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大森氏
●二つ巴
●藤原北家伊周流


 大森氏は、駿河国駿河郡大森より起こったという。系図によれば、藤原北家関白道兼の子内大臣伊周の子孫と伝え、親家の代に駿河大森に住んで大森氏を称したのが始まりとある。しかし、実際のところは駿河郡の古い土豪であり、勢力を得るとともに藤原氏の子孫を称したものであろう。大森氏の庶流として、大沼・河合・菅沼・神山・沓間などが知られ、また、室町時代になると箱根別当職も一族のものがつとめた。

建武の新政

 源頼朝によって打ち立てられた鎌倉幕府は、後醍醐天皇による討幕計画「元弘の変」後の内乱により元弘三年(1333)に崩壊した。幕府の滅亡によって生まれた建武新政権は、後醍醐天皇の親裁を基本とする政治を目指した。しかし、新政権は幕府打倒にさほどの功もなかった公家を重く用い、恩賞も公家の方が多いなど新政府の方針は武士に軽かったことから次第に武士から見放されていった。さらに、政権内部でも様々な勢力の対立があり、その前途は波乱含みなものがあった。
 そのような新政に対して北条氏の残党が各地で乱を起こし、建武二年(1334)には、諏訪氏にかくまわれていた北条高時の遺児時行が信濃で蜂起した。「中先代の乱」と呼ばれる争乱で、中先代軍は足利軍を打ち破って鎌倉に乱入した。この乱を鎮圧するため、足利尊氏は征夷大将軍への補任を願ったが許されず、ついに後醍醐天皇より出陣の許可を得ないまま軍を率いて関東に下向した。
 三河で直義勢と合流した尊氏は、たちまち時行勢を撃破すると鎌倉に入った。そして、後醍醐天皇の召還命令を無視して鎌倉に居坐った尊氏は、味方に参じた武士たちに論功行賞を行った。しかし、この尊氏の行為は後醍醐天皇に対する謀叛以外の何ものでもなかった。尊氏討伐を決した天皇は、新田義貞を大将とする追討軍を派遣した。尊氏は追討軍を箱根竹之下で迎え撃ち、これを撃破すると敗走する新田義貞を追って京都に戻った。こうして建武政権は崩壊し、事態は南北両朝の分裂、室町幕府の成立へと展開していった。
 駿河国で一定の勢力を築いていたと思われる大森氏は、鎌倉時代の中期以降、北条氏得宗被官(家来)であったことが知られるが必ずしもその動向は明確ではなかった。そのような大森氏が歴史の表舞台に登場してくるのは、この関東の争乱のなかにおいてであった。

関東の争乱

 建武の新政の崩壊後、関東は足利氏の支配下に入り、鎌倉には尊氏の嫡子義詮がその分身として置かれ鎌倉御所と呼ばれた。ここに関東は、足利尊氏の子孫によって統治される基礎ができたのである。ところが、幕府内部で尊氏・高師直と弟の直義の間における確執が表面化し、観応元年(1350)「観応の擾乱」が起こった。
 関東は直義の影響力が大きく、直義を支えた上杉憲顕などがいたため、主要な合戦の舞台となった。翌年十一月、尊氏勢は直義を追って駿河に進攻し、薩●(土偏に垂の字)山の合戦で直義勢を破った。さらに翌年の元旦から二日にかけての早川尻合戦でも尊氏勢が勝利し、鎌倉に逃げ帰った直義は尊氏に降伏した。その後間もなく直義は死去したが、尊氏に毒殺されたともいう。
 こうした幕府内部の混乱につけこんで、正平七年(観応三年=1352)、新田義貞の遺児義興やその子義宗ら南朝方を標榜して蜂起した。「武蔵野合戦」とよばれる戦いで、尊氏勢が大敗北を喫した。義興らは南朝方を称したとはいえ、その実態はかつての直義方の武士たちを巻き込んでの反尊氏連合軍であった。『太平記』によれば、相模の武士では酒匂・松田・河村・四宮・中村らの諸氏が新田方に味方したという。そのほか、大森右衛門入道が鎌倉期に見えて以来、動向が不明であった駿河国駿東郡の大森氏や葛山氏もかれらとともに味方したとみえる。このことから、このころの大森氏が西相模と関係をもっていたことが想像される。
 新田勢は鎌倉に攻め込んだものの、鎌倉を確保できずに結局敗走した。以後、尊氏は文和二年(正平八年=1353)まで鎌倉に留まって直接関東の政治を行った。そして、相模国の守護職に尊氏方として活躍した河越直重を任じ、股肱の臣である畠山国清を鎌倉府の執事(のちの関東管領)と伊豆守護職に任命した。こうして、関東の情勢に一段落をつけた尊氏は鎌倉を離れるにあたって、義詮のあとを受けて鎌倉公方となっていた基氏に関八州の知行安堵・充行・処分などの権限や所務沙汰権を与えたのである。
 その後、基氏は反尊氏派の武士たちに手を焼き、ついに脱尊氏色をかかげてその支持を得ようとした。延文三年(1358)尊氏が死去したことも手伝って、基氏は尊氏が任じた執事畠山国清を追放した。そして、貞治二年(1363)、国清にかわって直義の信任が厚かった上杉憲顕を執事に登用した。その前後に、尊氏が任命した相模守護河越直重にかえて、三浦高通を相模守護に任じた。このようにして、関東は尊氏路線を脱した鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏による鎌倉府体制が成立、この体制は戦国時代まで続くことになる。

大森氏の台頭

 永和二年(1376)、鎌倉府は「箱根山別当関所」を円覚寺造営の費用として三年間にわたって差し置いている。これは、関銭徴集権を三年間円覚寺に与えるというものであった。さらに、応永十三年(1406)には、箱根山水飲関所が円覚寺などに打ち渡されている。関所からの収益は、鎌倉府と有力寺社において共通の財政的基盤となり、広義にみれば鎌倉府の御料所であったとも位置付けられる。
 ところで、応永十三年以降の伊豆府中関所の支配をみると、大森頼春が毎年関銭百五十貫文を請け負い、その旨を押書として鎌倉府奉行所に提出している。しばらく名前が見えなかった大森氏が関役人として登場するのである。関銭徴集は、当然のことながらその地域の経済的実力者に委ねられることが多かった。そして、関預人は見返りの多い請負でもあった。
 大森氏は、駿東郡から箱根道に連なる交通網の拠点を押える実力者として、歴史に浮上してきたのである。そして、それは大森氏が関所などを実質的に差配する宿の長者といわれる人々を組織化して、はじめて可能な事態でもあった。こうして、大森氏は地域経済を掌握する支配者としての立場を鮮明にしたのである。
 大森氏と鎌倉公方足利氏との関係は、御料所の代官化と関の預人化を通じて形成され、大森氏はそれを梃子として流通・交通網支配を根幹とする領主支配を展開させたのである。加えて、箱根権現別当に頼春の弟証実が就任したことで、大森氏は地域の精神的な紐帯や軍事力としての箱根山衆徒を掌握し、箱根権現の支配下にあった箱根の水海といわれた芦ノ湖の掌握も実現したのであった。そして、それらの人・物・道は大森氏を通じて鎌倉府の首都鎌倉と直結したのである。大森氏の権力構造の基本的性格はこの段階で確立され、以後の歩みを決定づけたのであった。

混迷の時代

 応永二十三年(1426)、前の関東管領上杉禅秀(氏憲)が鎌倉公方持氏に叛旗を翻した。いわゆる「上杉禅秀の乱」であり、鎌倉を逃れた公方持氏は箱根山を経て駿河の大森館に入った。しかし、禅秀方の甲斐武田氏の攻撃を危惧して、さらに駿河今川氏のもとに逃れた。大森氏は関所支配・代官支配などを通じて鎌倉公方と結びついていた関係から、禅秀の乱に際して明確に持氏に味方した。
 一方、鎌倉公方の権力が西相模に浸透することに不満と不安を抱いていた土肥・土屋氏ら西相模の主要な武士らは禅秀に味方し、大森氏は乱後に「土肥・土屋跡」を与えられている。公方権力の西相模浸透における先兵となっていたのが大森氏であり、大森氏は禅秀の乱を契機として土肥・土屋氏らに代わって相模国西郡から中郡に進出することができたのである。
 その結果、大森頼春・憲頼父子は箱根道を越えて足柄道から小田原に至る地域を支配するようになり、箱根山を一円する支配網をつくり上げた。そして、鎌倉公方持氏とさらに強い結び付きをもつようになり、鎌倉府の奉公衆にもつらなるようになったのである。
 永享年間(1429〜41)になると、鎌倉府と室町幕府の対立が深まり、その結果として「永享の乱」が勃発した。乱のそもそもの始まりは、幕府への対立姿勢を強める持氏を再三に渡って諌めてきた関東管領上杉憲実が持氏を見限って領国の上野に帰ったことに対して、永享十年に持氏が兵を向けたことにあった。大森伊豆守(憲頼か)は持氏に従って先兵の役割をつとめ、河村城攻略に活躍し、箱根山合戦では水呑において箱根権現別当実雄とともに奮戦して幕府方武士を多数討ち取ったという。このように、大森氏は持氏方の有力者として活躍し、『看聞日記』によれば上杉氏の守護領国である伊豆国の守護に補任されたが在地武士の抵抗を受けて伊豆には入部できなかったとある。大森氏にしてみれば幻の伊豆守護職就任となったわけだが、この記事から大森氏の実力が京都でも認識されていたことがうかがわれる。
 その後、合戦は幕府方の別働隊が西相模に侵入し、小田原の風祭で激戦が展開され、結果は鎌倉勢の敗北に終わった。ところがこの戦いにおいて大森氏が活躍したということは、軍記類を含めてまったく見られないのである。このことは、大森氏の勢力がいまだ小田原には深く及んでいなかったことを示したものといえよう。
 大森氏は永享の乱で持氏方として大活躍をしたが、結果は、持氏は敗れて自刃し鎌倉府は滅亡ということになってしまった。しかし、他の持氏方の諸氏同様にこの乱で大森氏は勢力を失ったわけではなかった。永享十二年、持氏の遺児らが結城氏に擁されて結城城において兵を挙げると、大森憲頼は箱根権現別当実雄とともに結城まで出兵しようとした。しかし、当時鎌倉に進駐していた駿河今川氏に遮られ参陣できなかった。結果として、大森氏の勢力は温存され、鎌倉府の奉公衆という立場から国人領主と呼ばれる自立した地域権力へと変化を遂げていくことになるのである。

戦国時代への序奏

 嘉吉元年(1441)春、結城城を攻略した将軍義教は、同年六月の「嘉吉の乱」で殺害されてしまった。宝徳元年(1449)に至って、持氏の遺児で唯一残っていた永寿王丸が赦されて成氏を名乗り、新鎌倉公方として関東に下向し鎌倉府が再興された。しかし、成氏は関東管領上杉憲忠と対立し、ついに享徳三年(1454)憲忠を謀殺してしまった。これをきっかけとして「享徳の大乱」となり、関東は確実に戦国時代へと移行していった。
 大乱が起ると、大森式部大夫は成氏方として武蔵分倍河原の戦いに出陣し、鎌倉に進撃してきた幕府軍を迎え撃った。やがて、幕府軍の攻勢によって鎌倉を失った公方成氏は、下総国古河に移り「古河公方」と呼ばれるようになった。その結果、相模国は関東管領上杉氏、守護扇谷上杉氏の管轄下に入った。さらに、長禄二年(1458)には新たな関東公方として将軍足利義政の弟政知が下され、政知は伊豆掘越に御所を構えて「掘越公方」と称された。このような情勢の変化に対して、大森氏ら相模の武士たちは新たな対応を迫られることになったのである。
 その後、大森氏頼と実頼は将軍足利義政から年来の忠節を致すと賞賛されており、いつのころか成氏方を離れて上杉氏方に転じていたのである。しかし、その一方で成氏方では「大森式部大夫」らが活躍しており、この時代の一特徴である惣領制の崩壊が大森氏内部にも生じていた。このころ小田原にいたのは憲頼と成頼の父子の系統であったようだ。大乱の過程において両系大森氏が並立していたことは紛れもないが、互いに対立するまでには至っていなかった。
 しかし、それぞれの領域支配が進行し、自立化が進んでくると、必然的に対立関係へと変化していった。そのきっかけとなったのは、大乱の最中に起った「長尾景春の乱」であった。長尾景春は山内上杉氏の重臣であったが、父の死後に上杉氏の執事になれなかったことを不満として主家に叛旗を翻したのである。この乱に大森信濃守(実頼)は「父子兄弟間、相分」れて太田道灌とともに反乱の鎮圧に活躍した。信濃守は、文明九年(1477)には、武蔵江古田原、武蔵用土原、翌年には相模奥三保、下総境根原、さらに翌十一年には下総臼井城での戦いと連年にわたって合戦に出陣している。一方で、景春方として大森伊豆守(成頼か)が平塚城に籠城し、太田道灌によって攻略されている。
 ここに、太田道灌らの勢力と連携する氏頼・実頼の系が憲頼・成頼系を追いやり、分裂していた大森氏が統一され氏頼が惣領となったのである。そして氏頼は新たな惣領制をもって、一族を被官化し、非血縁的な家臣団を基盤とする支配体制を確立したのである。このことは大森氏が、鎌倉・室町的な領主から戦国領主へと体質変化を遂げたことを示すものでもある。

小田原を形成した寄栖庵氏頼

 大森氏を統一した氏頼は小田原城を本拠として、本格的な城郭形成を行い、城下町をつくるなどして、小田原を地域経済の中核となる町場へと成長させていった。小田原の発展はその後の後北条氏によってなされたのではなく、その初めは大森氏の町づくりにあったのである。氏頼は太田道灌と結びついて扇谷上杉氏内部における地位を高めていったが、氏頼自身も文武を兼ね備えた一流の人物であった。
 真偽のほどはともかくとして、『太田道灌状』を真似たと思われる主君を諌めた「大森教訓状」と呼ばれるものが伝わっているのも、氏頼と太田道灌の関係をうかがわせている。文明八年(1476)、今川氏の家督争いに際して扇谷定正の代理として太田道灌が調停に出向いたが、それも氏頼の協力があって実現したものであろう。氏頼はのちに寄栖庵を名乗り、半僧半俗の身となることで自由を獲得し、鎌倉の高名な文筆僧と交わり、また法華経にも通じ、曹洞宗の普及にもつとめたことが知られる。
 氏頼は信仰心が篤く、総世寺など四ケ寺の開基となり、西安寺など二ケ寺を中興し、最乗寺の規模を拡張するなど、領内における仏教の発展に尽している。もっともその本質は、戦国領主として宗教的なイデオロギーを媒介とする領域支配を展開するとともに、城下町、領内における寺院を通じて富の収奪を狙っていたことは疑いない。だからといって、氏頼が小田原発展に果たした業績が損なわれるものではない。
 やがて、景春の乱も鎮圧され、享徳の乱も「都鄙の合体」と呼ばれる和睦がなった。この間における太田道灌の活躍は抜群で、扇谷上杉氏の威勢は山内上杉氏を凌ぐようになった。それを危惧した山内上杉顕定は扇谷上杉定正に道灌のことを讒言し、それを信じた定正によって道灌は謀殺されてしまった。その後、両上杉氏の対立から「長享の乱」が起り、扇谷上杉氏は古河公方と結んで各地で山内上杉氏の軍を撃ち破った。道灌を謀殺した定正を見限る武士も多かったが、大森氏は扇谷上杉定正に属して相模実蒔原、武蔵菅谷原・高見原など「関東三戦」と称される戦いに出陣して活躍した。
 両上杉氏の抗争は相模を舞台に展開されることが多く、小田原も合戦に巻き込まれ、大森氏は小田原で防戦につとめることもあった。その結果として、扇谷上杉氏内部における大森氏頼の存在は、必然的に重みを増していったのである。

時代の変化と大森氏

 両上杉氏が不毛な戦いを繰り返しているころ、一介の浪人から駿河守護今川氏の食客となった伊勢新九郎(宗瑞のちの北条早雲)が、勢力を拡大しつつあった。延徳三年(1491)、掘越公方家の内訌につけ込んで伊豆に乱入した新九郎は、掘越公方家を滅ぼすと韮山に本拠を構えて相模進出の機会を狙うようになった。
 氏頼は嫡子の実頼を小田原城主とし、みずからは岩原城主におさまり、太田道灌亡きあとの扇谷上杉家中で三浦・曽我・大森と称されるほどに重きをなしていた。そして、時代が大きな変化を遂げようとしている明応三年(1494)、岩原城において死去した。しかし、氏頼の終焉の地については諸説があり、いまなお確定していない。通説としては、氏頼が死去したとき嫡子の実頼はすでに死去していたため、その弟の藤頼があとを嗣いだといわれている。とはいえ、氏頼死去後の大森氏の動向については、後継者のことも含めてまことに曖昧な状態である。
 よく知られている話としては、明応四年(1495)二月、北条早雲(伊勢宗瑞)が謀略によって小田原城を奪取したというものが知られる。しかし、この事件のことは軍記物語などに記述されているばかりで、根本的史料は皆無に等しいのである。
 氏頼後の大森氏を知るものとしては、明応五年と推定されている山内上杉顕定の書状写が注目されている。それによれば、山内上杉方の軍勢が小田原城に攻め寄せ「大森式部少輔・刑部大輔・三浦道寸・太田六郎左衛門尉・上田名字中井伊勢新九郎入道弟弥次郎要害自落」せしめたとある。大森式部少輔は氏頼のあとを継いだ人物と思われ、伊勢宗瑞(北条早雲)の弟弥次郎と小田原城を守り、山内上杉方の攻撃に城を開いて落去した。明応五年の時点では、大森式部少輔は小田原城主として扇谷上杉方に属し、北条早雲らの支援を得て山内上杉方の軍勢を迎え撃ったのである。この式部少輔は大森氏の嫡流を継いだ人物には違いないが、これまで氏頼のあとを継いだとされている藤頼・顕頼あるいは定頼と同一人物であるかどうかは不明である。ただ、この書状から大森氏が北条早雲によって、明応四年に小田原城を奪取されたとする従来の説は、再検討されざるをえないといえよう。
 ついで、永正元年(1504)と推定される大森式部大輔宛の山内上杉顕定の書状写がある。これは扇谷上杉氏・駿河今川氏・北条早雲らの連合軍と武蔵立河原で対峙している最中に、式部大輔に甲斐の武田信縄への参陣を促すように依頼したものである。この書状から、大森氏は扇谷上杉氏から山内上杉氏に転向していることが知られる。顕定はつづいて永正六年にも式部大輔に書状を送り、翌年には顕定のあとを継いだ憲房も式部大輔に書状を送っている。このように、大森氏は十六世紀に入ってからもその存在が確認できるのである。

大森氏の没落

 永正元年に大森式部大輔に宛てられた顕定の書状をみると、甲斐の武田信縄への出陣を促す役割を期待されているものの、大森氏自身の出陣は要求されていない。ついで、永正六年の顕定の書状も、翌年の憲房の書状も大森氏からの贈答に対する礼状であり、顕定・憲房らは大森氏に軍事的行動を求めていないのである。このことから、小田原城は永正元年以前に 永正元年に大森式部大輔に宛てられた顕定の書状をみると、甲斐の武田信縄への出陣を促す役割を期待されているものの、大森氏自身の出陣は要求されていない。ついで、永正六年の顕定の書状も、翌年の憲房の書状も大森氏からの贈答に対する礼状である。すなわち、顕定・憲房が式部大輔に宛てた書状は大森氏に軍事的行動を求めていないのである。このことから、小田原城は永正元年以前に北条早雲の持城となっていて、大森氏はすでに小田原城主の地位とそれに付帯する軍事力を失っていたものと考えられる。
 おそらく、大森氏は氏頼が死去したのち家臣を巻き込んでの相続争いが展開され、それに旧憲頼・成頼系の大森氏や家臣たちも関与し、大森氏の権力は大きく弱体化したものと誰何される。他方、成頼の孫とされる海実が永正四年まで箱根権現別当をつとめ、そのあとを早雲の子菊寿丸(のちの幻庵宗哲)に継承させていることなどから、大森氏の内部争いに早雲が何らかのカタチで関わったことをうかがわせている。端的にいえば、大森氏家中における箱根権現系ともいえる流れに早雲は着目し、大森氏権力の分裂を策して、ついに小田原城を乗っ取ったと考えられるのである。
 小田原城を退去した大森氏は、その後、実田(真田)城に入ったといわれるが、これにも異説がある。あるいは、顕定の書状から推して、甲斐の武田信縄のもとにあって庇護を受けていた可能性もあり、従兄弟の三浦道寸を頼って新井城に居たとも推測されている。
 いずれにしろ、大森氏の嫡流と思われる式部大輔の消息は、山内上杉憲房の書状を最後に知られなくなる。すなわち、早雲と三浦氏の抗争が激化する永正八・九年ごろに忽然と消えてしまうのである。永正九年は岡崎城合戦があり、敗れた三浦氏は新井城に退却している。おそらく、大森式部大輔もこれに従い、新井城が落城したとき三浦氏と最期をともにしたものと想像される。
 その後、大森氏の嫡流にあたるものが後北条氏の家臣となった一族の庇護の下にあり、菊池・佐久間などと名字を変えて続いたとされている。そして頼照の代に至って「関ヶ原の戦い」に遭遇し、養父佐久間勝之にともなわれて徳川秀忠に謁見し、徳川旗本大森氏として家を再興した。しかし、小田原城に拠って中世の西相模に一定の勢力を築いた大森氏は、小田原城を退去したときに歴史的な使命は終えていたといえよう。・2005年07月06日

参考資料:小田原市史/神奈川県史 ほか】


■参考略系図
 

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