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薩摩蒲生氏
●抱き菊
●藤原北家教通流
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奈良・平安時代、大隅国にあった蒲生院は、大隅一宮鹿児島神宮の荘園として支配され、正八幡宮の寄郡であった。蒲生は「かもふ」といったのか「がもふ」といったのか古い記録はないが、正八幡神領坪付に「五反 かもふ しんにゅうてん」とあることから「かもふ」と発音されていたようだ。この蒲生院から興ったのが、戦国時代、島津氏に拮抗する勢力を誇った蒲生氏であった。
蒲生氏の土着
蒲生氏は『蒲生氏系図』によると藤原姓で、藤原鎌足から十五代の後裔藤原教清を祖にするという。教清は検校坊として比叡山三塔の一である横川に住んだが、のちに、宇佐八幡宮留守職となって豊前に下向し、宇佐八幡宮大宮司の娘を妻として舜清をもうけた。この舜清が大隅国垂水に下向し、保安四年(1123)蒲生院に入り、蒲生城に拠って蒲生氏を称したのがそもそもの始まりとなっている。
舜清が垂水に下向したのは、宇佐神宮の神領である垂水にその収納支配のために下ったとする説が有力で、舜清は垂水に宇佐八幡を勧請したという。そして、蒲生に移ったときにも宇佐八幡宮を勧請して正八幡宮を創建し、蒲生城を創建したと考えられている。蒲生城を築き蒲生を称した舜清は、上総介と号した。蒲生城は大字久末と下久徳にまたがり、その地形が龍が爪を立てて躍りかかろうする姿に似ていることから、別名を龍ケ城とも呼ばれた。
ところで、正八幡宮の執印僧に行賢なる人物がいた。そして、舜清はこの行賢の娘を妻とし一男をもうけ、その子は男子のなかった行賢の養子となり蒲生吉田を譲られたようだ。もっとも、そのことは蒲生氏の系図には見えないが、『本藩郷里史』の蒲生八幡宮の条からうかがわれるのである。まず、行賢との関係もあって舜清は勢力基盤を築き上げたものと考えられる。
舜清のあとは助清が継いだというが、その弟種清が継いだとする説が一般的である。助清と種清は平姓頴娃忠永の娘を母としていた。二人の兄に行賢の娘を母とする男子がいたはずだが、蒲生氏の系図には一切みえない。助清は舜清に先立って死去したため、種清が家督を継ぎ蒲生氏二代とされたのであろう。
種清の弟宗平は脇元を領し、その弟忠清は鞍掛を領してそれぞれ一家を興した。種清のあとは清直が継ぎ、二郎種元は永山を、三郎種綱は開佐良を、五郎清高は沙汰浦を領した。開佐良はいまの貝皿で、沙汰浦五郎はのちに吉田清弘の養子となり吉田又二郎と号した。このように、蒲生氏は庶子を領内に分封し、勢力を確固たるものとしていったのである。清直の代が、鎌倉時代初期にあたり、清直は鎌倉幕府と関係を結んでその御家人になっている。
中世の争乱
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、平氏やそれに従っていた者らの領地を没収し、平氏討伐に功のあった武士たちに恩賞として与えた。その結果、島津氏が幕府御家人として薩摩に入部してくるのである。文治元年(1185)、島津氏の祖惟宗忠久が島津荘下司職に任ぜられ、島津氏を称した。忠久はみずからは鎌倉にあって幕府に仕え、家臣本田親恒を代官として薩摩に下した。忠久は薩摩・大隅両国御家人の奉行とされたが、これはのちの守護職と同一のものである。ついで日向国についても守護職に任じられ、島津氏は三州の守護職として、三州の支配に当たった。
このような島津氏の登場は、島津氏入部以前より三州に割拠していた諸豪族たちに、少なからぬ動揺を与えた。諸豪族は島津氏の支配に服さず、以後、戦国時代に至るまで抗争が繰り返された。すなわち、あるときは島津氏と和し、あるときは戦い、みずからの存続に一所懸命となった。それは、蒲生氏も例外ではなかった。
元弘三年(1333)、鎌倉幕府が滅亡し、建武元年(1334)建武の新政が始まった。ところが翌建武二年、新政に不満を募らせる武士の輿望を集めた足利尊氏が謀叛を起すと新政は崩壊、以後、南北朝の争乱となった。
この時代の蒲生家は、直清、清種、清冬の三代に相当している。しかし、南北朝時代における蒲生氏の行動は、必ずしも明確ではない。おおむね北朝方であったようだが、情勢の変化によって南朝に属するということもあったようだ。残された記録によれば、蒲生彦太郎は畠山直顕に従い、のちに直顕が南朝方に転じると蒲生氏もそれに従っている。また、『旧記雑録』のなかに記された知覧忠元に属した武士のなかに蒲生姓の武士が多く見られるが、そのほとんどが蒲生氏系図に見えない人物である。
このことから、蒲生一族は惣領による統率がなされていなかったものと思われる。また、清種のあとを継いで蒲生家当主となった当時の清冬は少年であったようで、一族の多くは動乱の時代にあってより頼もしい知覧忠元の麾下に属したとも考えられる。いずれにしても、南北朝時代における変転定めない武士たちと同様に、蒲生氏も自家の安泰を図って必死に生き抜いていったことは疑いない。
島津氏を支える
南北朝時代末期の元中四年(1387)、島津氏久が死去してそのあとを元久が継いだ。この元久の国老に任じられたのが、清冬の子清寛であった。ちなみに氏久は陸奥守を称していたので、氏久の流れは奥州家とよばれる。ところで、南北朝時代の南九州で南朝方として活躍したのが渋谷一族であった。東郷氏・高城氏・祁答院氏・入来院氏・鶴田氏の五氏で、世に「渋谷五族」と称された。これら渋谷一族は奥州家に対抗する島津伊久に属していた。伊久は上総介師久の子で、師久の流れは総州家と称された。
その後、渋谷五族のうち鶴田重成が奥州家元久に通じたため、他の渋谷一族は伊久とともに鶴田重成を攻撃した。元久は鶴田重成を救援するため、清寛らとともに鶴田城に入り渋谷軍を迎え撃った。やがて、渋谷方に人吉の相良氏、大口の牛屎氏らが応援に駆け付け、両軍は鶴田の千町田間で大決戦を行った。元久軍は敗れて、鶴田氏は菱刈に逃れた。戦後、元久は鶴田氏を諭して谷山のうち網浦六町に移封させ、敗れたとはいえ合戦に活躍した清寛に谷山和田村を与えている。
応永十七年(1410)、島津元久は上洛して将軍足利義持に拝謁した。このとき、蒲生清寛も樺山・北郷・平田・北原・肝付氏らとともに元久に従って将軍に拝謁し、清寛は美濃守に任ぜられた。翌年、島津元久が死去したが、元久は後継ぎを決めていなかったため、伊集院頼久が自分の子犬千代を家督に付けんとして鹿児島に入ってきた。この事態に対して、清寛らは日向穆佐にいた元久の弟久豊に報じ、島津氏の家督に迎えた。
頼久は久豊を恨んで、伊集院に帰るやただちに叛意を表した。久豊が奥州家を継ぐと、清寛の子忠清は吉田清正・本田重恒らとともに久豊の国老に任ぜられた。応永十八年、肝付兼元が久豊方の鹿屋玄兼を攻撃すると、久豊は蒲生清寛・吉田清正らを率いて出陣、肝付軍を撃退した。ついで応永二十年、伊集院頼久が挙兵すると、久豊は蒲生氏らを率いてこれを討った。このとき、自害をせんとする頼久を清寛が久豊を諌めて、一命を助けている。
応永二十四年、総州家の家臣酒匂紀伊守が久豊に内通し、島津犬太郎(のち久林)に叛した。犬太郎方は伊集院頼久らの支援を得て、酒匂紀伊守の居城松尾城を攻撃した。久豊はこれを助けるため、蒲生清寛・吉田清正らを率いて出陣した。そして、薙野原において激戦となり、乱戦のなかで清寛は戦死をとげた。久豊も危機に陥ったが、吉田清正が伊集院頼久に先年のことをもって和睦に応じるように説いた。頼久は鹿児島・谷山・結黎の割譲を条件として和睦に応じた。その後、久豊は頼久を打ち破り、吉田清正を通じて降伏した頼久がふたたび叛逆することはなかった。
清寛の死後、家督を継いだ忠清は久豊の国老として重きをなし、島津氏の多難な時代をよく支えて、宝徳三年(1451)に死去した。
戦国乱世と蒲生氏
忠清の子久清は若くして死去したため、幼い宣清が家督を継承した。長禄三年(1459)、瓜生野城の島津季久・忠廉父子が蒲生城を攻撃、宣清は懸命に防戦につとめたが、年少のうえに寡勢とあってついに蒲生を没落して結黎に移り住んだ。以後、蒲生の地は島津忠廉が支配し、さらに入来院氏、祁答院氏らの渋谷一族の侵略にさらされたこともあったようだ。
蒲生を逃れた宣清は島津忠昌に仕えて、文明八年(1476)には忠昌の命を受けて指宿城を攻めこれを攻略している。ついで、文明十七年、日向に出兵した忠昌に従って蒲生刑部丞(刑部大輔とも)が出陣している。また、宣清は弓術に通じ、忠昌の催す犬追物に射手として優秀な成績を残している。そして、明応四年(1495)、忠昌から旧領蒲生を与えられ、三十七年ぶりにして先祖伝来の地を回復することができた。それから二年後の明応六年、宣清は蒲生において死去した。
宣清のあとは嫡男の充清が継いだ。充清は女子二人に恵まれたものの男子がなかったため、種子島忠時に嫁いだ姉の生んだ茂清を長女の婿に迎えて後嗣とし、次女は加治木城主の蒲生兼演に嫁いでいる。充清の死後、茂清が蒲生氏の家督となったが、充清が死んだとき妊娠していた妻が男子清親を生んだ。清親は正系の男子とはいえ既に茂清が家を継いでいたため、谷河を与えられて谷河姓を称した。
その後、茂清と清親は互いに疑心暗鬼を生じ、ついに清親は蒲生を去って入来院氏を頼り、さらに島津貴久と通じるようになった。幼い清親の子清綱は茂清に殺されそうになったため、伯父蒲生兼演に引き取られた。
このころ、島津氏の当主は忠昌であったが、病身のうえに国内は乱脈を極め、これを治めることができない憤りが嵩じて自殺を遂げてしまった。そのあとは、嫡男忠治、二男忠隆と続いたがいずれも早世、三男の忠兼(のち勝久)が家督を継承した。しかし、国内は治まらず、忠兼は伊作忠良(日新)の子貴久を養子として家督を譲った。このように島津氏は家督が目まぐるしく交代し、国内の乱れはさらに募っていった。
島津氏の衰退をみた蒲生茂清は、渋谷一族、菱刈氏らと通じて島津氏に抗したため、大永七年(1527)島津忠兼は蒲生を攻撃してきた。これに対して茂清は、少数の兵をもって忠兼の陣を襲撃、大敗を喫した忠兼は鹿児島に逃げ帰った。この戦いをきっかけとして、蒲生氏と島津氏の戦いは戦国末期まで続くことになる。一方、入来院にあった清親は天文八年(1539)、島津貴久の市来平城攻めに加わり、以後、清親の一族は蒲生宗家に味方することなく、飽くまで島津宗家軍に属した。
島津氏との抗争
天文十八年(1549)、肝付兼演を首謀者として蒲生茂清・渋谷一族らは島津方の吉田城を攻撃した。島津貴久は援軍を出し、両軍激戦となったが、ついに肝付・蒲生氏らの連合軍は敗れて兵を退いた。同年初夏、貴久は伊集院忠朗・菱刈隆秋らに、加治木城の肝付兼演を攻撃させた。蒲生茂清・祁答院良重らは肝付氏を助け、戦いは晩秋にまで及んだ。やがて、北風に乗じて放った島津方の火矢によって肝付方の陣屋が焼け落ち、ついに兼演は降伏、蒲生茂清とともに貴久のもとに至って謝罪した。一方の祁答院氏も使いを送って島津氏に謝罪した。貴久は兼演に改めて加治木を与え、さらに楠原・中野を与えたため、ついに肝付兼演は蒲生氏、祁答院氏と袂を分かち島津氏に属するに至った。
・右:蒲生地方諸城図
翌天文十九年、蒲生茂清は四十六歳を一期として死去した。そのあとは嫡子の範清が継ぎ、祁答院氏、菱刈氏らと結んで、ふたたび島津貴久と対立するのである。天文二十三年、蒲生範清は祁答院氏と結んで、加治木城を攻撃した。これに菱刈隆秋も加担して、肝付方と連合軍との間で激戦が展開された。肝付方は兼演の子兼盛が加治木城から出撃して奮戦したが、範清らは城の包囲を続け肝付氏を苦しめた。
加治木城の危機に対して貴久は、蒲生範清・祁答院氏を撤退させるため、帖佐・蒲生を討つことに決し、蒲生範清・祁答院氏らが退いたあと兼演に菱刈氏を討たせる策をめぐらした。かくして、岩剣城の戦いが展開されることになる。
岩剣城は三方をそそり立った崖に囲まれた山上に有る天然の要害であった。このとき、岩剣城では城主祁答院良重、蒲生家の重臣西俣盛家が城将として島津氏を迎え撃った。この戦いはのちに島津氏を大飛躍させた義久・義弘・歳久の三兄弟が初陣したことでも知られる。岩剣城の険阻な様子をみた島津忠良(日新斎)は、義久ら三兄弟のうちの誰かが「死なねば落ちまい」と語ったと伝えられている。
戦いは激戦となり、貴久の弟忠将は籠城軍に対し種子島銃を使用、対する籠城軍も種子島銃で応戦、これが我が国で初めて鉄砲が実戦で使用された戦闘であるといわれている。島津軍の猛攻に対して守将の祁答院良重、西俣盛家らは城兵を指揮して奮戦を続けた。岩剣城が島津軍に包囲されたことを聞いた蒲生範清は、島津軍の思惑通りに加治木城の包囲を解き岩剣城救援に向かってきた。
救援に駆け付けた蒲生軍は帖佐平山(平安)城から出撃してきた祁答院良重の嫡子重経の軍とともに、岩剣城北部の平松で島津軍と激突した。激戦の結果、祁答院重経、城将西俣盛家らは戦死し蒲生軍は敗走した。城将を失い援軍も潰滅したため、城兵は夜陰に紛れて落ち延び、岩剣城は島津軍の手に落ちたのであった。
蒲生合戦、蒲生氏の没落
岩剣城が落ちたとはいえ、蒲生範清の戦意は衰えなかった。天文二十四年、島津貴久は蒲生氏一族の北村氏が守る北村城を落し、ついで、祁答院良重の拠る帖佐平山城を攻撃、島津軍の猛攻撃にさすがの祁答院良重も平安城を逃れて本領の祁答院に逃れた。その後、良重は帖佐奪回を策して蒲生範清の応援を得て平安城を攻撃したが回復はならなかった。
祁答院氏の居城を収めた貴久は、蒲生範清に降伏を進めたが範清はこれをはねつけ、ついに島津軍の蒲生攻略が始まった。攻防は三年間におよび、弘治三年(1557)、蒲生院内の戦いに敗れた範清は島津氏に降った。範清は城門の鍵を島津氏に渡すと城に火を放って祁答院の松尾城に退去し、のちに薩摩国薩摩郡隈之城青木門を知行した。
こうして、初代舜清が平安時代末期に蒲生に入部して以来、四百年余、蒲生陰を領した蒲生氏の歴史は幕を閉じたのであった。その後の蒲生には、比志島美濃守が入り、戦後の鎮撫と治安に当たった。・2004年12月16日
【参考資料:三州諸家史・薩州満家院史/蒲生町郷土誌 ほか】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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