|
蜷川氏
●合子に箸
●物部氏族宮道氏流
「合子に箸」紋は図柄がさまざまにあるが、一般的な意匠のものを掲載。また、蜷川氏は元来「三つ巴」紋を用いたという説もある。
|
|
蜷川氏は、越中国新川郡蜷川郷から発祥した。すなわち宮道式俊・親直父子は、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げに参じて功があり、越中国砺波・新川の両郡を領した。そして、代々、新川郡蜷川郷に住したというが、鎌倉時代の蜷川氏の動向については不詳である。
蜷川氏の出自に関して、徳川幕府が編纂した『寛永諸家系図伝』には、「宮道氏は物部守屋の後裔なり。年代久しきゆえに世系断絶す」とある。ついで『寛政重修諸家譜」には、「物部守屋末孫宮内大輔宮道朝臣弥益、山城国山科を領す。その後胤七郎親直越中国新川郡蜷川に住し、その地名をもって家号とす」とある。
先の寛永系図には、大田左衛門尉式宗をもって親直が兄とし、その父は記されていない。一方の寛政譜には、「寛永譜は式宗をもって親直の兄としているが、別本の系図には弟とある。これを『尊卑分脈』宮道氏蜷川系図と考えあわせるに、大田左衛門尉式宗を始祖とし、その男を同左衛門尉式親とし、その男を蜷川七郎親直とし、法名を諸西という」と記して、新古の系図によって相違があり、一概に蜷川氏の祖を求めることは難しい旨が記されている。
いずれにしても、鎌倉時代初期の人物である親直が、蜷川氏の始めとすることは、諸説一致したところであるようだ。
室町幕臣として活動
鎌倉時代後期、征夷大将軍宗尊親王に仕えた蜷川右衛門尉親心の娘が、足利氏の被官伊勢貞信(盛継か)に嫁いだのが、のちに蜷川氏が足利氏と関係をもつ機縁になった。
蜷川氏と深い関係を結ぶことになる伊勢氏は、鎌倉時代初期、伊勢俊経が足利義兼に仕えてから、足利氏の被官となったという。南北朝時代、伊勢貞継が足利尊氏に重用されたことから、室町幕府に確固たる地歩を築いた。そして、康暦元年(1379)の康暦の政変以後、二階堂氏に代わって幕府政所執事に就任、以後、伊勢氏の代々が世襲した。
伊勢氏出世の端緒を開いた貞継は、蜷川親心の娘が生んだ人物で、親心の子親行・親朝らは伊勢氏に仕えるようになった。そして、親行らは伊勢氏を介して足利尊氏にも仕え、親朝は丹波国船井郡桐野河内に住し蟠根寺城を築いた。その後、伊勢氏が幕府内での地位を高めていくとともに、蜷川氏の地位も相対的に向上、番衆や奉行衆などにも列した。伊勢貞継が康暦元年に政所執事に就任すると、蜷川氏は政所代に抜擢され、これよりのち親世に至るまで代々その職を世襲した。
蜷川氏の当主は代々新右衛門と名乗り、テレビアニメ『一休さん』に登場する足利義満の側近の蜷川新右衛門は親当(ちかまさ)がモデルになったという。しかし、実在の新右衛門親当は足利義教に仕え、一休さんに出てくる新右衛門は架空の人物といえよう。とはいえ、新右衛門親当と一休さんこと一休宗純とは師弟関係があったことが知られている。
新右衛門親当は将軍義教に仕えて、政所の公役をつとめ京都の沙汰人として活躍した。また、親当は和歌や連歌、書道、絵画にも秀でた武家文化人で、特に連歌では多くの作品を残し、連歌界中興の全盛時代を築いた。嘉吉の乱で義教が殺害されれると、親当は出家して智蘊と号して、多くの連歌会に参加、連歌中興の祖と呼ばれた。
●夕景に霞む、蟠根寺城
室町幕府官僚として歩む
親当のあとを継いだ新右衛門親元は、足利義政、足利義尚期の政所執事代を務めた。かれが生きた時代は幕府将軍、幕府管領から守護大名らが内部抗争に明け暮れ、次第に乱世へと移り変わる時期にあたっていた。そして、応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発、その多難なおりの文明五年(1473)に政所代に就任したのである。
足利義政の時代に成立したとされる『見聞諸家紋』には、蜷川氏は奉公衆二番、「合子に箸」紋が「合子箸」と注記されたうえで収録されている。この「合子に箸」紋は、意匠といい、呼称といいまことに特異な紋である。蜷川氏は物部氏の後裔を称している。古代物部氏が軍事氏族であったことはよく知られているところだ。その後裔には弓削氏なども出ている。
おそらく蜷川氏の「合子に箸」紋は、武具である弓に関係する「弦巻」紋が本来の家紋だったのではなかろうか。それに足利将軍家から拝領したであろう「二つ引両」を合体したのではないだろうか。そういう観点で「見聞諸家紋」を眺めれば、波多野氏・遠山氏・富永氏など本来の紋に二引両を配した家紋が多く収録されていることが見てとれる。おそらく蜷川氏の紋は「弦巻に二つ引両」が本来の呼称ではなかったか。
親元のあと親孝、親順、親俊(親世)とつづき、代々政所代を務めた。その間、伊勢貞陸が山城守護代に任じられると、蜷川親胤が守護代、親俊が郡代を務め、伊勢氏の山城支配を支えた。また、親元・親孝・親俊らは、それぞれ「蜷川親元日記」「蜷川親孝日記」「蜷川親俊日記」を残し、室町幕府を研究するうえでの貴重な史料となっている。
【家紋:『見聞諸家紋』に見える「合子に箸」紋】
乱世に翻弄される
十六世紀になると、世の中は戦国動乱の時代となり、下剋上が横行していた。すでに幕府将軍たる足利氏の権威は失墜し、管領細川氏、畠山氏らも内訌に揺れていた。
親世・親長父子は足利義輝に仕えて、本領である船井郡桐野河内の蟠根寺城に住した。蟠根寺城は親俊のあと、親当、ついで庶兄の貞繁が城主となり、貞繁の子孫が代々蜷川宗家に代わって船井郡桐野河内の経営にあたった。
戦国時代の荒波のなかで、丹波の諸城が落城の憂き目さらされるなかで、蜷川氏はよく蟠根寺城を保った。その背景には衰えたりとはいえ、蜷川氏が幕府の目付役として丹波ににらみを効かせてきたことがものをいっていたようだ。しかし、永禄六年(1563)、伊勢貞孝・貞良父子が三好氏と戦って討死すると、蜷川氏の立場も微妙なものとなった。さらに永禄八年、足利義輝が三好三人衆・松永久秀らの謀叛によって殺害されると、ついに親世・親長父子は蟠根寺城を去っていった。
親世・親長が去ったあとの蟠根寺城は、蜷川貞周が在城し、明智光秀の丹波攻略が進められるようになると光秀に属した。そして、本能寺の変後の山崎の合戦において、蜷川貞周と嫡男の貞房は光秀に味方して出陣。一族郎党とともに戦死した。
|
|
・蟠根寺城のある高屋に鎮座する春日神社、本殿は重要文化財とあった。
・繁茂する草木に覆われた中に、佇立する蟠根寺の山門。
・蜷川氏の菩提寺である蟠根寺、人気もなく寂しい境内だ。本堂横の墓地には蜷川氏のものと伝えられる宝凾印塔が佇んでいる。
・高屋からみた蟠根寺城、鹿に対する防御網があり登城は難しい。
→ 蟠根寺城址に登る
|
|
|
近世への道程
丹波を離れた親世は、出羽国寒河江の高松左門を頼って落ち延び、同地で死去した。一方、嫡男の親長は親戚なたる土佐の長宗我部元親を頼って、土佐国に下り同地に居住した。連歌の達人であり、京の礼法にも通じた親長は長宗我部氏に重用された。元親夫妻の雅号を貰い受ける使者となして京都等持寺の僧策彦周良の元へ使いしたり、元親百ヶ条の成立にも携わったという。しかし、土佐も親長にとって安住の地とはならなかった。
慶長五年(1600)、関ヶ原の役に際して長宗我部盛親は西軍に属し、戦後封地を没収されてしまった。家康から浦土城請け取りの命を受けた井伊兵部少輔直政が、家臣鈴木重好を検使として土佐国に赴かせた。このとき、これを拒んだ長宗我部遺臣の土佐国人らは一揆を結んで浦戸城に拠り、雪渓寺に陣を布いた重好に攻め寄せた。このとき、親長と嫡子親満は重好に加勢、手勢を率いてしばしば一揆軍と戦い、終に城を落し重好に城請け取りの任を成らしめたのである。
のち、親長父子は大坂に上って家康に拝謁、勅使が伏見城に至ったとき、出仕すべきむねを本多正純より奉書をもって山岡道阿弥より達せられた。親長は道阿弥とともに伏見城に上り、その響応配膳等の故実を言上した。そして、慶長七年に至って山城国綴喜郡の内に采地五百石を賜った。のち御伽衆となり、足利将軍家の法式および騎射歩射、さらに連歌等の故実を言上している。
親長が死去したのち親満が家督を相続、同十九年より、秀忠に仕え、永井直勝の組に属して御書院番をつとめた。大坂両度の陣にも参加し、子孫は徳川旗本として続いた。・2006年11月05日
【参考資料:遍歴の武家・寛政重修諸家譜・京都市姓氏歴史人物大辞典・園部の歴史 ほか】
■参考略系図
・『古代氏族系譜集成』に収録された「宮道朝臣蜷川氏」系図をもとに作成。
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
|
|
丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
|