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根来寺
寺紋 : 三つ柏
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戦国時代、いち早く鉄砲を装備し戦国大名に匹敵する勢力を有した根来寺は、弘法大師空海を宗祖とする新義真言宗の
総本山である。本尊は大日如来、山号を一乗山と称し、詳しくは一乗山大伝法院根来寺と号する。
根来寺を開創した覚鑁(かくばん、興教大師)上人は肥前国藤津荘の武士伊佐家に生まれ、十三歳で藤津荘の領家である
京都仁和寺成就院へ入り寛助僧正に師事した。奈良と京都を往復しながら仏教を学び、二十歳で高野山に登り、
三十五歳で真言宗の伝法のことごとくを灌頂し、宗祖空海以来の学僧と称された。
根来寺の濫觴
やがて覚鑁に帰依した鳥羽上皇が、那賀郡根来近郊の岡田・山東・弘田・山崎の荘園を寄進するなど手厚い保護を加えた。
長承元年(1132)、鳥羽上皇の院宣をえた覚鑁は、学問探究の場である「伝法院」と修禅の道場である「密厳院」を建立した。
二年後の長承三年には高野山金剛峰寺座主に就任し、覚鑁を筆頭とする大伝法院は大いに隆盛した。
高野山全体を統括する立場になった覚鑁は、当時、堕落していた高野山の綱紀を正し、宗祖空海の教義を
復興しようと尽力したが、高野山内の衆徒の多くがこれに反発した。かくして、覚鑁の大伝法院方と高野山の衆徒の間に
確執が生じ、保延六年(1140)には密厳院などが焼き討ちされるという事件が起こった。ここに至って、
覚鑁と一門は高野山を退いて、荘園の一つである弘田にあった豊福寺に拠点を移すと新たに学問所として円明寺を建て
伝法会道場とした。その後、円明寺を中心に院が建てられ、一山総称して根来寺と呼ばれるようになった。
それから四年後の康治二年(1143)十二月、覚鑁上人は四十九歳の生涯に幕を閉じたのである。
覚鑁の死後、弟子たちは高野山に戻ったが、金剛峰寺との対立は根深いものがあった。それから一世紀以上を経た
正応元年(1288)、大伝法院の学頭であった頼瑜が大伝法院と密厳院を根来へ移し、新義真言宗の基礎を築いたので
ある。以後、根来寺は「学山根来」として多くの学僧を抱え、覚鑁上人の法灯を守る法会を営む堂塔伽藍、
頼瑜独自の院である中性院をはじめとした教学を伝受する院が三百以上を数える一大寺院へと発展していった。
………
・奥の院−覚鑁上人の廟所
根来寺の武力集団化
室町時代になると、大塔の建築が始まり、舗装道路や多数の礼拝施設が造られ、境内が大規模に整備された。そして、院九十八、僧坊二千七百、寺領七十二万石、僧兵一万余を擁し、その勢力は紀北から和泉・河内にまで及んだ。
根来寺には新義真言宗の教学を学ぶ学侶(衆徒)と、寺院経営の実務を執り行う行人がいたが、乱世になると行人の
組織が大きな力を持つようになっていった。さらに、紀北や泉南の土豪は高野山内に行人方の院を建て、子弟を出家させて住職とした。実家を背景としたかれらが行人の主力となり、やがて、水利権をめぐって紀伊守護である畠山氏と争い、守護方に大きな損害を与える軍事集団に成長した。
巨大化した根来寺の僧兵軍団を率いた旗頭は行人方である杉之坊・岩室坊・閼伽井坊・泉識坊の四坊で、いわゆる根来寺の家老格の院主として地方大名級の勢力を誇った。一方、巨大化する根来寺の生活を支えるため門前町の西坂本は商工業の町となり、漆器や鍛冶の職人が集住し、鉄砲や武具の製造も行なわれた。
四坊の一つ杉之坊の院主である津田監物算長は、熊野船に乗って紀州と種子島との航路を往来し、根来寺の力を背景に
貿易を盛んに行っていた。算長は中国語・ポルトガル語を解したといわれ、種子島にもたびたび訪れていた。
天文十三年(1544)三月、種子島に渡った算長は種子島の島主種子島左近大夫時堯から
鉄炮一丁を得て根来に持ち帰った。算長はただちに根来西坂本の芝辻鍛刀場・芝辻清右衛門妙西に複製を命じ、
翌年に紀州第一号の鉄炮が誕生したと伝えられている。そして、弟明算とともに根来衆の武装化を進め、
その一方で鉄砲の生産を産業化し、鉄砲の操作と販売を全国的に行った。
かくして、根来衆は新兵器鉄炮に練達した傭兵集団として、各地の戦国大名に雇われて戦に出ることも多く、
その存在は無視できないものとなったのである。
また、四坊の一つ泉識坊は雑賀衆の有力者土橋氏と関係があり、雑賀衆と根来衆を結び付ける働きをした。このように根来寺では、武力集団である行人方が学侶を押さえ、その実力をもって一山を動かすようになっていった。
・伝法院 ・境内の瓦に根来寺の紋-三つ柏 ・弾痕址が残る国宝の大塔(多宝塔)
(2010/04)
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戦う根来衆
戦国時代になると根来衆は守護畠山氏を援けて河内に出陣、永禄四年(1561)の教興寺の戦いでは畠山軍の一翼を
になって奮戦、多くの犠牲を払った。その後、打ち続く戦いに備えて根来寺一帯は城塞化が進められ、
西坂本の西に五メートルの濠を設けた西山城を造営、前山には土塁を築き、行人方の院が集中する蓮華谷川の左岸には
弓矢・鉄砲戦用の地下壕や物見櫓が設けられた。フロイトの『日本史』には、「絢爛豪華な城のようであった」と
記されている。また、根来寺衆を「彼らの仕事は常に軍事訓練」を行うことであると本国に報告している。
戦国大名を凌駕する広大な所領と経済力、そして、先端兵器である鉄砲を装備した戦国最強の軍事勢力へと変貌をとげていた。
大名並みの勢力を有するようになったとはいえ、元来が寺院である根来寺は武田氏・上杉氏、あるいは織田氏といった
戦国大名とは違っていわゆる寄合所帯であった。そして、行人方の旗頭である津田明算が率いる杉之坊、
岩室坊清誉が率いた岩室坊らが並び立ち、雑賀衆との関係が深い泉識坊などもあり、根来衆の内部は一枚岩というものではなかった。
たとえば、信長と本願寺が戦った石山合戦に際しては、各勢力がそれぞれの利害に応じて、織田方につく坊、あるいは本願寺方に付くと坊というように複雑な様相をみせている。根来寺とも近い雑賀郷の雑賀衆は本願寺に味方して信長と対立したため、天正五年(1577)、信長の征伐を受け圧倒的な信長軍のまえに雑賀孫市らは降伏した。このとき、監物算正は織田信長に味方して泉州日根郡佐野城の城番となり雑賀衆への備えに任じた。
天正十年六月、本能寺の変で信長が横死すると、羽柴秀吉が信長の後継者として台頭してきた。秀吉は対立する柴田勝家・滝川一益らを倒すと、着々と天下人としての立場を確立していった。秀吉の台頭を快く思わない織田信雄は、天正十二年(1584)、徳川家康と結んで反秀吉の兵を挙げた。いわゆる小牧・長久手の戦いで、徳川家康の依頼を受けた根来衆は雑賀衆とともに豊臣方の岸和田城を攻撃するなど秀吉の背後を脅かした。ところが、家康と秀吉が和睦に及び、天正十三年、秀吉の紀州征伐が開始されるに至った。
豊臣秀吉の根来攻め
根来衆は雑賀・太田(紀)の党と手を結び、二万の兵をもって秀吉の進撃を阻止しようとした。対する秀吉は
岸和田城主中村一氏を先陣として筒井定次・堀秀政・細川藤孝・豊臣秀次・豊臣秀長ら十万の大軍を発し、
加えて毛利水軍に出陣を要請し九鬼嘉隆を雑賀先に出撃させた。途方もない豊臣の大軍を紀州連合軍は千石堀、積善寺、
畠中、沢など泉州の山手・浦手に築いた城塞群に拠って迎え撃った。
天正十三年(1585)三月、岸和田の南に押し出した秀吉軍から戦端が開かれた。紀州連合軍は得意の鉄砲を放ち、
大筒を発した。根来衆・雑賀衆の名人芸ともいえる射撃によって寄手の軍勢は多大な犠牲を強いられ、
紀州連合軍の勢いは盛んであった。ところが、秀吉軍の一翼をになっていた羽柴秀次の手兵・吉田孫介の射込んだ火矢が
城内の硝煙蔵に燃え移り、千石堀城は大音響をあげて爆発、城兵千六百人は城ともに吹っ飛んでしまった。
ついで積善寺城、沢城も落ちると紀州連合軍は雪崩をうって紀州へと退却していった。
勝ちに乗じた豊臣軍は峠を越えて根来寺に攻め寄せると、根来衆は最期の抵抗を示した。とくに本山を守った
津田照算の奮戦はすさまじく、最期の最期まで豊臣勢と戦ったすえに討死したという。かくして、三月二十三日、
大手口坂本城門、搦手口桃坂城門を突破した秀吉軍のために、さしもの根来衆も瓦解、根来寺は炎上の憂き目にあった。
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千石堀城址を訪ねる
北西より北城を遠望 ・北城主郭への大手 ・主郭を捲く横堀 ・北腰曲輪より主郭を見る ・城址一角の古墓群 |
北城と南城を隔てる千石堀 ・南城の主郭 ・千石堀を隔てて北城を見る ・南城の曲輪 ・南城の大堀切
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その後、根来寺の再興は許されなかったが、江戸時代に入って紀州徳川家の外護を受け、大門・伝法堂・常光明真言殿・不動堂など主要な伽藍が復興された。加えて、覚鑁上人の功績が称えられ、東山天皇より上人に「興教大師」の大師号が下賜された。こうして、根来寺は復興なり、真義真言宗の法灯は現代へと受け継がれたのであった。
余滴
昭和五十一年(1976)より根来寺の発掘調査が行なわれ、水田・畑や宅地となっている区画から、天正十三年の合戦で
焼けた赤い土、建物や井戸の跡が発見された。そこからは中国や朝鮮から輸入された多量の陶磁器、
日本各地の陶器や土器、法具・武具・装飾品などが出土し、戦国時代の根来寺が大変な富を蓄えていたことが判明した。
調査ののち発掘地はゴルフ場や道路になってしまったのは何とも残念なことだが、
いまも根来寺の地下には戦国時代の歴史が静かに眠っているのである。
・2011年02月10日
【参考資料:和歌山県史/岩出町史/
根来寺 公式ホームページ ほか】
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