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山中氏
●橘
●橘氏後裔
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近江の山中氏は、戦国時代に甲賀二十一家の随一と称され、鈴鹿山麓の山中村から起こったと伝えられている。山中氏は橘姓といい数種類の系図が伝来しているが、それぞれ異同が著しく、にわかにその世系を特定することは難しい。いずれにしても、平安末期ごろ、荘園の下司・公文として武士化していたようだ。
鎌倉時代はじめの、嘉禄二年(1226)、橘中務丞俊信が、鈴鹿山の賊を退治した功によって、山中村地頭.鈴鹿山盗賊追捕使に補任された。そして、山中にちなんで山中を称するようになったという。山中氏系図によると、俊信以前に岩屋・大平・石部・野村・山村・三雲・宇田・原らの諸氏が分出しており、山中氏は惣領を中心とした武士団を形成していたようだ。
また山中氏は、伊勢神宮祭司によって伊勢神宮柏木御厨の地頭職に補任され、幕府からも公卿勅使「儲役」、「鈴鹿峠警固役」を公認されていた。「儲役」とは朝廷が伊勢神宮に特別なことを祈願する勅使である公卿勅使を接待する役であり、「鈴鹿警固役」とは公卿勅使を近江・伊勢国境附近で警護する任をいった。
山中氏は鈴鹿山麓の山中村を本拠としていたが、やがて、惣領家は柏木御厨に移住したため山中氏は二流に分かれた。柏木に移った山中氏は、柏木御厨五郷(本郷・酒入郷・上山村郷・中山村郷・下山村郷)を領して、戦乱を生き抜き甲賀郡屈指の国人領主に成長していったのである。
南北朝の動乱
元弘の変に際して、上洛してきた幕府軍は鈴鹿を避けて美濃を通って京に入っている。このことから、山中氏が反幕府的であったことをうかがわれ、建武の新政がなると後醍醐天皇から鈴鹿警固役を沙汰する旨の綸旨を賜っている。しかし、足利尊氏の謀反によって新政が崩壊すると、山中氏は美濃部氏、小佐治氏らとともに守護佐々木氏に属して尊氏に味方した。
建武四年(1337)、甲賀の南朝方頓宮氏が五辻宮を奉じて信楽で挙兵、飯道寺城と勅使の岩倉城に立て籠った。これに対して中山四郎右衛門尉、小佐治基氏らが、信楽に攻め込み、夜を徹して激戦がおこなわれた。翌年、五辻宮を奉じた南朝軍が蜂起、北朝方の山中道俊・頼俊および小佐治基氏は激戦のすえに南朝方を伊勢に奔らせている。
その後、山中氏は観応の擾乱に際して南朝方に転じたこともあったが、南北朝の動乱期を北朝方として行動した。やがて動乱は北朝方の優勢となり、明徳三年(1392)、足利義満によって南北朝の合一がなった。かくして、足利将軍を頂点とする中央集権体制=足利(室町)幕府が確立されたのである。そして、近江国の北守護は佐々木京極氏、南守護は佐々木六角氏が任じられた。
足利義満は室町幕府全盛時代を現出したが、義満の死後、幕府政治は次第に衰退兆候をみせるようになった。嘉吉元年(1441)、足利義教が赤松満祐に殺害されると、幕府の権威を大きく揺らいだ。以後、幕府政治は混乱の度を深め、将軍家、有力守護家の家督争いが引き金となって、応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発した。乱に際して、江北の京極氏は東軍に、江南の六角氏は西軍に属して対立した。文明年間になると六角と京極の抗争が激化し、文明二年(1470)、蒲生郡黒橋で激戦が行われ甲賀武士は六角方として奮戦した。
六角氏麾下として活躍
応仁の乱を生き抜いた六角高頼は、京極氏を応援した幕府・比叡山延暦寺への恨みもあって、江南の社寺領や幕府奉公衆領の押領を行った。幕府は再三にわたって乱妨の停止を命じたが、高頼の押領はやまなかった。六角高頼討伐を決した将軍足利義尚は、長享元年(1487)九月、近江に出陣した。対する六角高頼は山中氏に栗太郡の山田方面を守備させ、両軍は野洲河原で合戦となった。敗れた高頼は甲賀に逃れてゲリラ戦を展開、年の暮れの十二月、義尚が本陣をおく鈎に夜襲をおこなった。
世に「鈎の陣」と称される合戦で、その先鋒となった山中橘六ら甲賀武士たちは幕府勢に多大な損害を与えたのである。このとき、軍功をあげた甲賀武士五十三人は甲賀五十三家と呼ばれるようになり、そのなかでとくに抜群の功をあげ高頼から感状を受けた武士二十一人を甲賀二十一家と呼ぶようになった。
足利義尚が最初に陣をおいた安養寺、甲賀衆はこの地を夜襲したと伝えられる。その後、義尚は永正寺に本陣を移し、同地において客死した。安養寺の境内は高速道路に寸断され、永正寺は土塁がわずかに残るばかりで、過ぎ去った歴史の軌跡をたどる難しさを実感する。
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山中氏も二十一家に数えられ、青木・池田・隠岐・和田・三雲氏らとともに六角氏の本城観音寺城在番、軍代を務めた。また、美濃部・伴氏と並んで「柏木三家」とよばれる地域連合惣を形成し、連合惣の集合体である甲賀郡中惣の有力者として勢力を保った。
■甲賀二十一家
●柏木三家 |
山中十郎 | 伴佐京介 | 美濃部源吾
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●北山九家 |
黒川久内 | 頓宮四方介 | 大野宮内小輔 | 岩室大学介 | 芥川左京亮 | 隠岐右近太夫 |
佐治河内守 | 神保兵内 | 大河原源太
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●南山六家 |
大原源三郎 | 和田伊賀守 | 上野主膳正 | 高峰蔵人 | 池田庄右衛門 | 多喜勘八郎
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●荘内三家 |
鵜飼源八郎 | 内貴伊賀守 | 服部藤太夫
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戦乱を生きる
戦国時代、山中氏は六角氏麾下の有力武将として活動、永正四年(1507)、幕府内の権力闘争に敗れて近江に逃れた細川澄元を匿っている。
天文十一年(1542)九月、伊勢国司北畠具教が鈴鹿を越えて近江に攻め入ってくると、丹後守秀国(橘内長俊とも)はこれを迎撃して撃退した。ほどなく、北畠氏一族の木造具国が来攻、進藤武蔵守・後藤但馬守らの応援を得た秀国は、蟹坂口において伊勢軍を撃破した。さらに逃げる伊勢軍を追撃して、二千余人を討ち取る大勝利を得た。この秀国は山中村に残った庶流山中氏の当主と思われる。
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山中氏は元々鈴鹿峠に近い山中村に拠っていたが、神宮領柏木御厨を領したことで、平野部の柏木に新たな居城を築いた。以後、同城を本拠として戦国時代には有力国人に成長した。文字通り水田の中の平城で、土塁、曲輪、濠跡と思われる水路が往時を偲ばせる。城址は以外に広大で、奥邸、別邸(おつぼね邸)、げんの濠などが竹薮のなかに残されている。また、道路を隔てた南西に山中殿と呼ばれる一画があり、そこにも土塁、濠跡が確認できる。永正四年(1507)、近江に逃れた細川澄元を匿ったことが「なるほど」と実感できる城址であった。
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戦国時代後期、山中氏の惣領は勘解由左衛門貞俊・大和守久俊父子であった。天文十六年、久俊が死去したのちは弟の俊好が山中氏と同名中の惣領となり大和守を称した。俊好は六角承禎・義治から軍勢催促や感状を受け、永禄六年(1563)には進藤山城守から誓紙を受けている。山城守からの誓紙は同年十月に起こった観音寺騒動に関連するものと思われ、山中氏が六角氏家中において重要な立場にあったことをうかがわせる。
このころ、六角氏は江北の浅井氏と抗争を繰り返しており、永禄九年八月、大和守は承禎から出陣命令を受け、佐和山付近で浅井勢と激戦を展開した。永禄十一年二月、浅井長政は野洲郡・栗太郡・志賀郡・桐原七郷など近江南部の大半の知行を条件に俊好を招いたが、俊好は浅井氏に転じることはなかった。しかし、同年、織田信長が上洛軍を起こし、これに抵抗した六角氏が甲賀に没落すると、俊好を取り巻く状況は緊迫の度を増した。元亀元年(1570)、六角氏に従って信長に反旗を挙げたが敗れ、天正二年(1574)頃、織田氏に属するようになったようだ。
信長の死後、豊臣秀吉に仕えたが、天正十三年の甲賀破議によって柏木荘を失い旧領の鈴鹿山麓山中村へ蟄居した。のち柏木に戻ったが、山中氏惣領家は没落となり、子孫は郷士として続いたという。
もう一つの山中氏
南北朝頃に宗家から分かれた庶流から為俊・長俊父子が出た。為俊も佐々木六角氏、ついで信長に仕え、長俊は本能寺の変以降、柴田勝家に属した。天正十一年、賤ケ岳の合戦で柴田家が滅びると丹羽長秀に属した。ところが長秀没後、丹羽家中では家臣団同士が争う内訌が激化したことから、長俊は丹羽家を離れ秀吉に召し出された。
豊臣政権下では右筆として活躍、天正十八年の小田原の陣、奥州征伐にも従軍し、同年七月、鎌倉の鶴岡八幡宮が修築されたとき、その造営指図に署名している。文禄二年(1593)以降、秀吉蔵入地(直轄領)の越前北袋銀山代官、筑前蔵入地代官等を歴任して、同年九月百石を加増された。
長俊の山中家は代々新左衛門尉を官途としたが、長俊は初めて山城守に叙昇され、所領累進して文禄四年にはついに一万石の大名に列した。当時の所領は摂津西三郡、河内中部、近江・伊勢などに散在した。秀吉晩年には畿内蔵入領三万石の代官であった。しかし、関ヶ原の役では西軍に与して戦後改易処分を受け、京都に隠棲したという。
長俊の孫幸俊は山中氏が改易されたのち、豊臣秀頼に仕え、大坂の陣にも参加した。しかし、豊臣家が滅亡したことで、京都に隠棲、その後浅野長晟に仕え子孫は広島藩士として続いたという。・2007年01月08日
【参考資料:甲賀郡志/甲賀町史/石部町史/甲南町史/姓氏家系大辞典 ほか】
相田二郎「神宮参道伊勢鈴鹿関の警固と近江山中氏」『中世の関所』有峰書店/
石田晴男「両山中氏と甲賀『郡中惣』」『史学雑誌』95−9、1986年/
石田善人「甲賀郡中惣と伊賀国一揆」『史窓』21、1962年/
高木昭作「甲賀郡山中氏と『郡中惣』」『歴史学研究』325、1967年/
福島金治「近江国柏木御厨と金沢北条氏・山中氏」『鎌倉遺文研究』・ 東京堂出版、1999年/
牧野信之助「神宮参道の警固並びに保司としての山中氏」『武家時代社会の研究』河出書房/
宮島敬一「戦国期の『領主』と在地法秩序」『戦国期社会の形成と展開』吉川弘文館、1996年/
村田修三「戦国時代の小領主」『日本史研究』134、1973年
■参考略系図
近江山中氏の系図は、刊本としては『続群書類従・系図部集』『古代氏族系譜集成』『姓氏家系大辞典』などがあり、下記系図は集成を底本に作成した。
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