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鬼柳氏
●石畳/七曜
●武蔵七党小野流和賀氏族
・七曜は旗紋として用いられたというが、鬼柳氏の旗紋は石畳であったようだ。
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鬼柳氏は奥州の戦国大名和賀氏の一族である。鬼柳家に伝えられた中世文書のなかに、鎌倉幕府の訴訟に利用したと思われる系図が含まれている。その系図によれば、苅田平右衛門尉の一男義行が和賀左衛門尉を称している。そして、義行の長男が二郎左衛門尉泰義で「和賀郡惣領」とあり、和賀氏の惣領であるとともに和賀郡の惣領たる郡司であった。和賀氏は嫡子の盛義が継ぎ、二男の左衛門尉光義は鬼柳に住して鬼柳氏の祖になった。
ところで、鬼柳氏のいわゆる宗家にあたる和賀氏の出自に関しては諸説がある。たとえば、初代の頼忠(忠頼とも)は源頼朝の落胤で、奥州和賀郡の領主で清和源氏多田氏流という和賀義治の養嗣子になったとする説が流布されている。しかし、『鬼柳文書』に残された系図などからみて、和賀氏は武蔵七党の一つ横山姓小野氏流といえそうだ。いまに伝わる和賀氏系図の語る、頼朝落胤説は後世の扮飾と思われる。
鬼柳氏の登場
さて、鬼柳氏の初代と見られる光義は、系図の譜によれば宮将軍である宗尊親王・惟康夫親王に仕えて、和賀郡の諸所に食邑八百余町を賜ったとある。そして、永仁五年(1297)十月、夜討に遭い殺害されたことが、鎌倉裁決状から知られる。
光義には系図上、四人の男子があり憲義・家行・時義の三子がそれぞれ鬼柳を称している。一方、和賀惣領家は盛義のあと薩摩権守長義、薩摩守基義と相伝している。そして、基義の代は南北朝の争乱期にあたり、和賀氏は北畠氏を奉じて南朝を支持していたようで、薩摩守基義は出羽仙北郡の安本郷・阿条字郷などを宛行われている。しかし、和賀惣領家は文和二年(1353)十一月付の薩摩守基義花押状を最後として、以後、文書上にはあらわれない。
一方、南北朝対立の末期ごろ、和賀惣領職は和賀下総入道の所管となったことが知られる。『鬼柳文書』の系図に、鬼柳時義が下総守とあり、和賀下総入道と和賀鬼柳入道(時義)を同一人物とすれば、下総入道時義が和賀惣領職を暫定的に勤めたと考えられる。
南北朝時代は、惣領と庶子家が南北に分かれて互いに争った例が多い。おそらく、和賀氏内部でも惣領と庶子家の対立があって、惣領家は南朝方に味方し庶子家鬼柳氏は北朝方に属したのであろう。文和四年、和賀鬼柳下総守は北朝方の吉良氏から書状を送られている。この下総守は時義であり、孫の五郎式部大夫は応安三年(1370)に、北朝方陸奥守石橋棟義から黒岩郷内和賀左近将監跡を譲状によって領知せしめられている。そして、五郎式部大夫を中心に「鬼柳一揆」が結ばれていたことが知られる。
黒岩郷内和賀左近将監跡とは、和賀氏の本領とでもいうべきところであり、五郎式部大夫が左近将監の家督を継承したとも推察される。しかし、和賀氏の家督が鬼柳氏のなかでも末にあたる下総系の五郎式部大夫に譲られたことは、和賀一族の間に不協和音を奏でる結果となったようだ。
鬼柳氏の台頭
明徳三年(1392)、将軍足利義満は南北朝の合一をなし、長かった南北朝の内乱は一応の終結をみた。ところが、明徳四年、関東管領の執事渋谷満頼は鬼柳氏に南部氏追討についての書状を送っている。南北朝が合体したとはいえ、奥州南朝方の中心勢力として活躍した南部氏はこれに従わなかった。そして、この南部氏の動向と相俟って和賀一族の間にも内訌が起ったのである。抗争は和賀郡内で繰り広げられ、南部氏寄りの嫡系和賀氏は庶子系和賀鬼柳氏を徹底的にうちのめそうとしたようだが、かえって鬼柳系勢力によって再起不能に陥ったのである。
応永七年(1400)、室町幕府重臣の一色詮範から鬼柳伊賀守に対して書状が送られ、同年に起った「宇都宮氏広の乱」に際して鎌倉公方足利満兼が、鬼柳下総入道宛に「凶徒を退治する、戦功を抽んでられたい」との申し入れを行っている。さらに、前陸奥守石橋棟義も常陸入道義綱に「惣領職補任」に関わる頼みごとがあったようだ。そして、鎌倉公方足利満兼は、下総入道に「和賀郡惣領職」を与え、鬼柳氏はにわかに和賀一族の惣領となったのである。かくして、和賀宗家が領していた諸処の知行地も下総入道が継承し、鬼柳氏は和賀一族の中心を占めるに至った。
鬼柳下総入道が和賀惣領になったとはいえ、苅田系和賀氏、小田島和賀氏などの和賀一族が存在し鬼柳氏も数家が並立していて、その後の和賀一族の動向を分かりにくいものとしている。そのような和賀一族の状態が、たとえば初代を源頼朝の落胤とするような伝説が生まれる要因になったと考えられる。そして、この和賀一族の混沌期に、苅田系和賀氏、小田島系和賀氏、多田系和賀氏、苅田系鬼柳氏、鬼柳系和賀氏らが興亡を繰り返したのであろう。
・鬼柳氏の軍旗
和賀一族の抗争
南北朝の合一がなってのちの十五世紀になると、世の中はつかの間の平安が訪れたが、やがて京都、関東において内乱が続発した。永享七年(1435)には、和賀惣領家と一族の須々孫氏との確執から「和賀の大乱」が起こった。和賀氏は三戸南部氏に支援を頼み、南部氏の婿にあたる葛西持信も南部氏に味方して出陣した。そして、南部・葛西の両氏は和賀氏の援軍でありながら、この争乱を利用して和賀一族を全滅させようとした。和賀氏に勝ち目はなく、加美郡や志太郡、栗原郡などにあった飛地領を手離す結果となった。
文明二年(1470)和賀定義は江刺氏と戦い、翌三年には葛西氏と胆沢郡で戦い、定義は負傷した。さらに同十七年には、和賀氏と葛西氏が相去村で戦ったことが知られる。このように葛西氏と抗争をつづける和賀氏惣領家のほかに、須々孫氏、西和賀殿、鬼柳氏ともいわれる和賀氏庶子家らがいた。まことに多くの和賀氏が存在し、それぞれみずからの生き残りを賭して乱世に身を処していたのである。
文明十八年の和賀動乱より六年が過ぎた明応元年(1492)、大番役として京都にあった鬼柳義継が「伊賀守」に任官された。義継は和賀氏惣領職と和賀郡惣領職を獲得したことになり、実に下総守時義以来、九十年を経て鬼柳氏は和賀氏惣領となったのであった。この義継は時義の甥にあたる伊賀守義順の流れと思われるが、その系譜は明確ではない。
以後、戦国時代を迎えて、奥州各地では数多の合戦が繰り返され、次第に北奥の南部氏、中奥の葛西・大崎氏、南奥の伊達氏らが大大名に成長し互いに覇権を争った。そのようなかで、和賀氏も二子城を拠点として一定の勢力を保ったが、状況は厳しいものがあった。その間も鬼柳氏は和賀一族として、鬼柳を領知し羽多々館・笊淵館・鹿島館に拠って和賀氏麾下の巨臣として存続していた。しかし、その間における鬼柳氏の動向を語る記録や系譜は明確を欠き、戦国期に至る系譜も断絶している。
戦国末期に鬼柳義邑があらわれてくる。義邑は和賀氏十二代義翁の子伊賀守義幹の孫といい、おそらく、さきの伊賀守義継の系を継いだものと思われる。やがて天正十八年(1590)、豊臣秀吉の「奥州仕置」によって和賀氏は没落し、さらに、再起をかけた慶長六年(1601)の「和賀一揆」にも敗れた和賀氏はまったく没落した。和賀氏の滅亡後、鬼柳義邑の二男蔵人義元、三男の義景らは南部氏に仕えたと伝えられている。・2005年07月07日
【参考資料:和賀町史/岩手県史/東和町史 ほか】
■参考略系図
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