純なものではなく、惣領家から自立しようとする庶子家と惣領家との対立があった。そして、惣領家・庶子家ともに乱の中で活躍を示したことから、南北朝期における武家の系譜は多くの不明点を見せており、そのことは佐野氏も例外ではなかった。
戦国時代への序奏
時代が下って関東公方持氏の代に至ると、持氏は幕府と対立するようになった。管領上杉氏は持氏の暴走を諌めたが聞き入れられず、逆に永享十年(1439)持氏から追討の兵を受ける事態となった。これが引き金となって「永享の乱」が勃発し、幕府は上杉氏を応援して諸国の軍勢を関東に派遣し、敗れた持氏は自害し鎌倉公方家は滅亡した。
その後、持氏の遺児安王丸・春王丸が結城氏朝に擁立されて結城城に籠って兵を挙げた、これに持氏恩顧の関東の諸将が加担し、籠城軍は二万を数える兵となった。これに対して幕府は十万の軍勢を組織し管領上杉清方を大将に討伐軍を送り、嘉吉元年結城城を降した。この「結城合戦」をもって関東では上杉氏の勢力が拡大したため、上杉氏の台頭を喜ばない関東の諸将は鎌倉府再興を幕府に願った。その結果、持氏の遺児永寿王丸が赦されて鎌倉に下り、永寿王は成氏と名乗り鎌倉公方家が再興された。
新公方となった成氏は鎌倉府の権力回復を狙って父持氏に加担して没落した結城氏らを再興させ側近としたため、幕府寄りの管領上杉氏と対立するようになった。両者は武力対立となり、上杉方の被官である長尾氏らは成氏の館を襲撃し、成氏は江ノ島に走るということもあった。そして、享徳三年(1451)成氏は側近に命じて山内上杉憲忠を殺害したことで、「享徳の乱」が勃発した。以後、関東は大混乱に陥り、成氏軍と上杉軍は関東の各地で合戦を繰り広げ、情勢はおおむね成氏方が優勢であった。幕府は上杉氏を支援するため駿河守護今川範忠を派遣し、範忠は鎌倉に攻め入り成氏の館などを焼き払った。このため、成氏は鎌倉に帰ることができなくなり、下総古河を本拠とし、以後古河公方と呼ばれるようになった。
この乱において、佐野氏は成氏方の有力武将として歴史の表舞台に登場してくるのである。このころ成氏が発給した文書には、佐野伯耆守と佐野宮内少輔の名が頻出している。伯耆守は、舞木氏と岩松氏とともに成氏の「三大将」の一人として活躍したっことが知られるが、その実名は不詳である。享徳八年(長禄三年=1459)、成氏方の岩松持国が上杉方に転向したため、それまで持氏とともに成氏方の大将として活躍してきた佐野氏も動揺した。
やがて、佐野越前守盛綱の名が現れるが、盛綱とさきの佐野伯耆守・同宮内少輔らとの関係は分からない。享徳二十年(文明三年=1471)になると、山内・扇谷両上杉氏が反撃に転じてきた。この年、成氏は掘越公方を討つため伊豆に出兵したものの大敗を喫した。両上杉氏はこれを好機として、成氏方の佐野氏の赤見城と樺崎城を攻めた。その結果、佐野氏は小山・小田氏とともに上杉方に参じることに決し、乱の初めより成氏に協力してきた佐野氏も成氏に離反したのである。
佐野氏の興隆
「佐野系図」によれば、享徳の乱の時代の佐野氏は、師綱─重綱─季綱そして盛綱の四代の時期にあたる。そして、系図の注記から師綱と重綱が成氏に従ったことがうかがわれ、季綱・盛綱は成氏の子政氏に仕えたと伝えている。盛綱は、明応九年(1500)成田長泰の討伐を企て、文亀二年(1502)には佐野庄青柳山麓に本光寺を建立している。このように盛綱は佐野・足利庄の有力な在地領主として、古河公方の成氏・政氏に仕えて、自立台頭しようとしていたと考えられる。とくに本光寺の創建は、佐野氏興隆の一証拠とみることができる。
大永七年(1527)家督を継いだ秀綱は、本光寺で父盛綱の盛大な葬儀を行い、天文十五年(1546)に没した。秀綱の事蹟としては『佐野秀綱掟書』が知られ、誰に宛てて出されたものかは不明だが、晩年の秀綱が、おそらく嫡子の泰綱と一族らに残したものと考えられている。その内容は、戦国時代の家訓の一例として、注目されるものである。秀綱の跡は、泰綱、豊綱と継承されたが、二人の事蹟についての詳細は不詳である。
『佐野記』によれば、泰綱は「家を継いで世を治めること五十余年、国中無事にして四民業を楽しみ」とあり、佐野氏台頭の基盤を築いたものと考えられる。また、豊綱は父に先立って没したが、五人の男子をもうけ、この子らが次代にそれぞれ活躍した。長男は昌綱、二男政綱は天徳寺了伯、三男は幽願寺と号し越後で自害、四男は由良信濃守の養子となり、五男は上杉謙信の養子になったという。
豊綱に関して『宇都宮興廃記』には、永禄元年(1558)五月、上杉謙信が会津黒川城主の蘆名盛氏と連合して上野から下野に進出し、宇都宮氏の有力支城である多劫城・上三川城を攻撃した。このとき多劫長朝は、今泉・真岡・児山・宇都宮氏らの援軍を得て上杉勢の先陣佐野小太郎をはじめ数多くの上杉勢の将士を討ちとった、とある。この記述によれば豊綱は永禄元年の多劫城攻めで戦死したことになる。当主豊綱の突然の討死は佐野氏にとって大きな動揺を与えたことは疑いなく、永禄二年の年賀に赤見伊賀守が参賀に応じなかったため、赤見氏を攻めたのも家中の混乱を示したものといえよう。そして、合戦における不名誉な討死ということで豊綱に関する文書や記録が少ないとも考えられる。
長尾景虎の越山
十六世紀の中ごろになると、北関東は小田原の後北条氏の勢力拡大と、越後長尾氏(のちに上杉氏)、甲斐の武田氏らが、三つ巴の争奪戦を繰り返した。この三大勢力の間に古河公方家、両上杉氏らがその勢力を維持していたが、次第に衰退の一途をたどるようになり、戦乱は三大勢力の覇権争いに収斂されつつあった。そして、各地域の在地勢力は、自己の進退を模索し集合離散を繰り返した。下野では、足利の長尾氏、小山氏、そして佐野氏らであった。
佐野氏において戦国時代に遭遇したのは、昌綱・宗綱・氏忠の三代である。昌綱のころ、佐野氏をとりまく様相が大きく変化をみせるようになる。すなわち、永禄三年(1560)に始まる上杉謙信の越山である。昌綱は享禄三年(1530)の生まれで、永禄元年の豊綱の死を受けて家督を相続した。永禄四年には三十二歳で上杉謙信とは同年齢であった。そして、第一回目の謙信の佐野攻略を受けるのである。昌綱は古河公方足利義氏に従い、武田信玄や北条氏康と結んで上杉謙信に対抗した。
永禄五年、謙信は館林城を攻略し佐野城攻略に向かったが、佐野氏の居城唐沢山城を落すことができず越後に帰陣した。このとき、後北条氏は佐野氏を救援するため、氏康自ら河越城まで馬を進めたという。このように、佐野氏の居城唐沢山城は謙信の関東侵攻のルート上にあったため、繰り返される謙信の越山のたびに、上杉氏と後北条氏との間で翻弄された。翌年、謙信の攻略が三たび繰り替えされ、唐沢山城付近は制圧されたものの落城はまぬがれた。そして永禄七年、謙信は四度目の佐野攻撃を行い激戦が展開され、結局、昌綱は佐竹・宇都宮両氏の説得を受けて上杉謙信に降参した。こうして佐野氏の居城唐沢山城は、上杉氏の関東における拠点の一つとなった。
謙信に唐沢山城を再三にわたって攻められた昌綱は、謙信の一族に佐野を継承してもらいたいと願い出て長尾虎房丸を養子に迎えた。これにより、謙信は色部勝長らをして唐沢山城を守らせることにした。しかし、この虎房丸養子の一件に関しては諸説があって、にわかにその事実を断定することは難しい。とはいえ『輝虎書状』のうち、虎房丸が昌綱の養子となって佐野城に入ったことを伝えるものも残されている。一方で、虎房丸養子のことを聞いた氏康と氏政父子は佐野攻略に出陣した。昌綱の家臣らは身命を捨てて防戦に努めたため、氏康らは攻略をあきらめて小田原に帰ったという。
戦国大名への飛躍
元亀二年(1571)、北条氏康が没した。翌年、謙信は佐野城将の色部顕長に対して長期にわたる佐野在番の労を慰めている。このことから氏康没後の時点では、唐沢山城は謙信の属将顕長によって守られていたことが分かる。
そして天正二年(1574)、昌綱は四十五歳を一期として死去した。昌綱の一生は、謙信と後北条氏への対応に苦心し続けた一生であったといえよう。昌綱の代、唐沢山城は謙信から計十回にわたる攻撃を受けた。上杉氏に属したのちは、当然、後北条氏による攻撃を受けることになった。それは数度にのぼり、唐沢山城を含めた佐野氏領は戦乱に巻き込まれたのであった。
小戦国大名として自立しつつあった佐野氏にとって、自家の存続と勢力の拡大を図ることは容易なことではなく、昌綱は上杉氏と後北条氏という強大な戦国大名の間にあってそれを模索し続けたのであった。『佐野記』には昌綱を文武兼備の武将と讃え、そのことは今に伝わる昌綱の発給文書からもうかがえる。昌綱は戦国乱世に身をおき、近隣諸豪との戦いに精力を傾けながら、その領国支配でも民政面で相当の成果をあげていた。まさに、文武兼備の名将と呼ばれるにふさわしい人物であった。
昌綱の死後、家督を継承した宗綱はわずか十五歳の若さであった。このころには上杉氏の城代色部顕長は越後に帰国していたようで、佐野氏は宗綱にいたって戦国大名としての独立をはたしたようである。以後、若年の宗綱は後北条と上杉の両勢力に圧迫を受けながらも、唐沢山城とその周辺を自らの力で保持しようと努めたのである。しかし、次第に後北条氏の北関東への圧力は増大し、天正三年には小山氏の祇園城が後北条氏の手に落ちた。
時代の変転
天正六年三月、関東出陣を控えた上杉謙信が急死した。謙信亡きあと、佐野氏は常陸の佐竹氏と組み、八年には足利に陣を進めた佐竹氏に従軍し、九年、北条氏邦によって唐沢山城を攻撃されたが、佐竹氏の救援を得てこれを撃退し、同年末には新田に出陣した佐竹氏の陣に加わった。他方で、天正十年武田氏を滅亡に追い込んだ織田信長が関東に配置した部将滝川一益とも好誼を通じるなどして後北条氏と対抗した。
ところで、佐野氏は同じ反後北条の立場である隣国の館林・足利城主である長尾顕長との間に所領をめぐる争いがあった。佐野氏は盛綱以来、西方への勢力拡大を図り、戦国時代を迎えるころには、彦間川を越え赤見城や足利荘南部を支配下に置いていたようだ。それが長尾氏の反攻により、佐野・足利の境七郷を失いかねない状況となっていた。
天正十二年、長尾氏は後北条氏によって足利城を攻略された。その結果、佐野氏は後北条氏から直接脅威を受けるようになった。時同じくして後北条勢は沼尻に陣を布き佐野領をうかがったため、佐野氏は佐竹氏に救援を求め、ここに関東を二分する沼尻の合戦となった。兵力は後北条方八万、佐竹方は二万といわれ、双方決戦を避けたため滞陣は三ヶ月に及んだ。この戦いによって佐野氏は後北条方の北条氏照の攻撃を受け、属城藤岡城を落されたが、唐沢山城はよく守り氏照の攻撃を退けた。
天正十三年(1585)、二十五歳となった宗綱は長尾顕景が後北条氏により館林城に攻められている間隙に乗じ、長尾氏の本城足利城攻略を企てた。この企てには反対する家臣も多く、また不吉な前兆もあったという、しかし、それらを押して出陣した宗綱は足利領須花坂の戦いで、長尾方の豊島忠治に討たれて戦死してしまった。宗綱の死後、後北条氏は直ちに佐野へ陣を進め佐野とその周辺を制圧した。宗綱には男子がなく女子だけを残していた。そこで、家中の相談によりその女子に北条氏康の子で氏政の弟にあたる氏忠を養子として結婚させるということになった。氏忠は三十八歳前後の男ざかりで、すでに妻子もあった。そして、正式に佐野氏を名乗ったのは天正十四年のことであったという。こうして、唐沢山城は後北条氏の持城となり、後北条氏領国最北端の城として小田原城が落城する天正十八年まで続いた。
後北条氏から養子を迎えることに決まったとき、一族および家臣のなかで天徳寺了伯だけがそれに反対したという。了伯は昌綱の弟あるいは宗綱の弟ともする場合があるが、年齢からみて昌綱の弟とするのが妥当と思われる。また、氏忠が家督を継いだとき氏忠に就くのを潔よしとしない家臣は他家へ仕官の途を求めたり、、または浪人した。しかし、かれらは必要とあらばいつでも帰参するとの神文を天徳寺に対して差し出したという。
天正十八年(1590)、秀吉は小田原征伐に際して、天徳寺了伯に関東の地形・城郭など詳細に至るまで絵図にして描かせていたという。そして、了伯を大将に佐野氏を攻めさせた。七月、後北条氏は小田原城を開いて没落し、氏忠は小田原北条氏とともに滅びた。
新時代に生き残る
小田原の陣後、了伯は還俗して房綱と改め、佐野氏の旧領を治めた。天正二十年、秀吉の臣富田知信の五男信種を養子に迎えた。信種は秀吉より一字を拝領して信吉と名乗ったが、この養子の一件は房綱の希望もあっただろうが、多分に秀吉の意向が大きく働いたものであったと考えられる。養子信吉に家督を譲った房綱は慶長二年(1597)、赤見郷へ隠居した。それを契機に信吉は美女を愛し、酒宴遊興に耽り政治をおろそかにしたため家中は乱れたというが、それは、のちに改易処分となった信吉に対して贈られたいわれのない誹謗であろうと考えられる。
房綱は江戸時代にも評判のよい人物で、その人となりについて『駿台雑話』に以下のような話がある。─房綱は文武両道を兼ねた人物で、あるとき琵琶法師を招いて平家物語のうち特に哀れな箇所を語らせた。そして、法師は宇治川先陣争いと那須与一の扇の的の場面を語った。すると房綱は物語り半ばまでいかないうちにはらはらと涙をこぼした。後日家臣に感想を問うと、家臣は「勇壮な話で面白かった。なのに君はどうして涙をこぼされたのだろう」と答えた。
それを聞いた房綱は「今のいままでお前を頼もしく思っていたがその一言でさてさて力を落した」といい「佐々木高綱の乗った生月は弟範頼にも梶原景時にも与えなかった名馬である。高綱は先陣争いに後れをとったならばきっと討死しただろう。那須与一にしても、源平両軍が見守るなか、扇の的を射損じたならば馬上において腹を切る覚悟であったろう。その心を思えば武士の途ほど哀れなものはない。平家を聞くたびに、両人の心を思い遣り涙にむせぶのだ。それなのに、頼みがいのないお前らよ」と続けたため、家臣たちは言葉もなかった。─というもので、このようなことが実際にあったかどうかは分からない。ただ、房綱が話の主人公に取り上げられたことは江戸時代におけるかれの人気の高さを示したものといえよう。
慶長五年、徳川家康は上杉景勝征伐のために軍を発し、小山に陣を進めたとき、石田三成が西国で兵を挙げた。三成の挙兵を知った家康はただちに兵を返し関ヶ原の合戦で西軍を破ると、一挙に天下人となり、慶長八年には征夷大将軍の宣下を受け幕府を江戸に開いた。家康が上杉氏を討つための軍を発したとき信吉は家康の陣所となる小山の普請をしたり、家康軍のための陣小屋を建てたりしてさかんに家康に忠義立てをした。このように、信吉は家康に尽したが、戦後の恩賞には与ることはなかった。佐野氏は一抹の不安を残しながらも本領を安堵され、徳川政権下の大名として生き残った。
佐野氏の改易と再興
慶長七年、信吉は唐沢山から天命の春日岡への移城を命じられた。関東の一角に戦国時代そのままの堅固な山城にあっては徳川氏にとって憚りがあり、山城禁止政策にも反するものであった。また、時代の趨勢として戦乱から平和の時代に移行していくなかで、物資の集積、交通の便などを考えても山城から平城に移ることは自然な営みであった。
慶長十年、家康・秀忠は秀忠の将軍職補任のため上洛した。このなかに信吉も加えられ将軍宣下の式典にも参加した。このころには、佐野氏は徳川政権下に完全に組み込まれていた。ところが、慶長十九年(1614)大坂冬の陣を前に突如改易処分を言い渡される。理由は信吉の不行跡、あるいは兄の富田信高の失脚に連座したなどといわれるが、多分に政治的なものであったようだ。
すなわち、徳川政権にとって佐野氏は邪魔な存在にほかならなかった。いずれは関東より追放すべく、その機会を狙われていたのであろう。信吉もそこのところは十分警戒もしていただろうが、幕府の方が役者は上手であった。信吉は大坂の陣への参陣を希望したが受け入れられることもなく、松本へ配流された。のちに、三代将軍家光のとき、信吉の子久綱と公当兄弟が旗本として取り立てられ、佐野氏は再興された。以後、子孫は明治維新まで旗本として存続した。
【参考資料:佐野市史/田沼町史/栃木県歴史人物事典 ほか】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
全国に広まった時代でもあった。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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