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河村氏
直違い
(秀郷流波多野氏族)


 河村氏の発祥の地は、相模国(神奈川県)足柄郡河村郷である。藤原秀郷の後裔で、相模の武士波多野遠義の子秀高から始まる。秀高は父から同国足柄郡上河村郷などの所領を譲られ、そこを本拠として河村氏を称した。本宗の波多野氏は源氏に従っていたが、秀高の子義秀は源頼朝の挙兵に応じなかったため、本貫地を失い大庭景義の計らいで斬罪を免れた。

奥州に所領を得る

 義秀の弟千鶴丸は十三歳であったが、文治元年(1185)の奥州藤原氏の討伐に参陣を許されて、同国阿津賀志山の戦に功をたて、頼朝の命で加々美長清を烏帽子親として元服し河村四郎秀清と名乗ったのである。
 戦後の論功行賞で、秀清は岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯と茂庭の地、そして摩耶郡の三ヶ所に所領を賜った。秀清はこの三ヶ所の内どこに居を定めたかについてははっきりしないが、茂庭の地が中間地であることから、有力視されている。また、秀清は備中国川上郡の成羽の地に所領を得て鶴首城を築いたともいい、さらに斯波郡の大巻にも大巻城を築いたとも伝えられている。
 大巻館は、河村館・館平とも呼ばれ、眼下に北上川が流れ、背後には北上山地の連山をひかえる要害の地であり、館山に残る大巻館の跡は、三重の濠と土塁がめぐらされた戦国期の遺構が残されている。この遺構の規模の大きさから、河村氏の本拠は大巻館であったものと推測されている。
 以後、河村氏は北条執権政治のもとでは本宗の波多野氏とともに北条氏に従い、秀清は「承久の乱」に武家方として功をたてるなど活躍をしていることから奥州の所領には長くとどまらなかったようだ。奥州には、その子や一族の時秀の子貞秀らが配置され、その子孫が河村氏の分流として北上川東岸一帯に広まった。大萱生・栃内・江柄・手代森・日戸・渋民・川口・沼宮内の諸氏がそれである。

南朝方に尽くす

 元弘の乱(1331〜34)に際して、相模の河村氏は公家方となり、足利尊氏の謀叛に味方して室町幕府に仕えたものもあったが、新田義興を河村城に迎えて北朝方と戦ったことはよく知られている。奥州・越後の河村一族も南朝方で、大巻・茂庭の河村氏は北畠顕家・顕信に従った。
 興国二年(1341)四月、北畠顕信は北奥の南朝方である南部・滴石・和賀・河村の諸氏とともに稗貫党等の北朝方と栗屋川で激突した。戦後、顕信は結城親朝に栗屋川合戦の勝利を告げて味方になって決起するように促しているが、結城親朝は日和見を続けている。
 北畠顕信は奥州南朝方の中心として、興国二年九月から十月にかけて中奥 の兵を集め三迫の石塔義房の軍と衝突した。その後も何度か北朝方と衝突を繰り返すが、結局、戦いは北畠顕信方の敗北で終った。 この結果、興国四年に南朝方の有力者結城親朝は足利尊氏側に転じて北朝方となった。こうして奥州北朝方の勢力が北奥へと伸長し、高水寺城の斯波氏の隣に位置する河村氏への圧力は大きくなっていった。
 その後、正平十年(1355)、大巻の河村氏は顕信の次男北畠守親に属して、田村庄司氏らの挙兵に参加したという。そして、紫波郡高水寺城に斯波氏一門の直持(斯波氏に関しては異説あり)が探題となって入ってくると、ついに河村氏は斯波氏に服するようになった。斯波氏の配下に入った河村氏は大巻から左比内へと居を移している。そして、この後数代の河村氏の動向は詳らかではなく、系図も不明となっている。

戦乱のなかの河村氏

 戦国時代も後期になった元亀・天正の頃(1570〜)、河村飛弾秀定が登場してくる。秀定は斯波安芸守詮愛に仕え、その剛勇さを買われて鷲内の姓を与えられていた。 この鷲内飛弾秀定の養継子秀重{秀親?}は大萱生の北に住んで大萱生秀重と改めている。
 天文六年(1537)南部氏の南下が開始され、斯波・稗貫・和賀氏らは連合して南部氏にあたった。同九年、南部(石川)高信をが総大将となって岩手郡 滴石城を攻略、斯波氏は敗れて滴石城は陥落した。同十四年、斯波左兵衛尉詮高の男、治部少輔経詮が岩手郡に軍を出したものの、利あらず引きあげている。このように、繰り返される南部氏の南下に対して斯波氏は防戦につとめた。
 しかし、元亀三年(1572)、南部氏は南部(石川)高信を総大将として、ふたたび志和郡に侵入してきた。斯波氏は見前舘で防戦につとめたが敗北し、 結局、稗貫大和守の調停で南部氏と和睦した。 この和睦は斯波氏にとって屈辱的なもので、斯波氏は南部氏に見前舘を割譲。さらに、娘婿に九戸政実の弟の弥五郎(のちに高田吉兵衛を名乗る)を迎えるというものであった。
 その後、南部氏宗家を田子信直が継ぐと南部氏のさらに攻勢は強化された。さらに、天正十四年(1587)、斯波氏の女婿になっていた高田吉兵衛と斯波民部大輔との間に不和が生じて、吉兵衛は斯波を出奔した。三戸に帰った高田吉兵衛を南部信直は庇護し、斯波方の目と鼻の先の岩手郡中野舘に配置した。以後、高田吉兵衛は中野修理助直康を称して、斯波氏に対する南部氏の最前線を守ることになった。

斯波氏の没落と河村氏

 南部氏の措置に憤った斯波民部大輔は中野舘を攻撃したが返って敗退、 斯波家家臣の間に動揺が拡がって中野修理に内応する者も出てきた。かくして天正十六年、斯波方の岩清水右京が叛乱をおこす事態となった。 これを鎮圧に行った斯波軍は逆に敗退したため、斯波詮直自らが出陣して舘を奪回しその余勢を駆って見前舘も攻撃した。この斯波勢の動きをみた南部信直は、ただちに南部軍を南下させてきた。これを聞いた斯波氏は、たまらず瓦解してしまい、これが命取りとなって滅亡の運命となった。
 戦国末期の斯波氏家臣に大巻館の河村氏、江柄館の江柄民部、栃内館の栃内源蔵、佐比内館の川村喜助らがいたことが知られる。しかし、斯波氏の存亡のとき、河村党は分裂したようだ。そして、大萱生氏・江柄氏・手代森氏・乙部氏・長岡氏・大巻氏らは主家滅亡に際しても、参陣した形跡はない。
 そのなかで、佐比内の河村秀政は高水寺から逃げてきた斯波詮直を守って山王海へと落ち延びさせ、秀政自身は戦傷を負い、結局武士を捨てて帰農した。 一方、大萱生玄蕃は主家に弓を引いたが、その妻が斯波詮直の伯母であった関係から、敗れた詮直は大萱生家を頼ってきた。
 玄蕃は詮直を大萱生城に匿ったものの、これを察知した南部氏は天正十七年十月大萱生城を包囲した。結果、大萱生玄蕃は詮直とともに上大萱生まで逃れたという。こうして、斯波氏の滅亡と期を一つにして河村氏も没落してしまった。 その後、河村氏・大萱生氏の後裔は帰農したり、南部家や伊達家に仕官したりしてそれぞれ独自の道を歩んだ。

●河村氏の家紋─考察



■参考略系図
 


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