藤原忠文の出自



 遠藤氏の系図を見ると、天慶の乱に際して朝廷から征夷大将軍に任じられた藤原忠文が祖となっている。
 『古事談(巻四ノ六)』によれば、天慶二年2月8日、「天皇は南殿に出御なされた。征夷大将軍右衛門督・藤原忠文に節刀を賜い、坂東の国に下し遣わした。このとき、参議・修理大夫兼右衛門督・忠文を大将軍とし、刑部大輔・藤原忠舒、右京亮・藤原国幹、大監物・平清基、散位・源就国、源経基らを副将軍とした。2月1日、下野の押領使・藤原秀郷、常陸掾・平貞盛ら4000余人の兵(あるいは一万という)を率い、下野国において将門と合戦している間、将門の陣はすでにうち負かされていた。三兵の手に迷い、身を四方に逃れて、矢に当たって死んだ者は数百人であった。」と記されている。
 藤原忠文は、藤原氏式家の藤原枝良の子。貞観15年(873)〜天暦元年(947)を生きた人物で、参議で、民部卿を務めたことが知られている。遠藤氏は、一説に藤原南家の流れで、遠藤武者盛遠すなわち文覚上人を祖とするとされるが、藤原忠文を祖とするのであれば、藤原氏式家流ということになる。ここらへんのところは、もう少し調べたいところだが、藤原忠文、文覚上人、遠藤氏の出自について調査・研究されている方がいらっしゃれば、そこのところをご教示いただけないだろうか。

●式家宇合から忠文までの略系図

藤原宇合┳良継
    ┣綱手
    ┣清成━種継
    ┣蔵下麿
    ┗百川━緒嗣━春津━枝良━忠文

                               丹波守 /参議 /修理大夫
                               民部卿 /征東大将軍 /征西大将軍