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大久保氏
●上り藤に大文字
●藤原北家宇都宮氏流
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大久保氏は、北関東の戦国大名宇都宮氏の支流といわれる。泰藤のとき三河国上和田妙国寺の前に住したという。のち宇津氏に改めた。
さて、宇都宮氏の有力一族である武茂氏の第二代時景の嫡子として生まれたのが武茂泰藤である。泰藤は、南北朝動乱期に際して、新田義貞の旗下に馳せ参じ、一貫して南朝方として活躍し、その武名を天下に輝かせた武将であった。
泰藤は乾元元年(1302)武茂時景を父に、芳賀高貞の女を母として生まれた。高貞は宇都宮八代貞綱の嫡子として生まれたが、長じて芳賀氏を継いだ人物である。芳賀氏は初め清原氏を称したが。真岡の芳賀郷に住したことから、芳賀氏を名乗った。芳賀氏は芳賀郡益子郷に居を構えた益子氏とともに「紀清両党」と呼ばれ、宇都宮氏の両翼をになった。
また、宇都宮七代景綱の四男高久が芳賀氏を継ぎ、さらに高貞がふたたび宇都宮氏から出て芳賀氏を継いだことに成る。ちなみに高久は武茂氏の初代泰宗の弟でもあった。こうして芳賀氏は、主家宇都宮氏と姻戚関係を結び、主従の関係を超えて、宇都宮氏の一族・一門化することによって、その勢力を拡張し、他の家臣を圧倒する地位を確保するに至った。
南朝方として活動
やがて、武茂泰藤が「紀清両党」を率いて、南北朝動乱期に活躍するにいたったのも、芳賀氏との強い結びつきがあったからであろう。
泰藤は、新田義貞の鎌倉攻めの挙兵に従って以来、義貞が越前藤島において戦死するまで終始行動をともにした。義貞の戦死後、義貞の弟、脇屋義助は新田義治・泰藤をはじめとする残存した新田軍七百余人を収めて、越前の国府に撤退した。その後、北陸では足利軍が次第に優勢となり、新田軍の拠点は次々と陥落し、義助・泰藤らは越前から美濃に出て、根尾城にこもって戦ったが興国二年(1341)九月、落城した。
義助は、尾張・伊勢・伊賀を通って吉野に潜行し、その後、伊予国に下って兵を集めて足利軍をおおいに悩ませたが、武運つたなかう伊予の国府において病死した。一方、泰藤は、尾張で脇屋義助と分かれて三河国和田郷に入り、上和田郷に城を構えて再挙を図った。
泰藤は、上和田城を築いたのち、四囲に呼び掛けて南朝勢力の挽回に努めたが、南朝の衰退はいかんともなしがたい状況であった。その後、泰藤は岳父にあたる美濃の土岐頼直の勧めもあって、法華宗に帰依し蓮常と称したが、正平七年(1352)三月、五十一歳をもって病死した。
泰藤の後は、泰綱・泰道・泰昌・昌忠・忠与と続くが、泰昌の代に三河松平郷に住みつき、その子昌忠は、まだ名もない一土豪にすぎなかった松平信光に仕え、以来、徳川譜代の家臣として、数々のい戦功をたてるに至った。
ところで、嫡子泰藤が南朝方としてつくして異郷で病死したあとの武茂氏の家督は、弟の氏泰が継いだ。氏泰も兄泰藤とともに南朝方につくした。義貞の戦死後、兄と別れて下野武茂郷に帰り、武茂城にあって領地に支配にあたったようだ。帰郷後も、南朝方として行動したようだが、やがて四囲の状況、南朝方の衰退などから、北朝・足利方に従属する結果になったと考えられる。
大久保氏の誕生
忠茂のとき、家康の祖父清康の山中城攻めに軍功があり、また、民政にも手腕を発揮した。嫡子忠俊は清康・広忠に仕え武勇で知られた。越前の人大窪藤五郎某が三河に来て、自分の苗字を残すべき人は忠俊しかいないとのことで、忠俊は一族とも大窪を名乗り、のちに大久保と改めたという。
広忠の岡崎還城には一族を結集して尽力した。三河一向一揆のとき、忠俊・忠勝父子は一族、与力など百騎余で一揆勢を防ぎ、忠勝は眼を射あれて合戦から引退した。大久保宗家は大名になることがなかったが、忠員の系統が繁栄した。
忠員の子忠世は一手役をもつ武将として諸合戦に奮戦した。元亀三年(1572)十月、武田信玄の軍勢と衝突した遠江一言坂の合戦で忠世は殿軍役を果たした。その後の三方ケ原合戦で徳川方が武田軍に惨敗すると、味方を鼓舞するために夜襲を進言し、天野康景とともに鉄砲に長じる足軽・手勢を率い、武田軍が布陣する犀ケ崖を襲い、銃撃して混乱に陥れ、三河武士の意気地を示した。
天正三年五月、長篠の戦では弟忠佐と徳川鉄砲隊を率い、武田騎馬軍団の前進を阻み、織田信長から激賞された。同年六月から武田方の芦田信守・信蕃父子が守る遠江二俣城を包囲し、十二月に開城させ守将として入った。
天正十八年、家康の関東入国後、北条氏の本拠、相模小田原城を領す。戦塵にまみれながら徳川家の基礎固めに尽くした忠世は、文禄三年九月小田原城で没した。
忠世の嫡子が忠隣である。家康にはじめてお目見えしたのは、三河一向一揆の戦乱の最中である。永禄十一年、十六歳で遠州堀川城攻めに初陣し、榊原康政などと先陣争いをして、見事一番乗りをなしたという。翌年には、駿河を遂われた今川氏真の籠る掛川城攻略戦に出陣した。さらに、姉川の合戦、三方ケ原の戦い、小牧・長久手の戦いに、家康の旗本として出陣し、つねに家康の近くにあって護衛した。
文禄二年(1593)、家康の命により、徳川秀忠の年寄職となる。これは江戸城における最高の職であった。翌年、父忠世が逝去すると、忠隣は父の遺領四万五千石を相続して小田原城主となり、羽生領二万石を併せて六万五千石を領した。
近世に生きる
秀忠が二代将軍になると、家康は将軍の後見として駿府城に入り、大御所と称された。江戸も秀忠には忠隣が、駿府の家康には本多正信がそれぞれ老職として政治の頂点にたった。いわゆる二元政治の始まりであった。この幕閣二頭政治が行われるなかで、両者の対立と勢力争いが先鋭化していった。
慶長十八年の暮れ、突然、京都に直行するよう厳命がくだった。年改まった一月、忠隣は多数の家臣を率いて上洛。そして、京都所司代板倉勝重を通じて改易の命が下る。その理由については、大久保長安事件との関わりなどさまざまにいわれるが、真相は謎である。忠隣は家臣数人を連れて、配流の地近江国上笠村に入り、そこで五千石の領地を拝領した。以後仏門に帰依しながら、寛永五年七十六歳で生涯を閉じた。
その後、大久保家は貞亨三年(1686)忠朝にいたって、大名に返り咲いた。石高も旧に増して十万三千石、以後代々小田原城に住し、明治維新に至った。・2004年08月16日
【資料:馬頭町史(栃木県立図書館蔵)】
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